フロイト事始、あるいはダリやキリコから

 
 小生がフロイトを初めて読んだのはいつだったろうか。恐らくは高校の2年の頃では なかったかと思う。
 その1年ほど前からラッセルの『数理哲学入門』を読んで、それまでに読んだ本とは 明らかに質の違う文章や思考に感激して、幾分、哲学に片足を突っ込み始めていた。し かし、フロイトへは必ずしも近い道が哲学にあったとは思えない。
 どうやら記憶の糸を辿ると、高校の2年の美術の授業に端を発しているようなのであ る。
 高校2年の美術の先生は砕けた先生で、気楽に授業に望ませてくれた。どこか気が小 さくて生真面目な小生に美の世界について、もっと自由な感覚で以って味わうことを教えてく れたのである。
 当時、小生の同室に後にラファエル前派の研究に勤しむようになる谷田博幸氏がいた。彼 は熱烈なダリのファンだった(と、その頃、小生が勝手に思っていただけかもしれないが…)。
 しかし、だからといって小生が彼と親しくなる謂れなどなかったはずだ、きっかけが なければ。
 それは美術の授業でやってきた。ある日、(幾度めかの)映写会が授業で行われたのである。先生の 嗜好なのか、それとも、たまたまその時の映写会のテーマがそうだったのかは分からな いのだが、その日のテーマは超現実主義の美術だったのである。
 サルバドール・ダリ[スペイン出身、1904‐1989]やデ・キリコ[イタリア出身、18 88‐1978]など、シュルレアリストたちの作品が次々と写されていった。彼らのことは 教科書などで名前くらいは知っていたはずだが、しかし、映写される巨大で異様な絵画群には圧倒された。
 やがて、授業でも、感化されやすい小生はダリ風の抽象的な作品を無理矢理に描いた りした。しかし、やはり先述の谷田氏の作品には全く敵わなかった(というより小学校の終り頃だったか、漫画家志望の小生の描く漫画のいかにも紋切り型の絵に愕然として、漫画家になることを諦めた頃に、既に自分の描くセンスには全く幻想を抱かなくなっていたけれど)。今はもう、彼の作品を想い起こすことはできないが、彼の作品に感銘を受けたことは覚えている。
 そして何かの折、寡黙な彼と親しく会話を交わす機会が訪れたのである。そうしてダ リの絵画の背後に思想として潜むフロイトの世界を嗅ぎ付けたのだった(一方、キリコ の背後にはニーチェやショーペンハウアーなどの哲学がある。キリコは少なくとも一時期は形而上志向の強い画家だったのだ。また、キリコは『死の島 』で有名なベックリンの絵画に心を打たれている。ベックリンは小生も好きな画家の一 人だ)。
 どうやら小生の場合、何処か感覚的なところから哲学に入る習性があるようなのであ る。音楽ではシュトックハウゼンに想を得て短編を作ったくらいで終わっていることを 思うと、偉い違いだ。バッハやメンデルスゾーンを聞いて感激しても、だからといって 作品の想を練ようとは思いも寄らない…。
 が、その頃はベックリンやダリ(彼にはのめり切ることは結局なかった。というより何処か作為的な匂いを感じていて作品の世界に素直には浸れなかったような気がする)だっ たが、やがてムンクやゴッホやフリードリッヒの世界へ傾倒していくが、絵画を絵画と して堪能するだけでは我慢できず、彼らの絵を前に想像の端緒を得て、幾つもの作品(無論、小説のこと)を 得ることが出来た。
 さらには、ヴォルスやフォートリエ、デュヴュッフェ、フォンタナなどにはどれほど お世話になったことか。
 ちょっと余談が過ぎた。
 ダリの作品の背後にはどうやらフロイトが居るらしいぞと気づいた小生は、いつしか 丁度その頃刊行され始めていた『世界の名著』シリーズと銘打って中央公論社から出ていた『フロイト』の巻を手にしていたのである(このシリーズには『日本の名著』シリーズと併せて随分世話になっている)。
 フロイトといえば、夢。夢といえば『夢判断』なのに、その本を読んだのは大学に入 ってからというのは、お愛嬌というのか、あるいは小生の理解がその程度だったのか。
 実際、フロイトの諸作品を読み浸ったのは、大学に入ってからだった。彼の世界は受 験生たる小生が手にするには危険すぎる世界ではある。
 小生の読書経験の中ではフロイトとデカルトとショーペンハウアーは重なっている。 この3者に共通するのは実は夢である。フロイトの夢(『夢判断』)やデカルトの夢は 誰でも思い浮かぶが(デカルトがドナウ川のほとりの小村に一日を過ごし、「終日炉部 屋の中でただ一人閉じこもり」静かに思索に耽って、その夜、三つの夢をみた。その中 で彼は真理の霊が神によって送られたと感じ、哲学全体を彼一人の力で新たにする仕事 を神から与えられたと信じた…左記はNIPPONICAによる説明)、ショーペンハウアーに ついて夢とはと訝しむ向きもあるかもしれない。
 が、何故か小生の中では夢というキーワードで3者が結びついているのである。ある いはショーペンハウアーの哲学は、人生は夢に過ぎないと喝破したところにあるからだ と少なくとも当時は思っていたからだろうか。
 ところで、実際の読書の状況から行くと、高校から大学にかけてはデカルトとショー ペンハウアーを中心に読んでいたが、フロイトを本格的に読み始めるのは大学も卒業し 、上京した1978年になってからだった。大学に入ってからの数年間はフロイトを意識しつつもユング[スイスの精神科医。1875−1961]の世界に遊んでいた。ユングの『自伝』(みすず書房刊)は繰り返し読んだものである(『自伝』は名著だと今も思っている。そういえば当時は珍しかったユング派の分析医である河合隼雄の諸著もその頃、平行して読んでいたものだ。『昔話の深層』などは面白かったが、上京する際に引越し代にするため売り払ってしまった…)。日本教文社のフロイド選集を揃え、また人文書 院のフロイト著作集も幾冊か揃え、読書の楽しみを堪能した(ところで余談だが、岩波書店の広辞苑第五版ではユングで引けばユングは出て来る。が、手元にあるNIPPONICAだと、ユンクでないとユングにたどり着くことは出来ない。上記のように日本教文社はフロイド著作集だが、人文書院の著作集はフロイトである…。あるいはヴィトゲンシュタインとウィトゲンシュタインと…)。
 ちなみに、この数年前からドイツロマン派の画家フリードリッヒに(エゴン・シーレ とともに)惹かれ始めている。フリードリッヒの絵画では、風景を描く際にも人物が点景として配置されていることが多いのだが、一見すると奇妙なことに、その人物の大半が画面の中では背を向けているのである。つまり画面を眺める我々観察者と同様の視線で画面の奥、あるいは風景の彼方に見入っているのだ。月の放つ、何処か怪しげで微妙な光に照らし出された世界の遠い果てに何かがあるに違いない、という幻想に彼(ロマン派)の絵画の命と思想があるらしいのである。また余談に走ってしまった。
 やがてユングの世界に惹かれつつも、何処か類型的というか図式的な説明に、分かりやすさは感じつつも、次第に危うさを覚えだして、フロイトへと回帰していくのである。
 危うさと言えば、小生がユングに惹かれつつも、徐々に関心が彼から離れだした頃、日本では錬金術のブーム(?)があったように記憶する。彼自身は錬金術師ではなかったが、錬金術との絡みで日本では紹介され始めていたのではなかったか。1970年代後半というのは、「医学のルター」ともよばれたパラケルスス[Paracelsus 1493/1494-1541]が日本に紹介された頃でもある。遍歴に明け暮れた僅か48年の生涯だったが、膨大な著作を彼は残している。精神医学の祖でもある彼の真価が、近い将来きっと改めて見直されるに違いない。
 フロイト[1856-1939]の著作で幾度も読んだ作品は『夢判断』(これはせいぜい2度 )や『精神分析入門』よりも「ある幻想の未来」「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期 のある思い出」「トーテムとタブー」「ミケランジェロのモーゼ像」など、珠玉の作品 が収められているフロイト著作集の3である。その著作集3には『妄想と夢』として単 行本になってもいる「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」 も入っている。これは単行本のほうでも2度ばかり読んだものだった。
 今もフロイトは色々な形で読み直されている。しかし、大切なことはまず、フロイト の作品に直接向かうことだと思う。一切の先入見なしに、彼の諸作品に読み浸れば、時 には推理小説にも勝る推理の技(わざ)を楽しむことができるのだ。
 そんな小生も80年を境に哲学や心理学などから撤退してしまった。このままいくと精 神が破綻してしまうという危機感を覚えたのだ。
 というより、哲学的探求の道を一人辿ることに端的に恐怖してしまったのである。
 それから既に20年。今、小生は改めてフロイトに限らず本格的な著作に目を向け始め ている。今度こそは狂気と背中合わせになる覚悟で向き合うつもりで居る。なぜなら、 背を向けて飛び込んだ世界は、結局は自分には得るところのない世界だとつくづく感じ たからである。
 自分が求める世界が厳しくても構わない。その厳しさの中にこそ、狂気に匹敵するほ どの真実があるに違いないと思っている。改めて読むフロイトは、今度は小生に何を与 えてくれるだろう。

