虚構とは何だろう、なんて大袈裟なことを考えるつもりはない。また、その能
もない。ま、虚構という言葉をめぐって気侭に散歩してみようというだけのこと
である。
分からない言葉の語義などを調べる際には重宝する「広辞苑」。地図代わりに
「広辞苑」で「虚構」を調べると、「事実でないことを事実らしく仕組むこと。
また、その仕組んだもの。作りごと。フィクション。」とある。
これを読んで成る程! と納得すべきなのか。それとも、語義について一般的
な説明を施すのが役目の「広辞苑」に「虚構」などという微妙というか、人それ
ぞれにその人なりの受け止め方なり印象なりを抱いて構わない言葉の説明を求め
るのが最初から無理のあることなのか。
ただ、それでも虚構という言葉は一人歩きしている。小生も分かってなどいな
いくせに、時折、そんな言葉などを持ち出して、一層訳の分からない世界へ舞い
上がろうとする。
土台というかブロックとして使われる基本の言葉である「虚構」への理解が曖
昧だったり、いい加減だったりするのに、そのコンニャクよりプヨプヨのブロッ
クを積み上げて、空想の楼閣を作り上げようとする。
「事実でないことを事実らしく仕組む」そのように説明されると、分かったよう
な気がするが、しかし、では事実って何? となると、たちまちスコラ哲学的泥
沼に落ち込んでしまう。小生なども、たまに虚構作品を書くことがあるが、さて、
では小生は虚構ということを意識して創作しているのかというと、実のところ、
そうではない。
一応は事実なり思い出なり、その日に得た印象なり感情の揺らぎなどを糸口に
作品作りの世界に突入していくのだが、その意味で、とば口としては、実際にあ
ったこと、少なくとも現にある感情の揺らめきに縋って、その揺らめきに沿うよ
うな言葉を選択したり、あるいは沿わない言葉を排除したり、逆に感情とは全く
裏腹の言葉を敢えて使うことで作品に陰翳を施してみたりする。
つまりは、書く端緒においては現実の世界との繋がりが多少なりともあるわけ
である。どっちにしたって、書く自分が現実の世界にいるわけで、その厳然たる
事実は微動だにしないのだろうから。
が、一旦、自分の抽斗から何某かの言葉なりフレーズなりが空白の画面にポツ
ンと置かれると、もう、そこには現実とは懸け離れた世界への誘惑の魔力が働き
出す。自分としては過去の体験か、その日の印象を忠実に描こうと思うのだけれ
ど、言葉は、悲しいかな(それとも有り難きかな、かもしれないが)、描かんと
した何か、物質的恍惚たる情感の世界とは決してぴったりとはそぐわないし、サ
イズが合わないし、ここにある肉体としての感情に出来合いのスーツを選んでむ
りやり着せ掛けようとするようで、体がぎごちなくなってしまう。
という以上に、空白の時空に置かれた幾つかの言葉は、勝手な存在感を主張し
始めてしまって、端緒にあった描かれるべき事実や現実の感情を尻目に、選択さ
れた言葉が命を持ち始める。蠢き始めてしまう。
言葉は全てにきっと命があるのだ、その言葉なりの時空への牽引力が備わって
いるのだ、その言葉なりの歴史があるのだ、そう思えてならなくなるほどに、言
葉の持つ現実感というのは小生には凄まじく感じられてならないのである。
このように書くと、小生の実生活の持つ現実感の乏しさを嗅ぎ取ってしまう向
きもあるかもしれない。生活が侘しかったり、精神的な中身において貧相だった
りして、つまりは、現実の生活より言葉のほうがはるかにリアルなのだ、言葉に
圧倒されてしまうほどに小生という人間が現実から一歩身を引いてしまっている
姿勢が透けて見えてしまう…。
そう言われると、小生はあっさりと引き下がるだろう。
そういえば、学生の頃、サタイアの精神で文学や思想をと息巻く友人の前で、
小生は、リタイアの精神だ、なんて冗談めかして口走ったことがある。
サタイア、つまりは諷刺の精神ということなのだろう。それに対しリタイア。
何とも切ない情ない精神である。
が、その時、思っていたことは、現実という世界(と書きながら、その世界も
