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ドストエフスキーを初めて読んだのはいつのことだろう。最初に買ったのは『カラマーゾフの兄弟』だった。高校3年の夏休みのことで、角川文庫版のものだった。それも上下中の3巻本になっているうちの上巻しか高校時代には買っていなかった。 3年の夏休みは2年の半ばから引き続いてゲーテに関心を向けていたようで、『ゲーテ詩集』や『ファウスト』などを購入している(但し、『ファウスト』を読了したのは大学の1年のことだが)。また、同じ夏休みには三木清の『哲学入門』島崎敏樹の『心でみる世界』、さらにはショーペンハウエルの『哲学入門』(旺文社文庫版のもので、これはショーペンハウエルの主著である『意志と表象としての世界』の簡略版だった)や『幸福論』、松尾芭蕉の『奥の細道』、鴨長明の『方丈記』などを読み漁っていた。 そうした中でドストエフスキーにも触手が伸びたようだが、実際には読了はしなかったのである。というより、上巻のさわりの百頁ほども読めたかどうかだったのだ。 『カラマーゾフの兄弟』を読まれた方なら、あるいは西欧の文学書を読まれた方なら事情は分かるだろうが、向こうの本格的な書物は前書きが長いのである。物語の大枠や時代背景、物語の中に篭める作者の意図など、延々と続く。これが未だ本格的な本を読みなれない者にはきつい。結構なハードルとなる。 実際、私もそのハードルを越えることが出来ず、二度ばかり挫折して高校時代は終えている。なんて説明の多い、つまらない小説なんだ、こんなものの何処が面白いのか、というのが印象だったろうか。 それに再度挑戦したのは大学の1年の夏のことだった。私は郷里で夏休みを迎えていた。大学時代という濫読時代に突入していたこともあり、長期休暇とかに関係なく様々な本を読み倒していったのだが、その夏休みは受験勉強のために高校2年の頃から与えられていた屋根裏部屋で扇風機を強にして、読書に耽っていたのである。 たまたま何かの本を読んでいる合間に、不図机の傍の作り付けの棚を眺めると、幾冊かの読み残しの本が目に付いた。 あるいは正確には覚えていないのだが、大学に入ることが決まってから、入学前の春休みから、それまでの蔵書の目録作りを始めていて、大学最初の夏休みにも、読書の合間に気分転換の意味もあって、より本格的に蔵書目録作りをやるようになっていた。 凝り性の私は、その際、購入した書籍の購入日だけではなく、読み終えた日付さえ記入するようになってしまったのである。 となると、読み終えていない本がどうしても気になるというわけである。また、カネがないわけだから、おいそれとは本が買えない時もある。そうした中で、『カラマーゾフの兄弟(上)』が読了日が当然記入できず(できない本はそれ以外にも何十冊とあった。大学の1年の間に大半を消化することが出来た)、目の上のタンコブみたいに映ってきたのである。今度こそはという思いは強かった。しかし、やはり最初の百頁は相変わらず高いハードルのようだった。 が、一旦、その敷居を乗り越えてしまうと、今度は読書の手が止められなくなってしまった。とうとう、未明までには上巻を読み終えたのだが、白々と明ける空を睨みつつ、もう、続きが読みたくてたまらないという思いで一杯だった。 その朝は興奮が冷め遣らず、家中の者が未だ寝静まっている中、こっそりと家を抜け出し、神通川にまで足を運んだ。ゆっくりと対岸に朝日が当たっていく様子や川面の揺らめきを眺めながら、改めて哲学や思想、文学の世界の奥深さを感じていた。 書店が開くのは何処も同じで朝の10時と決まっている。私は書店の前で開店を待ったのは、あれが最初で最後だったような気がする。角川文庫の中・下巻を購入して、真っ直ぐ家に帰り、その続きを読み浸った。 記録によると上巻は11日の未明、中巻は13日の未明、下巻は14日の未明とある。更に記録によると、早くも翌年の9月に同じ角川文庫版で再読している。その後、『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキー全集を河出書房版や新潮社版などで揃えていて、それぞれ読破しているので、少なくとも通算で4回は読んでいることになる(恐らくは5回だと思う)。 それでもその後に出会った『罪と罰』や『白夜』『地下室の手記』などの6、7回以上には敵わないけれど、よく読んでいるほうではある。この『罪と罰』と後に出あう『夜の果てのたび』(セリーヌ)は小生の青春の文学となるのである(日本の作家では川端康成の『雪国』を幾度となく読んでいる。冒頭部分の叙述は至純な宝石だ。中島敦も好きだし梶井基次郎も好きだが、日本の作家については稿を改めて語る)。 徹夜で本を読む経験はそれまでもなかったわけではないが、その文章や表現の質において、それまでの本とはまるで異質であることは、文学に疎い自分にも分からないわけではなかった。高校時代のデカルトやパスカル、ベルクソン、ニーチェ、ショーペンハウエル、フロイトなどと並んで、自分の中で文章表現の質や密度、思考の透徹度など、本や文章読む上での基準は定まったように感じられる。 日本の思想家や文学家の本も読んでいないことはないが、少なくとも近世以降で自分を驚倒してくれる人物には出会っていない。 それにしても私は自分に哲学の才があるかどうかは論外として、文学や芸術の才があるとは全く思えなかった。若い頃は多少の自惚れ、身の程知らずな面があるはずなのに、最初からないと感じていたのは、よっぽど自分の感覚に固さを感じていたのか。 というわけで、上記したようにドストエフスキー以外はみんな哲学か精神分析学かで、およそ文学や、まして芸術とは程遠い。 無論、それぞれに名文家であり、パスカルなど芸術と言っていい輝きと密度があるが。 しかし、ドストエフスキーは少なくとも思想や哲学、心理学、宗教の本や文章を読む上での尺度にはなりえないはずである。 それでもある種の尺度の上での可能性を広げてくれたことは間違いない。そしてその自分の表現の可能性を固く閉ざしていた堰の一端を切り崩してくれることにも後年にはなるのである。 |