ダリの絵の幾つかは以下のアドレスで…
http://usagi.tadaima.com/ourhouse/p01dari.htm

ダリについては以下を参照
http://www.fsinet.or.jp/~bow/Artgallery/dali/profile/profile.htm

キリコについて
http://www.nikkei.co.jp/events/dechirico/

カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒについて
http://www.ocaiw.com/friedr.htm
http://www.ekakinoki.com/maestri/maestri2/caspar.html
『ロマン主義芸術 フリードリッヒとその系譜』(千足伸行著、美術出版社刊)
『風景画家フリードリッヒ』(ヘルベルト・フォン・アイネム著、藤縄千艸訳、高科書店刊)
『フリードリッヒとその周辺』(東京国立近代美術館での展覧会のカタログ)

ヴォルスについて
http://www.city.kitakyushu.jp/~k5200020/j/binomori/24/wols.html

ハンス・アルトゥング、バスキア、ジャン・フォートリエなど
http://www.mmjp.or.jp/art-u/contents/hanga/main2.html

現代美術一般について(但し、小生が関心を持てる限りでの)
『パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダーアート』(モーリス・タックマン/キャロル・S・エリエル編著、世田谷美術館日本語版監修、淡交社刊)これは小生の一番衝撃を受けた展覧会であり、感銘を受けたカタログである。絵画や芸術がかくあるなら芸術に絶望せずにいられる…。このカタログの中には学生時代以来愛好してやまないハンス・ベルメールやフリードリッヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターン、アルフレート・クビーン、パウル・クレー、アントナン・アルトー、更には恐らくは今も無名の、しかし、狂気の天才群が載っている。一応、ダリもあるし。
 これらの異端より更に先に行ってしまった画家たちについては以下の雑誌が特集していて参考になる。
『芸術新潮 93年12月号』(特集の名は"病める天才たち  現代美術をぶっ飛ばす"である)
 日本にも飛んでしまった人たちはいる。追々情報を提供するつもりである。
 本ホームページのエッセーのページにも現代のアート事情について若干触れた文章がある(美は混沌の海に)。