日曜日、久しぶりに展覧会に足を運んだ。江戸東京博物館での「円山応挙
<写生画>創造への挑戦」展を見てきたのだ:
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/2003/ki_2-3.htm
円山応挙(1733〜95)。今更、小生などが殊更に解説などを加える必要など、
ないと思われる。いろいろ興味深く見た中で、海外からの里帰り作品《幽霊図
(お雪の幻)》が何故か妙に印象に残った。ちょっと驚いたし、惜しいなと思
ったのは、彼の作品として、嘗ては知られており、図録などにも載っていたの
に、今は所在が知れないものが相当数に上ること。
そうした作品(図録に掲載されていた写真だろうが)が、小さ目の写真で多
数、並べられてていて、その中に構図も含め、気を惹く作品があった。今も何
処かの旧家の蔵にでも死蔵されているのか、それとも戦災などで消失したのか。
見たいものである。
さて、展覧会を見終え、スクーターに乗って帰ろうとしたら、交差点で信号
待ちになった。すると、眼前には回向院が。
この寺があることは、以前から知っていたが、いつも通り過ぎている。時代
劇でもしばしば登場するし、何か謂れのある寺だとは思うが、いつか調べよう
と思いつつも、そのままになっている…。
などと思っていて、帰宅し、一服後、読書した。先日来、読み始めている立
川昭二著『江戸 病草紙』(ちくま学芸文庫)である。
せっかくなので、帯にある本書の宣伝文句を転載しておく:
江戸時代を生きた人びとは、病気をどのように見つめ、それとどのようにつ
き合ってきたのだろうか。彼らはいかなるむごさとやさしさのなかにあった
のだろうか。この時代、もっとも恵まれていた将軍の子女でさえ、大半が乳
幼児期に死亡し、ひとたび疫病が猛威をふるえば大量の死者を算し埋葬さえ
おぼつかなくなったが、その痛苦と畏怖の彼方にはいのちの痛みをわかち合
う「文化」があった。過去の痛みを追体験し、現代において病むことの意味
を問い直す力作。
目次として、次のような項目が並ぶ:
お松の場合 馬琴の場合 庶民の証言 外国人の証言 飢餓と疫病 異常気
象とインフルエンザ 痘瘡 梅毒 結核 コレラ 食生活と病気 寄生虫病
と風土病 女と子どもの病気 精神病 鉱山病 医療環境 平均寿命―どれ
だけ生きられたか
で、小生が日曜日の夜に読み始めたのは、「結核」の項だった。その章を読
み始めると、次のような記述が:
明暦三(一六五七)年一月十八日、本郷丸山の本妙寺から出火、おりからの
北西風にあおられて燃えひろがり、さらに翌十九日小石川伝通院からも出火、
十九日燃えつづけ、江戸城をはじめ、八百八町のほとんどを焼きつくした。
焼死者十万七〇四六人、死者は本所に埋葬され、回向院となった。この江戸
第一の大火、「明暦の大火」を、べつに「振袖火事」ともいう。
以下、「出火の原因について、ひとつの因縁話が語りつがれたからである。」
として、その因縁話が書いてある。
その詳細は、下記サイトを参照:
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?
