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流行らなくなって久しい演歌や歌謡曲。ポップスという新しかった潮流さえ遠 い昔のこと。 ヒットチャートやカラオケランキングでも上位に来るのは、カタカナ名のグル ープや歌手が大半。 その歌手だって、最近はアーティストとか呼ばせる。ステージ(これを舞台と 呼ぶのは演劇か歌謡曲、演歌の場合に多い)の上でスポットライトなどを浴び、 単に歌だけではなく踊り(昔は振り付けだった。特にアイドル歌手は操り人形の ようだった)も含めての総合的なショーなのだ。 歌の潮流の変化の潮目は80年代の終わり頃にきていたような気がする。 先に踊りと書いたが、踊りと言っては野暮かもしれないね。 ダンスであり、ダンシングなのだね。 [歌の下手さ、未熟さを抜群の化粧テクニックを駆使しただろうルックスと目ま ぐるしいライティングと、すばやい身のこなしとで誤魔化しているんだ、シンガ ー、アーティストというのは、プロダクションとしては使い捨ての駒、消耗品に 過ぎないのだ、などとあからさまな非難をしてはいけない] でも、CDなどに入ったら歌だけになり、下手さ加減がばれるじゃないかって? そんな心配は無用である。歌唱力の拙さは録音の高度な技術と、プロの演奏家た ちなどの優秀なスタッフがカバーしてくれるから、大切なのは見掛けなのである。 少なくとも演歌の場合、振り付けは多少はあるが、肝腎の歌を邪魔してはいけ ない。聞き手、聴衆が歌にじっくり没入できるのでなくてはならない、云々とい う忠告がスタッフ等によって与えられる。 演歌の場合、名といっても歌唱力が全てといっていい。発声法から音程から、 歌への気持ちの入れ方から(つまり、歌手が独り善がりに歌の世界に没入してい るのではいけない、プロはあくまで聞きに来る方たちが堪能できるのでなくては ならず、気持ちを入れればいいというものではない、云々)、舞台の上での観客、 聴衆との間の取り方、etc.全てを基礎から叩き込まれる。 多くの演歌歌手は、所謂ドサマワリから一歩を踏み出す。レコード店(ああ、 なんと古い名称! 今はCDショップなのだろうか)やお祭りや宴会の席や、あ りとあらゆる席で歌う。 まず、歌が全てなのである。素の、まさに生歌で遠くのお客さんにも歌が、何 と言っても歌詞が、どんな環境にあってもハッキリ聞き取れるのでなくては問題 外である。 演歌はど根性と呼ばれたりする由縁であろう。 さて、演歌というと、特に今の若い人も含め、あの暗い世界、後ろ向きの世界、 何処か負け犬根性が染み付いたような世界がなんとも嫌いだという人が多い。 最近は女性の経済力や発言力が増し、そもそも男に頼る女、女の幸せは男次第、 男に縋って捨てないで、なんてしみったれたことを言う、まして歌うようなこと 自体が気に食わないという女性も増えている。 たとえば、決して典型というわけではないと思うが、いかにも演歌という事例 を挙げておこう。 以下に例示する曲は、たまたまネットで見つけたものである。歌もあるボタン をクリックすれば楽曲全体を試聴できるようだが、小生のISDNというネット 環境では、ブチブチ途中で切れて、うんざりして聴くのを止めた。 でも、ちょっと聴くだけでも雰囲気は分かるだろう。曲名は、「恋恋ブルース」 (*作詞:佐々木ひさこ *作曲:渡辺路代 )であり、唄っているのは加藤尚子 さんである。表示された画面の「唄 加藤尚子」の部分をクリックしたら楽曲を 楽しめる: http://homepage1.nifty.com/muneuchi/song/renren-blues.htm だからといって聴くことを推薦しているわけではない。聴くことができるとア ドバイスしているだけである。 御覧になれば分かるように歌詞が出ている。著作権の関係があるのだろうから、 歌詞を引用するのは拙いかもしれないので、部分だけをつまみ食いさせてもらう: ……来ないあなたを 待ちぼうけ 朝は憎いと 恨んでも 夜は死ぬほど 恋しくて お酒呑んでは ぬくもり捜す 抱いて眠った 恋枕 未練重ねて…… 明かりを消して 抱かれていても 腕の時計が 邪魔をする 何故か今夜は 目に染みる パーラメントの 薄けむり 帰らないでと あなたに妬いて 拗ねてつないだ 恋一夜 吐息かさねて 小生に歌詞のいい悪いは分からない。好き嫌いというのであれば、好きとはい えない。あまり新味を感じない。まさに、「演歌」の旧来のパターンを一歩も食 み出していない(食み出せばいいというものでもないが)ように思える。 せいぜい、「パーラメント」が比較的新しい言葉として取り込まれているとい う程度だろうか。 とにかく、演歌が嫌いな人は、この未練たらしいところが嫌だったりする。い つまでも、前の男に拘ってるんじゃねえよ! と蹴りの一つも入れたいところだ ろうか。 さて、しかし、不思議なことに(必ずしも不思議ではないのかもしれないが)、 演歌を歌う女性(男性は分からない、正直言って、あまり興味がない)は、みん なと言っていいほど、気が強かったり、自己主張がハッキリしていたり、舞台の 上では女っぽく婀娜っぽく演じて見せる。 