輪郭が定かであるとは言えない)を軽く囲繞してしまう虚の世界の奥深さという
ものだった。というより、世界は想像を絶するほどの我々には虚としてしか、も
っと卑近な表現を採ると闇の世界とか曖昧な世界、ありえない世界、ありえるは
ずもない世界、かつてあったこととは違う世界、息絶えてしまって声を発するな
ど思いも寄らない世界、妄想の鳥には羽ばたこうにも気の流れの元などない世界
の錯綜した世界の予感としてしか思い浮かべることのできない、そうしたものと
してしかありえないのだろう。
そうした世界こそが、圧倒的に<ある>のであって、我々が見聞きしえる現実
の世界というのは、そうした白と黒の溶暗の海に辛うじて浮かぶ小島ほどのもの
なのだと感じてしまうのである。
ホームレスの人が公園の植え込みの奥で絶命する間際に何を思ったかなど、誰
にも決して分かるはずがない。事実などに定着などするはずがないのだ。水子と
して闇から闇に流される命の塊は、言葉とは無縁であり、沈黙の海の底深くで何
を思うかなど、誰が知ろうか。殺されたものは皆、沈黙の海に沈んでいく。弱き
者は強き者の強弁の巌に押し潰されていく。今わの際(きわ)の悲鳴さえ聞えな
い。
見上げた空の彼方、踏み締める大地の裏側、目を閉じてこそ仄見えてくる赤黒
い闇の海の底、吐いても吐いても吐き尽くせぬ嘆きの腸を抉る潰瘍という悲しみ
の塊、風に吹かれ散り敷く枯れ葉の堆積、オンリーワンなど夢のまた夢である屑
か塵たちの吹き溜まり、何処かの瀟洒なマンションの一角の開かずの扉の向こう
側、駅のガード下の壁に擦り込まれた肉の欠片、そのどこにもロマンがある。
ロマンを信じるとは、1プラス1が2よりも膨らみを持つことを信じること。
虚構作品を綴るというのは、事実ではないことを事実らしく描くのではなく、
事実や現実や想像や妄想や、ありとあらゆる<我、思う>ところの想念の時空、
想像力の複素時空を、もっともらしい言葉の連なりに、つまり事実らしい形に定
着してみせる営みなのだと思う。
人が思うことそのもの、人が思い感じ表現することは、ただそれだけで得体の
知れない何事かの連なりの島、掴める筈もない闇の海に浮かぶ島を目掛けての航
海、言葉には決してならない、まして事実とか事実ではないという括りとははる
かに懸け離れた世界への旅のことなのだと思う。
虚構とは言い得て妙な表現だと、つくづく思ってしまう。<われ>を圧倒する
見えざる聞こえざる感じられざる触れえざる闇の海から、今にも引き千切れそう
な蜘蛛の糸に縋りながら、その大海のほんの一滴を掠め取る営為なのではないか
と想ってしまう。事実とは無縁の虚の世界のもやもやした雲を言葉の島に停泊さ
せること。虚を形に瞬時にして量子力学的崩壊させること。
自分などというものは、闇の宇宙と空白の時空の交差する一つの契機なのだろ
うと感じる。ほんの時折、空白の時空にもう一つの宇宙が擦過する際に走る火花
を見かける。その見かけた閃光の一瞬の煌きをそのままに手中にしたい。その意
味で、虚構の空間とはロマンで漲る夢の時空なのだ。
04/01/29 記
2.エッセイと虚構の間に
小生はエッセイが苦手である。というよりエッセイとは何かが分からない。
分からないままにエッセイと称している。もっと大きく言うと、そもそも文章
を書くとは何ぞや、という次元にまで至ってしまうので、ここでは控えておこ
う。
最初の頃、まだいまほど厚かましくはなかった頃、ネットであれこれ書き始
めた頃は、エッセイとは称さないで小文とか一文とか、さらにはやや卑下とい
うか謙遜というのか、気恥ずかしさと気の弱さもあって、人になんだそれ、な
どと言われないよう予め予防線を張る意味でも、当り障りのない呼び方をして
いた。
でも、段々、面倒なので、エッセイに統一してきた。だからといって、エッ
セイとはこういうものだという理解が進んだわけでもなければ、まして自分な
りのスタイルが固まってきたわけでもない。
ただ、もう、勝手にエッセイとは身辺雑記であり、あるいはもっとテーマ性