ac1=BGG2&ac2=&ac3=1497&Page=hpd_view
この「振袖火事」という「物語」では、「振袖によって肺結核が思春期の娘
に次々と伝染していった」という筋書きになっているが、「けっして辻褄のあ
わない話ではない」と立川氏は書いている。
さらに、「この大火と振袖との因縁話は、当時肺結核が流行し恐れられてい
たこと、それがおもに青年子女を冒していたこと、そして当時の人びとがこの
病気は感染するものであることをおおよそ察知していたことを物語る」と本書
では続く。
一瞥に過ぎないとはいえ、久しぶりの展覧会の帰りに回向院を見たこと、帰
宅して読書したら、最初の頁にやはり回向院が登場したこともあり、これも何
かの縁だろうと思い、少しだけ、回向院について調べてみた:
http://www.tostek.com/tokyo23/omaturi/jisya/jin047.htm
回向院は、上記の引用文にもあるように、「この年、江戸には「振袖火事」
の名で知られる大火があり、市街の六割以上が焼土と化し、十万人以上の尊い
人命がうばわれました。回向院の開創はその直後」とのこと。
火事で亡くなった人は、多くは身元も分からず、無縁の亡骸が幕府に与えら
れた、「万人塚」という墳墓に葬られたのである。その場所で無縁仏の冥福を
祈る法要が行われれ、その際に、「お念仏を行じる御堂が建てられたのが、回
向院の歴史の始まり」なのだとか。
「江戸時代の回向院は、正式の名称を「諸宗山無緑寺回向院」」と呼ばれたと
いう。「無緑の人びとの宗旨がさまざまであることを配慮し、あえて一宗一派
にとらわれずに無縁供養をおこなうお寺、という意をこめて、こう名づけたの」
だという。
このような縁起もあり、「火災・風水災・震災などで横死した無縁仏を葬る
ならわしが、幕府や市民の間に生まれ」回向院は、「「御府内総檀家」の寺と
して、日本一の無緑寺へと発展をと」げたのだという。
この回向院、無縁の仏ばかりではなく、有縁の著名人も葬られているとのこ
とで、例えば、戯作者、山東京伝の墓もあるという:
http://kibyou.hp.infoseek.co.jp/kyouden/kyouden.htm
義賊・鼠小僧次郎吉の墓もあるとか:
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-edo/nezumikozo.htm
鼠小僧次郎吉の「墓石は「盗人の墓を削り取ったものを持っていればギャン
ブルに強くなる」という俗説のため大量に削り取られてい」るのだとか。
そういえば、鼠小僧次郎吉の墓に詣でるのは、ギャンブラーばかりではなく、
受験生も合格祈願に詣でると聞いたことがある。次郎吉みたいに、「するり」
と入りたい一心で。
下記サイトを見ると、鼠小僧次郎吉の墓に纏わる話が読める:
http://www.tokyo-np.co.jp/miyako-np/main/main030211.html
ところで、このサイトによると、次郎吉は、「約10年間で99軒の大名・
旗本屋敷に侵入、計約3120両を盗み出した」と自白したのだとか。
04/03/24 記
2.円山応挙のこと
過日、江戸東京博物館での企画展である「特別展 円山応挙 <写生画>創造へ
の挑戦」を見てきた:
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/2003/ki_2-3.htm
小生の絵画に関する知識は乏しい。円山応挙(1733〜95)についても同様であ
る。知っていることといえば、彼の幽霊画である。
この特別展でも、「幽霊といえば応挙、巷の評判がこんな噺(はなし)を作り出
しました。応挙の幽霊は、瞬く間に人々の心に棲みつきす。応挙の描いた、白い
装束に足のない幽霊のスタイルはその後の幽霊画の定番となったほどです。」と
いう謳い文句のもと、特別上演として、「古典落語 「応挙の幽霊」」があった
ようだが、小生は聞き逃している。
では、彼以前に幽霊という概念(それとも観念)がなかったのだろうか。仮に
あったとして、人びとは幽霊というと、どんなイメージを思い浮かべたのだろう
か。もっと、妖怪的な像なのか、あるいはやはり霊的な像だが、具体的な形には
結ばれていなかったのだろうか。知りたいものである。
「架空の生物である龍、この世のものでない幽霊、当時見ることのできなかった
虎…。」を描いた応挙。今回の企画では、下記の構成となっている:
からくりのある絵 : 視覚トリック
実の写生 : 現実のものの姿を写す
虚の写生 : 架空の存在ながら心にあるイメージを写す
気の写生 : 生命感や風情、品格を写す
虚実一体空間 : 絵の中の空間と現実空間の融合
その中の虚の写生ということで、幽霊などの絵が紹介されている。が、幽霊は
虚なのだろうか、それとも、心の根源に食い込む実の極致なのだろうか。あると
は証明されないが、ないとも証明のしようのない、ひたすらに心にリアルな存在、
それとも虚的実在?
