夏 の 予 感

                                           (03/07/20 up)





 久しぶりに夜の町を散歩した。
 いつだったか、いつも通りに気分よく散歩していたら、警察官に誰何され、 それ以来、夜中に徘徊するのを躊躇っていた。
 でも、梅雨の束の間の晴れ間で、しかも明日からはまたしばらく空が愚図付 くということなので、思い切って外出することにしたのである。
 明日は間違いなく雨模様だという予報。けれど、歩いてみても綿のシャツが ジトッとすることはない。ゆっくり歩いている分には、汗を気にせずに歩ける。 なんだか、それだけで嬉しい。
 梅雨の時期の散歩は、湿気のせいで、体に衣服がベト付き、深夜に特有の尖 った刃のような闇を感じないで済む。狂気も霊気も切っ先が錆び付いてしまう のである。
 けれど、今日の空気は乾いている。それだけが俺には気にかかる。
 警察官に呼び止められた方面にはさすがに足は向かない。ほぼ反対の方向へ ダラダラと歩いている。歩くルートが違うと、町の表情も違って見える。その うち、やっと車が擦れ違えるような道幅の舗装された道から、さらに枝分かれ した細い道のあることに気が付いた。
 めったに歩かない町だとはいえ、二度や三度はその前を行き過ぎたことはあ ったはずなのに、どうして気が付かなかったのだろう。
 でも、別に怪しい感じはしない。ちゃんとコンクリート舗装されている。こ んな裏の路地までセメントなんかで固めなくてもいいのにと思うような、細い 道。
 両脇には小さな民家が密集している。建物の周りは塀で囲まれている。その 間は、猫がやっと通れるくらいの透き間しかない。それでも塀が欲しいし、一 角には庭が欲しいのだ。
 出窓にはレースのカーテン越しにプランターが垣間見える。出窓のある部屋 の奥の部屋からの明かりだろうか、白っぽい光が漂っている。
 さすがに立ち止まるわけにはいかない。警察官でなくても不審者と思われか ねない。何が物騒と言って、誰もが誰に対しても不審の念を以って見る、そん な風潮が悲しい。
 自分という人間が、どんなに平凡な人間で、どれほど軟弱な人間なのかを知 るのは、結局のところ、自分以外にはいない。町を出歩くのも、ただただ寂し いからに過ぎない。一人であることに堪えられない、そんな弱虫なのだ。
 許されるなら、大声を張り上げて、助けてくれ! とSOSを発したくなる。
 勿論、我慢する。胸のうちの張り裂けそうな悲しみも嘆きもすべて、紙屑を 屑篭に棄てるように、夜の闇に棄てる。
 町の灯りがどれほど愛しいものなのか、どれほど切なく感じているかを誰に 告げたらいいのだろう。
 それでいて、誰かが傍に近づくと、こっちはこっちで警戒したり、心にもな く邪険に振る舞ったり。こんなはずじゃないのだけれど、と思いつつも、一層、 孤立の島へ自分を追いやっていくのだ。
 耳聡い俺は、遠くからのハイヒールの足音を聞き逃さない。急いで遠ざかる。 存在をその場から消す。何処でもいい、とにかく人影のない場所へ自分を追い やる。
 すると、今度は、目の前を黒い影が行き過ぎた。猫だ! 
 猫の奴は俺より用心深い。俺が人を避ける以上に、猫の奴は俺を避ける。
 猫よ! お前だけは俺を分かってくれたっていいじゃないか。どうして俺を 避けるんだ。俺の気持ちを分かる奴がこの世にいるとしたら、それは猫以外に 考えられない俺なんだぞ!
 なんだか、妙に向かっ腹が立ってきて、猫が消えたブロック塀に背を向け、 ことさらに違う方向に足を向けた……。
 そんなことを繰り返すうちに、本当に見知らぬ町へ迷い込んでしまった。住 居表示を読んでも、聞いたことがあるかなという程度である。
 空には疎らな星。月は隠れている。雲に覆われているようだ。微かに月明か りの余韻が夜の底に零れている。夕刻だったか、さっと降った雨でできた水溜 りに、月の光の欠片が滲んでいる。気のせいか、赤っぽいような、何処か不気 味な色合いである。
 何処か朱色っぽい橙色の光の戯れにしばらく見惚れていた。風もないのに、 何故、水面が揺らぐのか、俺には分からなかった。
 次第に俺は、その水の出所が気になり出した。地面にひび割れでもあって、 水が溢れ出しているのかもしれない。あるいは、もしかしたら何処かから雨水 か排水が流れ込んでいるのかもしれない。
 水の揺らぎの一番、大本になっている辺りを眺めてみた。やっぱりアスファ ルトに亀裂が走っている。巾は数センチほどだが、長さが腕ほどもある。すっ かり水浸しである。裂け目の底から水がドンドン溢れ出しているのが分かる。
 これが山の中なら、湧水であり、泉であり、コンコンと湧き出す水の様の大 好きな俺は、飽かず眺め入ることだろうに。
 町中だから、ただの雨水の道路への漏水であり、明日になれば消え行く意味 のない、一夜限りの池に過ぎない。
 だとしたら、俺だけの池なのか! 俺は、この湧き出でる水が、たとえば高 山の麓の水のように、気の遠くなるほどの歳月を経てようやくこの世の光と再 会した水だったら、どんなに素晴らしいことかと思った。その出口を見つけた ばっかりの水たちと俺とが出会っているなんて! ということだ。
 しかし、夕刻か、せいぜい、前日に降った雨ではドラマを感じられない。し かも、地べたに訳も無く溜まっているだけ。
 呆然とちっぽけな水溜りを眺めていると、何か人の気配を感じた。アスファ ルトに削られるゴムの音。発電機のゴリゴリという音も聞こえてくる。自転車 だ。静か過ぎる夜の町では、何もかもがあからさまだ。
 俺は思わず近くの物陰に身を潜めた。案の定だった。また、オマワリの奴が やってくる。特に急いでいる様子も伺えない。奴より先に気がついてよかった と思った。冷や汗さえ掻いている。
 いっそのこと、お巡りさんに声をかけようか、一瞬、そんな思いさえ浮かん だ。お巡りさん、お喋りしませんか、ボクは淋しいんですよ。
 まさか! 俺はここまで追い詰められているのだろうか……。
 俺は、奴が走り過ぎると、慌ててその場を去った。俺の本音が露見したよう な気がしたのだ。誰にも見咎められることなく、立ち去れるだけでもありがた いと思った。そうだ、それだけでもいいんだ。それだけでも、今の時代にあっ ては、ありがたいことなのだ。
 夜の散歩も、もう、できなくなるに違いない。何故なら夏が間近なのだから。


                                         03/07/17 21:35