(04/04/01 up)
1.秋が芸術の秋ならば…
2.つつじのことなど
3.幻の青いバラと女心
1.秋が芸術の秋ならば…
春は啓蟄の春だ。啓蟄は、冬ごもりしていた虫が這い出るという意味らしい
ことは無学な小生も知っている。辞書によると太陽暦の3月6日頃だという。
とっくにその時節は過ぎているのに、今年はやたらと寒く感じるのは何故だろ
う。昨年が暖かすぎた、その反動なのだろうか。
昔、小生がまだ前髪の上げ染めし頃、というかガキの頃、啓蟄という言葉を
聞いて、なんていやらしい、助平ったらしい言葉かと思った。人前でケイチツ
(啓蟄)なんて、口に出していいのか、不審に思った。
どうやら、チツという言葉の響きに過敏に反応していたのだ。それに、チツ
の、小生が思い浮かべていた(その実、正体を知らなかった)それを漢字では、
膣と表記することを知らなかったこともある。
が、いつしか膣という表記も実態も知ってからも、チツという言葉を特に耳
にすると、そこはかとなくムラムラしてしまう。こそばゆいような、あるいは
面映いような感じがしてジットしていられなくなる。
秋は芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、などと比較的前向きというか、どこか
秋の風情に深く沈潜するような高尚な感じが漂うのに比べて、春は啓蟄の春。
生命の芽吹き、緑の葉っぱの輝く時、数々の花々の開く時、梅からやがて桜
の開花する頃となり、卒業と入学の季節を迎え、心、浮き立ち、あるいは色、
華やぐのに、どこか陰鬱な、それとも憂愁の感が漂うのは、何故だろうか。
敢えて言うなら、秋は夏の盛りを過ぎて、火照った体も徐々に色褪せ始め、
やがて来る冬を前に、身構えるような、身も心も閉じざるを得ないような、命
の終わりへの傾きの予感めいたものを覚えるからなのかもしれない。
だから、自然、心に深く沈湎する。
しかも夏の湿気も吹き払われて、憂愁を胸に抱えているのだけど、カラッと
しているので、何処か透明感めいた印象を人に与えるのかもしれない。
春は、一方、湿気を次第に帯び始める。木には樹液が濃密に満ち始め、鬱蒼
と生い茂る草には鼻にムンと来る草いきれが溢れ出す。そう、透明なる憂愁と
いうより陰に篭った憂鬱という言葉が相応しい。
では、その春の憂鬱の正体とは一体、何なのか。
やはりそれは、横溢する命であり、しかも若い人に時ににきびが噴き出すよ
うに、生命の賛歌が晴れやかに生気として発散するに止まらず、樹液のように
生命が濃縮され、胸のうちになど到底、抱えきれないほどに充満し、やがて爆
発してしまうのだと思う。
それが春なのだ。
ある程度、年齢を経てくれば、渇いた肌、枯れた心にほどよい潤いを与える
かもしれないが、若いとなると辺り構わず生命のエキスを撒き散らしてしまう。
陰陰滅滅たる憂鬱な気分は若さの証明でもある。などと、済ましておれないほ
どに、炸裂する生命力は大地を駆け巡る。溢れる命を喚き立てる。
などと言いながら、小生は、そんな時節は過ぎたような、過ぎていないよう
な中途半端な年代にいる。人生五十年のほとんど壁際に来ていて、一昔前なら
余生をどう生きるかの算段をしなければならない頃合いのはずである。
なれど、青春の息吹とは程遠いにも関わらず、未だに陰陰滅滅悶々鬱々と悶
絶の日々を送っている。涸れるなど、遥かに遠い状態である。
だから、年甲斐もなく、秋が芸術の秋ならば、春は啓蟄の春などと語呂合わ
せなど、恥ずかしげもなく(いや、少々恥ずかしげに)人前で繰り広げてしま
う。
きっと、人は生きている限り途上にあるのだと思う。若いから前途有望で、
年老いたからあとは余生を、などというのは、そんなことを考えるゆとりも含
めて、時代錯誤になったのかもしれない。
明日のことは分からない。板一枚下は地獄か極楽か。一寸先は闇か曙か。
昔、誰かが春は曙、云々と表現してくれた。夜が明け染める頃を「春は曙