円山応挙は「写生の祖」と呼ばれている。その彼が、幽霊画というとあの足の
ない髪の乱れた若い女性の像を描いた。これは矛盾していることなのか、それと
も、写生の極とは、そうした世界に行き着いてしまうものなのか。小生には、瞑
想を誘う謎である。
下記のサイトを読むと、応挙の幽霊画の秘密の一旦に触れることができる:
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/030816.htm
なんと、応挙は美人画を「中国で発達した「人相学」」に基づいて描いたのだ
とか。
「応挙の幽霊のリアリティ。それは人相学から学んだ顔の表情でした」というの
である。
長らくアメリカに流出していた応挙の里帰り作品《幽霊図(お雪の幻)》を紹
介することも、今回の企画の大きな目的だったと思われる。
さて、やがては幽霊画をも描くに至る「写生の祖」と呼ばれる応挙。その写生
の技法を彼は意外なところから摂取している。それは、今回の企画展の構成にも
ある「からくりのある絵 : 視覚トリック 」に関係する。詳しくは下記のサ
イトを参照願いたい:
「円山応挙と眼鏡絵」 横 山 実
http://www2.kokugakuin.ac.jp/zyokoym/maruyamao.html
ここには、次のように遠近法の前史が書かれてある:
「大和絵といわれる伝統的な絵では、遠近法が用いられていなかった。江戸時代
に、遠近法で描かれた絵が、長崎から入ってきて、日本人は、それに注目するこ
とになった。遠近法を取り入れた絵は、まず、元文(1736-1741)に、浮世絵師
の奥村政信によって描かれた。それは、当時、評判となり、絵が浮き出て見えた
ことから、浮絵と呼ばれた」
「1750年頃になると、西洋で創出された「覗きからくり箱」」(但し中国製)
が日本に輸入される。「覗きからくり箱には、入り口にレンズが取り付けられて
いた。そこから、45度に傾けた鏡に映る絵を見ると、その絵は、奥行きが深く
見えた」という。
覗きからくり箱用の絵こそが、眼鏡絵と呼ばれるもので、「円山応挙は、この
眼鏡絵を描くことによって、絵師としての名声を獲得したの」だという。
つまり、こうした「遠近法を駆使した眼鏡絵との出会いこそ、彼に写生の極意
を会得させるきっかけになったの」だというのだ。
円山応挙は、工夫を重ね、「彼独自の眼鏡絵として、京都の風景を描いた」。
それが、『四条河原遊涼図』である。その画像をトックリと眺めてもらいたい。
「円山応挙は、1733年に丹波の小農の家に生まれ」ている。その彼が多くの
有力なスポンサーを獲得し、将来大成する契機になったのだ、この眼鏡絵であっ
たわけだ。出会うべくして出会った奇縁なのだろうか。
応挙は、俯瞰図も描いている:
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/tojinyasiki/history/history_2.html
その細密振りには、驚かされるが、それなりに常識的な構図かもしれない。そ
れ以上に題名は忘れたのだが、鳥瞰図とでもいうのか、ある川の両岸の光景を、
まさに川の真上から描き、それぞれの両岸が上空から見たがままに描いている。
だから、展示されている作品を一方から見ると、対岸が上空からだが普通の光景
に見えるが、此岸は逆立ちして見えるわけである。この発想が面白い。
それにしても、何故に日本、あるいは東洋では欧米で発達した遠近法の技法が
生まれなかったのだろうか。世界観に関わる秘密があるのだろうか。その辺の事
情に詳しい人がいたら、教えて欲しいものだ。
応挙の絵を見ると思うことは尽きない。深みに嵌ると抜け出せそうにないよう
な気がする。足元の明るいうちに、さっさと切り上げさせてもらう。
幽霊画というと、誰でも浮かぶのが、円朝であろう:
「円朝まつり(全生庵)」
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/gyouji/entyou.html
かの、松岡正剛氏が扱う小島政二郎著「『円朝』上下」も興味深い:
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0787.html
江戸の遠近法については、下記の書が参考になるかもしれない(小生は未読):
『江戸の遠近法―浮絵の視覚』(岸 文和著、勁草書房刊):
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4326800313.html
この中でも、円山応挙の作品《両国橋夕涼大浮絵》が扱われている。
04/03/30 記
<追記>
先月3月21日に行ってきた円山応挙展のカタログがやっと届いた。当日は、カタログが売り切れになり、予約しないと入手できない状態だったのだ。送り状には「丸山応挙」と書いてあるのが、御愛想。
中を開いて、改めて円山応挙の作品を総覧してみたが、中で、「人物正写惣本」には驚いた。「老若の男女の身体を年齢の違いによって描き分けそれぞれの人体の特徴を描写している」のである。老いた男性、女性、若さを誇る女性、子供。
男性の陰茎や睾丸(袋)だけじゃなく、陰毛も描かれている。女性も。しかも、細かく。若い男の子は珍棒を弄って(?)いる。珍棒の先には、若い女性の割れ目ちゃんが。動植物だけじゃなく人間についても細密な観察をし、丁寧に描いている。これでこそ写実なのだということを円山は徹底して実践しているのだ。
04/04/ 追記