のある、とても随筆的なニュアンスでは括れないようなものまで、その全てを
容れることのできる度量の大きな表現世界と勝手に決め付けて、エッセイだと
自称しているだけなのである。
そもそもエッセイとはなんだろう。随筆とはどう違う。エッセイを日本語に
訳したら随筆となるだけのことなのだろうか。
困った時の『広辞苑』だ。エッセーとして、「(1)随筆。自由な形式で書
かれた思索的色彩の濃い散文。(2)試論。小論。」とある。
続いて、エッセーとして「(「随想録」と訳す)モンテーニュの主著。」と
あった。なんだか簡単すぎて呆気ない。
でも、モンテーニュの主著である「エッセー」を学生時代に読んだのを思い
出した。すでに四半世紀以上を経た昔である。内容はすっかり忘れた。河出書
房新社刊の「世界の大思想」で読んだことだけは覚えている。
その頃は自分がエッセイを書くとは夢にも思わなかった。高校入学の頃から
日記を書き始めていたので、自分が書くものというと、日記以外には考えられ
なかった。エッセイは勿論、小説も論文も全て論外の世界だった。それらは、
その分野に長けたプロが書くものと思い込んでいたのだ。身近にそうした世界
に挑戦する人も全くいなかった(正確には居たかもしれないが、狭い交流の中
には見つけられなかったというべきか。実際、小生の郷里に文化の香りを感じ
たことは、悲しいかな全くなかったのである)。
ネットで、モンテーニュがエッセーをどう考えているか、自らの言葉で語っ
ている文章を読むことが出来た(手元には、もう、「随想録」はないのだ):
http://www.max.hi-ho.ne.jp/rkato/Document/essay/essaytop.htm
エ セ ー Les Essais de Michel de Montaigne
ミシェル・ド・モンテーニュ
読者に
読者よ、これは正直一途の書物である。はじめにことわっておくが、これを
書いた私の目的はわが家だけの、私的なものでしかない。あなたの用に役立て
ることも、私の栄誉を輝かすこともいっさい考えなかった。そういう試みは私
の力に余ることだ。これは身内や友人たちだけの便宜のために書いたものだ。
つまり彼らが私と死別した後に(それはすぐにも彼らに起こることだ)、この
書物の中に私の生き方や気質の特徴をいくらかでも見いだせるように、また、
そうやって、彼らが私についてもっていた知識をより完全に、より生き生きと
育ててくれるようにと思って書いたものだ。もしも世間の好評を求めるためだ
ったら、私はもっと装いをこらし、慎重な歩き方で姿を現したことであろう。
私は単純な、自然の、平常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。と
いうのは、私が描く対象は私自身だからだ。ここには、世間に対する尊敬にさ
しさわりがない限り、私の欠点や生まれながらの姿がありのままに描かれてあ
るはずだ。もしも私が、いまでも原始の掟を守りながら快適な自由を楽しんで
いるといわれるあの民族の中に暮らしているのだったら、きっと、進んで、自
分を残る隈なく、赤裸々に描いたであろう。読者よ、このように私自身が私の
書物の題材なのだ。こんなにつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を
費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。
モンテーニュにて。1580年3月1日。
(引用終わり)
この文章を読んで、一気に記憶が蘇った。特に、「つまり彼らが私と死別し
た後に(それはすぐにも彼らに起こることだ)」という辺りは、まだ若かった
はずの小生に妙に印象的に感じられた。
この文章を読むと、このフォーラムでのエッセイの名手である、Nさ
んのことをすぐ思い浮かべる。彼はまさにモンテーニュの「読者に」にある通
りの世界をエッセイの形式で表現されていると感じる。ある意味、彼なりに確
立されたスタイルがあると思う。