やうやう著(しる)くなりゆく山際 少し明かりて 紫だちたる雲の 細く棚
引きたる。」などと素敵に表現してくれていた。
秋は人肌が恋しくなる(小生はいつも恋しいが)。涼しげな夕べに人待ち顔
の人がいる。夏とは違う、厚めの布団が恋しくなる。
が、春はつい、布団が暑苦しくなる。跳ね除けたくなる。夜明けを待って目
覚めるなどという悠長な気分ではいられない。そう、かの古(いにしえ)の方
にとっても、啓蟄の春だったのだ。
ただ、小生は野暮天だから啓蟄の春と思い、かの方は春は曙と表現する。意
味合いは似たり寄ったりのはずだ。なれど、心に感じる深みに彼我の差がある
のには、忸怩たる思いがあるとしても、致し方ないのだろう。
(03/03/23 記)
2.つつじのことなど
四月の半ば頃からだったろうか、ツツジの花が東京でも見られるようになり、
それが四月の終わりには、一気に咲き誇り始めた。
あの赤紫というのか、独特の色合いは、日中、五月の強い日差しの下でも負け
ないような不思議なあくどさのようなものを感じさせる。白いツツジもあるが、
小生にはツツジというと、赤紫のツツジの印象が強いのである。
あくどさ、などと書いたが、一瞬、強さと書こうとして躊躇ってしまい、思い
つかないままにあくどさという言葉を苦し紛れに使ってしまったのである。
ツツジというと、小生はまず、仙台を思い出す。小生は仙台の地で6年も学生
として過ごした。その仙台には、榴ヶ岡公園があって、これは「つつじがおか公
園」と読む。
何かの話の折に「つつじがおか公園」という言葉が出てくるのだが、小生、な
んとなく場所が思い浮かばず、一体、何処の話なのだろうと、狐に抓まれた面持
ちだった。
ややあって、「つつじがおか公園」というのは、実は、榴ヶ岡公園なのであり、
小生が仙台の地にやってきて選んだ居住の地からほど近いことを知るに至った。
その榴ヶ岡公園は野鳥観察のスポットであることを知ったのは、恥ずかしなが
ら、たった今である:
http://homepage3.nifty.com/magpie/bird/tutujigaoka-park/photo.html
さて、なんとか榴ヶ岡公園をつつじがおか公園と読めるようになったはいいけ
れど、その後も榴ヶ岡が、どうしてつつじがおかと読めるのか、違和感が残ってならな
かったものだ。
それというのも、馬鹿の一つ覚えのように、ツツジというと、漢字では躑躅と
書くのだと思い込んでいたし、こんな漢字を使わせるツツジという花の独特の雰
囲気に相応しいようにも思えたのである。
あるいはもしかしたら躑躅という漢字表現から、逆にツツジという花を見ると、
何かあくどさのようなものを覚えるようになったのかもしれない。
というのは、ここにはもっと遡る余地のあるささやかな思い出があるのだ。
それは、たとえば、志賀直哉著の『暗夜行路』に限らず、江戸川乱歩など、明
治以来の多くの日本の文学作品の中に躑躅が出てくる。
小生がガキの頃には無論、躑躅など読めるはずもないが、記憶では父の書斎に
あった文学全集にはルビが振ってあったような気がする。御蔭で未だに躑躅とい
う漢字は書けないのだが、読むことだけは早くから可能になったわけである。
その躑躅だが、似たような感じを持ったことのある人も少なくないと思うのだ
が、髑髏(どくろ)という漢字と何処か似ているような印象を持っていたものだ
った。
無論、表記の上で躑躅と髑髏を並べたなら、何処が似ているんだ、お前の目は
節穴か、ということになるのだが、一旦、本を手放し、何処か河原か田圃の畦道
でも歩いている最中に、ツツジやどくろの文字を思い浮かべようとすると、両者
の漢字が交じり合って、躑躅の中に髑髏の影が忍び寄り、髑髏の目玉から躑躅の
花が、それこそあざとく咲き出でるような、そんなイメージが付き纏って離れな
い、そんな自分だったのである。