けれど、一歩、舞台を離れたり、まして自宅でくつろいだりしている、そんな 普段の生活の中では、所謂男っぽい方が多いという。大概の(女性歌手の)方も、 皆さん、自分でそのようにおっしゃる。 まさか自宅でステテコ姿で、亭主に向かって「おい! ビール!」などとはや っていないと思うが(分からんぞ、実態は)、思いたいが、しかし、性格的にさ ばさばした気さくな方が多いように感じる。 しかし、それはある意味で当然至極で、演歌の世界で成功するには、想像を絶 する競争や苦労や努力や自己主張や愛想笑いや外見の上でのたおやかさやらを戦 略的に戦術的に駆使してきただろうし、そうでないと生き残ることはできなかっ たわけで、気が強くないと、やっていけるはずもない。 田川寿美ちゃんにしても、可愛い顔して優しげで、ちょっと触れると(触れて みたい!)手折れそうそうだけれど、根性と執念と努力は人一倍あるようだ(ラ ジオなどで彼女の話を伺っていて、そう感じた)。 [話の流れから外れるけど、小生は、演歌では香西かおりが好きだし、新しいと ころでは音羽しのぶが好きだし、美空ひばりも倒れる直前の頃から好きになった し、森昌子が好きだし、歌謡曲では高橋真梨子が好きだし、以下、蜿蜒と続く] そうした、気の強い、場合によっては男を張り倒すかのような、あるいは男な しでも(男が好きだし、結婚だって場合によってはしたいし、実際に結婚もする のだろうけれど、結果として男なしで)生きられるかのような性分の方が、歌の 上では弱々しいような、男に縋って生きるしかないような、男に捨てられても、 下駄の雪扱いをされて蹴られても追い縋っていくような、そんな世界を歌い、演 じ上げているのである。 藤あやこなど、演歌で唄われている和服を着た、わけあり風のいい女という画 をそのまま現実化したような雰囲気を漂わせている。でも、彼女も香西かおりと か五代夏子とかと仲良しで気の合う仲間のようだ。 つまり、何を言いたいかというと、一見すると弱々しい女の世界を気の強い女 性歌手が歌っているようではあるが、実は、歌われている演歌の世界に登場する 女というのも、外見とは裏腹に、実は気が強かったり執念が凄まじかったり、自 分の信念(それを愛情と呼ぶのか、愛欲と呼ぶのか、情念と呼ぶのか、情痴と見 分けがつかないのか、我執ではないかと疑ったりするのか、いろいろだろうが) を貫いて、男に生きる女だったりするのはないか、ということだ。 時代が女たちに外見上、世間体上、女らしく弱々しげに振舞うしかない中で、 しかし、男をねばねばした粘液がベッタ塗られた捕虫網、それとも蟻地獄のよう な愛欲の海へ獲り込み、溺れさせて、結果として男を雁字搦めにしてしまう、そ んな強さが演歌に歌われる未練タップリ風な女たちに感じてしまうのである。 未練たらたら、といっても、その実、凄まじい妄執に追い縋られる男たちは、 最初は俺ってモテモテ状態と自惚れていても、やがては女の執念と罠に嵌って落 城して果てるわけである。 さて、時代は変わってきた。徐々にではあるが、日本の女性たちも経済力が付 き始めてきた。 もう、昭和のような弱々しいかのような戦略を採る必要も必然性も失われつつ ある。男が好きなら、たおやかさや単なる優しさや奥床しさや一歩あとを歩くよ うな、まだるっこしい振る舞いも戦略も不要になってきている(完全にはなくな らないだろうが)。 そうした中で演歌とは、どうあるべきなのか、懐かしいパターンに縋ってばか りもいられないはずであろう。 演歌は、もともとは、明治や大正の流行歌に始まり、演説をテンポやメロディ に乗せて行ったのが、最初とも聞く。そして、戦後、花開いた。 オッペケペ節が懐かしいという人さえ、もう存命されているのだろうか: http://www.asahi-net.or.jp/~kg3a-unzw/pepop.htm 今の時代や世相を、もはや演歌に限らず、ポップスだろうが、何だろうが一つ のジャンルで代表させようという発想自体に無理があるという考え方もある。 日本人という括り方自体が、もともと無理があったのであり、日本的な女性と いうイメージも昭和という時代と共に遠ざかる一方なのだろう。 一旦、バラけたなら、女性に限らず男性も生き方も理想も求める世界も夢見る 夢も多様になったなら、それはパンドラの箱を開けたようなもので、どんな世界 が現出するのか想像も付かない。 一人一人には小さな視野の中ではコスモスとしての世界であっても、視野を広 げると、変幻し変転し流転し多様さに眩暈するようなカオスとしての世界(世の 中、乱れとるんじゃないか)としか思えないような現実が歴然と現れてくるのだ ろう。 一人の平凡なる、やや古い世代に足場を置く男たる小生には、これでエンカい なと、チト寂しいが、しかし現実の豊かさ多様さを至上と考えるなら、それはそ れで仕方のないことなのだろう。 02/11/04 |