もとより小生は彼に対抗する気などないのだが、若干の(実は相当の)ジェ
ラシーを覚えつつ、彼のエッセイを読む。自分には真似が出来ないと思って読
んでしまう。
そこで、小生はエッセイを試論とか小論とか「自由な形式で書かれた思索的
色彩の濃い散文」ということで、とにかく勝手な文章を綴ることにしてしまっ
た。つまりは開き直りである。さすがに「思索的色彩の濃い」というのは、引
っ掛かるが、そこはまあ、目を瞑るのである。
そもそも、小生は中学や高校に入った頃はともかく、高校二年のある日、哲
学に目覚めて(文学には、一年の時に読んだ「ジェイン・エア」の影響で開眼
させられた。それまでに読み漁ってきた世界とはまるで違う世界を感じさせて
くれた)、以来、哲学関係の本を中心に読書してきた。
モンテーニュも随筆とか文学の範疇ではなく、あくまで「世界の大思想」の
一巻として入っていたので、古典を読み尽くそうという若々しい野心の賜物で、
彼に行き当たり、訳も分からずに読み、右の耳から左の耳へ、まあ、通過して
いったわけである。
大学も哲学科に在籍したが、ひたすら読書に時間を費やした。哲学の授業に
も出たのだが、自分に学問としての哲学の才能がないと悟って、さっさと学問
の世界からは遠ざかった。
しかし、哲学(無論、文学や科学などのできる限り広範囲の読書も含めて)
から離れたわけではない。
現代は科学の発展が凄まじい。その専門分野の人間でも、際限もなく細分化
された一分野を研究し情報を追いかけるのに精一杯である。哲学が扱う分野と
いうか、領域がどこまでも削られていく。哲学の身が痩せ細っていく。医学も
心理学も歴史も人類学も宇宙論でさえも、確固たる情報、最新の情報や認識は
哲学者に聞くのではなく、個別科学の専門家に尋ねる。
今では、当たり前の光景なのかもしれないが。もう、哲学というのは、教養
の一環として、ギリシャやローマの哲人の言葉が個別細分化された専門書の巻
頭の飾りとして使われる程度になってしまった。
さて、では、一個の何らも教養もなければ、何か特定の分野の専門家でもな
い自分は、一体、人生や大きくは世界をどう理解したらいいのだろう。必要に
応じて専門家に聞く? なるほど、それは正解なのかもしれない。
しかし、一体、誰に尋ねたらいいのだろう。また、尋ねたところで、自分が
求める究極の理解、得心の行くビジョンを示してくれるだろうか。あるいは自
分の乏しい理解力で追いつくような説明を得ることができるのだろうか。
個別の専門科学が増えれば増えるほど、一個の疑問に対して膨大な情報が与
えられるに違いない。心強いことである。しかし、でも、それだけ膨大な情報
を追えるくらいなら、とっくに自分だって一人の専門家になりえるわけである。
それができないから、心許ない状態でいるわけなのだ。
ここで初めに帰ってくる。エッセイとはある何かのテーマについての理解を
試みること、エッセイを書くとはその理解の試みの軌跡を綴ることなのだと改
めて思われてくるのである。
例えば、電磁波の人体に与える影響、あるいは紫外線の人体や環境へ与える
影響が気になる。では、調べてみる。いろんな情報媒体を通じて情報を集める。
誰に尋ねればいいのかを含めて電磁波や紫外線を理解するための模索が始まる。
自分は素人なのである。無知に等しいか、間違った断片的情報を抱え込んでい
る。その中で、情報を選り分け、あるいは総合して、一人の人間としてこの程
度の情報を獲得し理解すればいいのだと最後に納得する(なかなかそうはなら
ないのだが)。
簡単に言うと、エッセイに限らず、自分にとって書くとは、全てが哲学的営
みなのである。自分が感じること、想うこと、考えること、分からないこと、
もしかしたら永遠に手の届かない世界も含めて、自分なりの拙い文章の世界に
表現させたい、それが明晰で判明なる表現に至らなくても、世界を感じようと
する軌跡だけは残したいという願いなのだ。
さて、例によって本題に入る前に、疲れてしまった。今回はこれまでにして
おきたい。続きは、気が向いたら書くことにする。
03/07/06 記