それにしても、躑躅などという漢字表記は、どういう由来で成り立ったのだろ
う。そして、髑髏という漢字表記についても、由来を知りたいものだ。
ま、とにかく仙台市の榴ヶ岡公園も、群馬県館林市の躑躅ヶ丘公園のように表
記されているなら、小生の小さな胸を傷めずにすんだわけで、思えば罪な公園で
ある。だからなのだろうか、榴ヶ岡公園でツツジを愛でた記憶はまるでないのだ。
躑躅は古くは『出雲国風土記』にも登場している。万葉集にも幾首かツツジの
歌いこまれた短歌がある。話は長くなりそうなので、気分転換も含め、せっかく
なので下記のサイトから一つだけ、挙げておこう:
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/tutuji.html
水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
小生はつつじが日本の在来種なのかどうかも知らないが、歌の中に登場する礒
の浦廻というのは、草壁皇子の宮殿の庭園にあり、すでにツツジが栽培下にあっ
たことが知られる。また、江戸時代にいたって、ツツジの品種が爆発的に増えた
という(『広辞苑』)。
ツツジという名前だが、下記のサイトによると、「花が連なって咲くことから
「つづき」、また花が筒状であることから「つつ」などと呼ばれていて、次第に
「つつじ」になったらしい」とのこと:
http://www.hana300.com/oomura.html
さて、小生は仕事柄、都内を車で終日、走り回る。但し、日中は、交差点など
で信号待ちの際に、道路脇のツツジなどを投げ捨てられた吸殻やペットボトルな
どと共に眺めるのがせいぜいだ。
それが、夜ともなると、車も少なくなり、走りながらでも赤紫色の妖しいツツ
ジの花々が目に飛び込んでくる。
特にその赤紫色は、深緑をベースにするから余計に際立つ。
街灯やヘッドライトに照らし出されたりすると、闇の濃さと緑の深さと花びら
の妖しさが言い知れない幻想を誘う。小生に小説を書く才能があれば、間違いな
く、この独特の雰囲気を生かしたミステリーかサスペンスを書き上げようと思う
に違いない。
ツツジは、3月末から四月の初めにかけての桜の季節が終わるのを見計らうよ
うに咲き始める。道路脇に桜の花びらの、最初は淡いピンクの絨毯か帯だったも
のが、やがて乾き切り、色褪せ、埃に塗れ、茶褐色のゴミという憐れな末路を辿
る頃に、そんな情ない光景などに目を向けさせるものかとばかりに、ツツジの花
が咲き始めるのである。
もう、入学したての生徒や学生や社会人なら、学校生活や新しい環境に慣れる
まではいかないものの、そろそろ最初の緊張感は薄れてくる頃だろうか。
逆に言うと、学校や会社に馴染めないものは、ツツジのどぎついような赤紫に
辟易する頃でもあるかもしれない。
あるサイトの掲示板に、「つつじという花は、どちらかと言えば苦手な花であ
る」それというのも、「……盛装の女性のようでちょっと距離を置きたくなる。
いわば、強い香水にむせるような気にさせられる」こと、「この時期の陽射しは
強く、むっとするようなぬくもりが地面を漂っている。この季節を苦手とする気
持ちがつつじを見る眼にうつっているのだろう」と続く。
最後に、「春、特に冬の寒さから抜け出したまぶしい春はどこか気持ちを落ち
着かないものにする。田舎から都会に出てきた若い頃、この季節がなにかいろい
ろな夢を約束しているようだった。しかし、季節が過ぎてみれば、普段の生活は
何も変わっていないことに気づかされる。そんなことの繰り返しだった」と続く。
[「美術館のある町で」の「あなたと夜と音楽と(bbs)」を参照:
http://homepage2.nifty.com/melkappa/ ]
実は、小生がこの雑文を書く動機も、このエッセイ風な日記に触発された面が
大きい。この一文を読んで初めて、自分でもハッキリとは捉えきれないでいたツ
ツジに絡む胸のモヤモヤを言葉にしてもらったという気がしたのである。
そう、若い頃は、春四月、そして五月は横溢する生命力の季節だった。時に過
剰になりがちの萌え出でる泉に、若い肉体を持つ当人であってさえ、当惑を覚え
ることがあったにしろ、春は命であり、将来であり、可能性だったのである。
それどころか梅も桜もツツジも眼中になかったに違いない。それどころではな
かったのだ。
それが、今では花や草や木々の生命力に圧倒されている。
若いというのは、動物のようなものだ。何か得体の知れない闇雲なパワーに駆
り立てられ、花も草も踏み越え、踏み躙っても、平気だった。
自分のほうがはるかに命に満ち溢れていた。植物など、目立たない陰湿な生き
物、大地の何処かしらに縛り付けられている、可哀想な生き物に過ぎなかった。
そう、背景にあるものに過ぎず、彩りとしてあればいいものであり、なければ
ないで一向に構わないのだった。それどころではなかったのだ。
が、年を経るに従い、大地に縛り付けられ、時には通行人に踏みつけにされる
はずの花や草に目が行くようになる。視線が次第に低くなる。自分という人間に
幻想の欠片も持てなくなったりすると、俺は道端の雑草ほどにも逞しくはなかっ
たのだと思い知らされる。
踏み躙られても、草木は樹液や草いきれを放つ。その強烈な生命力、生々しさ。
自分にはその樹液ほどの潤いさえ失われていることに否応なく気付いている。
のろまなカメほどでさえなかったはずの草木に、今や嘗てはウサギであり、跳
ね回るシカだったはずの自分が置いてきぼりを喰らいそうになって焦りさえ覚え
る。土に還ったなら、自分は植物どもの栄養分として吸われていく。
いや、生命力が枯渇しているということは、既に空中を漂う目に見えない植物
か闇のパワーにドンドン生命力が吸われ始めているということなのかもしれない。
闇の中で浮かび上がる濃く豊かな緑を背負った赤紫のツツジは、つまりは俺の
命をドラキュラが生き血を吸う如く掠め取っているのかもしれない、そんな悪夢
をさえ連想させるのである。
まあ、そんな悪夢などは早く忘れて、この世が命に満ち溢れていることを愛で
ていれば、それで十分なのだろうけれど。
(03/05/05 記)
3.幻の青いバラと女心
5月9日付けの朝日新聞朝刊第一面に、「幻の「青いバラ」できた?」という囲
み記事が載っていた。まさに、「?」で、表題に「実はトルコギキョウ」と付され
ている。記事には写真が載っているが、パッと見る分には、小生が花に疎いという
こともあるが、バラに見える。
敢えてクレームをつけるなら、青いバラではなく、記事にもあるように紫の色に
近い点で、トルコギキョウという説明がなければ、青にしては色合いに難があるん
じゃないの、でも、まあ、幻の青いバラに一歩は近づいたのかなと思えなくもない。
記事の説明によると、バラは紫や青色を生み出す色素「デルフィニジン」を持た
ないため、交配を繰り返してもブルー系の花づくりは不可能と言われているらしい。
青いバラ作りが夢に終わっているということは小生も聞いたことがある。
そこで、紫色の花が咲く北米原産のトルコギキョウをバラに似せようと改良を重
ね、花びらが外に巻いた一重咲きに、八重咲きを自然交配させてバラ咲きの花びら
を作り出したのだという。
これに成功したのは、種苗メーカーの「サカタのタネ」で、開発された商品の名
前は、「ロジーナブルー」で、花屋さんの店頭に並び始めているらしい。
早速、ネットで検索してみたら、「『ロジーナ』シリーズを開発」というドンピ
シャのサイトをヒットした:
http://www.sakataseed.co.jp/hotnews/030220.html
このサイトによると、「英語で「Blue rose(青いバラ)」は「ありえないもの」
を意味」するのだという。小生はそこまでは知らなかった。
日本国内でも、わりと普通に見受けられるトルコギキョウをネットで探してみた:
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/torukogikyou.html
なるほど、その豪奢さは格段に違う。
トルコギキョウの花言葉は、優美、希望だという。ところで、バラに似せて作ら
れた『ロジーナ』シリーズの新しいキキョウも花言葉は同じなのだろうか。人は、
この青紫のバラ似のトルコギキョウを見て、どんな花言葉が似つかわしいと思うだ
ろうか。
念のため、バラの花言葉を調べたら、これが花びらの色によって色々あるらしい。
正にバラバラなのだ:
http://www.j-area2.com/flower/rose/message.html
でも、青いバラはありえないのだから、当然、花言葉もないわけである。いつか、
青いバラが生み出されたなら、やはりトルコギキョウの花言葉が転用されるのだろ
うか。
今、「幻の青いバラ」をキーワードにして検索してみたら、筆頭に、下記のサイ
トをヒットした:
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200303/sha2003030307.html
このサイトに掲げられている写真だと、文句なしに青いバラ(そっくり)という
ことになる。この色の具合の違いは、写真の出来具合の問題なのだろうか。やっぱ
り現物を見ないと、うっかりしたことは言えないということかもしれない。
ついでに同じキーワードで検索したら、『絶対音感』の作家・最相 葉月氏著の
『青いバラ』(小学館刊)をヒットした。彼女は、「著者は、サントリーとカルジ
ーン社が遺伝子組み換え技術を用いて「不可能の象徴」である青いバラを可能にし
そうだというニュースに違和感を覚え、バラ育種の歴史をひも解く取材を開始」し
たという。
どうやら、本書においての著者の関心は、青いバラ作りへの挑戦の歴史を端緒に、
「遺伝子組み換え技術への漠然とした違和感」、つまり、クローン人間などに関し
て、「科学者の視点と一般的視点の相違」を明確にすることにあったようだ。
『絶対音感』(小学館刊)は面白かったけど、本書のほうがもっと期待が持てそ
う。彼女の着眼点は鋭いね。
それにしても、「サントリーとカルジーン社が遺伝子組み換え技術を用いて「不
可能の象徴」である青いバラを可能にしそうだというニュース」は本当なのだろう
か。だとしたら、「サカタのタネ」のせっかくの努力は水の泡なのだろうか。
念のため、さらに幻の青いバラを検索したら、「青バラ100本花束」というサ
イトをヒットした:
http://www.ohanayasan.co.jp/products/05.html
既に販売され、SOLD OUTまでしている!
うっかりしている間に、現実の世界では想像を絶するような研究が進んでいる。
女性が花を愛でる気持ちというのは、男性には理解の及ばないものがあるのかも
しれない。花束を贈られた女性の喜びようというのは、なおさらである。男性とか
食べ物とか、おカネのことしか関心のなさそうな女性でも、こと花となるとコロッ
と気持ちのモードが切り替わるようである。
では、さて、バイオで開発された新種のバラなどの花となると、どうなのだろう。
何か全く新しい気持ちを掻き立てられるのか、それとも従前の花のほうが気持ちが
落ち着いて好ましいと感じるのか。
化粧やファッションへの貪欲さから想像すると、未知の花のプレゼントのほうが
喜ばれそう。ということは、新種の開発競争は、ますます激化すると思ったほうが
よさそうだということなのかもしれない。
(03/05/10 記)
03/04/14記
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