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1980年だったか、小生は東京で2度目のアパートを借りた。最初のアパートは某不動産屋で見つけたもので、その名も「プリンス荘」といい、しかも近くに哲学堂公園があって、一人密かに哲学のプリンスと悦に入っていたものだ。そのアパートから最初のアルバイト先である東販(東京出版販売)に通っていた。 東販を選んだのはアルバイト先で休憩の際に本が読めるだろう、という極めて安直な動機だった。後に友人に出版に興味があるから東販を選んだんじゃないかと言われたことがあるが、実は情けない限りの選択の結果だったのである。自分では本を読みたいし、あるいは自分で何かを書きたいとは思っていたが、出版に積極的に関わろうという意識は毛頭なかった。 出版ということで編集や校正や取材や、と色々意味しえるが、ほんの一時期、校正くらいはやろうと思ったが、やはり根気が続かず、また、本気になって校正に身を入れることもなかった。 仕事という面では、ひたすら呑気で無自覚な人間だったのだ。 さて、その東販でのバイトは、案に相違してキツイの一言で表現するしかないものだったが、それでも肉体的疲労の極にありながらも、短い決まった休憩時間にひたすら本を読みまくった。 そのバイト先で司法試験浪人のTN氏に出会った。彼にもっと体に楽な仕事があるということで、デパートの伊勢丹の倉庫で商品管理を請け負う会社のアルバイトとして採用された。 最初の仕事の場所は伊勢丹の調布センターだった。正に、調布にある伊勢丹の集配センターだったのである。新宿駅の京王口から京王線に乗って調布へ通った日々が何故か懐かしい。後に中村正敏のテレビデビュー番組のロケ先が実はその調布センターであったと聞いたことがある。 ただ、一ヶ月余りでやはり伊勢丹の別の倉庫に回してもらえた。それは新大久保にあった。歌舞伎町と背中合わせで、伊勢丹の大久保別館に向かう通勤途上で、よくラブホテルにしけ込んだり、あるいは出てくるカップルに遭遇したものだ。 その新大久保にある伊勢丹大久保別館で一年余り働いたある日、とても綺麗なKMという女性が配属された。初心な小生は一目惚れしてしまった。 すぐにその女性に小生はバイトのATですと紹介されたのだが、その時、聞いたKMの声には驚いた。一瞬、蛙が踏み潰されたようなしわがれ声に聞こえたのである。 でも、その声にはすぐに慣れた。慣れると現金なもので、彼女のだみ声に何処か愛嬌を覚えたりする。 その女性は、しかし、すぐに他の倉庫に配置換えされてしまった。あるいは大久保別館での短い勤務の日々は商品保管という仕事を覚えるための研修の期間だったのか。 小生は失望した。 が、話によると、彼女は落合にある伊勢丹商品保管センターに転属したというではないか。しかも、それは小生のアパートのすぐ近くにある。近くどころか、歩いて一分も掛かるかどうかなのだ。 誰にサジェストされたのか忘れたが、「あなたのアパートの近くじゃない、希望したら。実現するかもよ」と言われて小生はすぐにその気になった。 で、小生は西落合にあるプリンス荘から、直近の伊勢丹商品保管センター(伊勢丹落合センターが正式名称だった)へ通うことになる。つまり、彼女の傍に毎日居られることになったのだ。 その彼女とのことはさておき(我が儚き青春時代よ!)、そのうち、小生は風呂のあるアパートに住みたくなった。何故、そういう欲求が生じたのかは覚えていない。幸い(後には不幸の始まりとなったのだが)、不動産屋で風呂付きで、しかも家賃も安いアパートがすぐに見つかった。しかも、そのアパートも前のプリンス荘ほどではないが、伊勢丹落合センターにほど近いと来ている。 そのアパートが風呂付きなのに何故、大した収入もあるはずのない小生に借りられるほどに安いかはすぐに分かった。「藤荘」という、そのプリンス荘同様、二階建ての古い木造モルタルのアパートの隣が警察犬の訓練所だったのである。 犬は小生は好きだから問題はないし、警察関係の人間が隣に居るというのも、多少のプレッシャーにはなるが、しかし、素行優良ではないとしても不良ではない小生には、問題ではない。 では、何が問題かというと、匂いなのである(吼え声も多少はあるが、さすがに訓練されていて、それほどではなかった)。 警察犬の訓練が坪数にすると十坪もない狭い土のグラウンドの上でされていて、恐らく厳しく尿などは躾がされているのだろうけれど、土に、あるいは犬(当然、シェパード)の小屋に敷かれた藁に染み込んだ匂いが強烈なのである。 それが風向きによっては小生のアパートを直撃する。直撃しなくてもいつも匂いが漂っている。小生のプロフィールを読まれた方はお気づきのように、小生は鼻が悪い。鼻では息が出来ない人間である。従って匂いを嗅ぐ能力は通常の人より遥かに劣る。その小生が臭くてたまらないのだから、いかにひどい状態にあったか想像できようというもの。 でも、鼻の悪い小生だから、犬の訓練所側に面している風呂場(これがために引っ越したのだ!)の擦りガラス窓さえ閉じておけば、我慢できないこともなかった。 しかし、さて、憧れの風呂付きのアパートだが、風呂はガス風呂なのだった。これが悲劇の始まりでもあった。 ガス風呂だから入浴の際は、いつも締め切っている警察犬の訓練所側に面している窓を多少なりとも開けないとならない。開けると、しかし、強烈な分厚い匂いの攻撃である。それでも小生はガス欠や中毒にならないよう、ちゃんと注意していた。 が、ある冬の日、小生はつい油断した。冬でもあり、寒かったのだけれど、うっかり窓を締め切っていたのだ。あるいは少しだけ開けるという段取りを踏むのを忘れたのである。 風呂場にやむを得ず入り込む匂いが部屋にまで侵入することのないように、小生は風呂場と居間との間の開き戸は締め切っておくのが通例だった。 その日も、当然、その開き戸は閉めてあった。しかも、外気を取り込む窓も締め切ってある! その瞬間は間もなくやってきた。小生はバスタブに入っていたのか、それとも洗い場に腰掛けていたのか、覚えていない。多分、後者だったろう。 不意に視界が崩壊した。気が付く間もなく、視野に入る世界がテレビの砂嵐の状態になったのだ。小生は倒れた。 が、その倒れる瞬間、小生は「中毒!」と直感した。脳の中の意識が崩壊する、その何処かの片隅の神経の一隅が未だ死にきらずにいたのだろうか。 そして小生は開き戸に向かって倒れたのである。 そのドアは風呂場から居間に向かって開くようになっていた。あるいは、そうした作りにするのが当然なのかもしれない。 だから、自分がドアに崩折れるように凭れるように倒れるだけでドアは開いてくれたのだ。あれが、風呂場に引く構造になっていたら、決してドアを開けることはできなかったと断言できる。 小生は居間の畳の上に倒れこんだ。息も絶え絶えだった。喘ぐようにして懸命に息をした。息を体に取り込むということをあれほど必死にやったことはなかった。 とにもかくにも小生は生き延びた。自分は生き延びることを瞬間的に選んだのだ。悲観的なことを思い、結構、ペシミズムやニヒリズムの思想に惹かれるし、物心付いた頃から自分の世界に閉じ篭る人間だったはずなのに、考える暇もない瞬間には、小生は生きることを選択したのである。 そうして今も小生は生きているが、あの日に失ったものは相当に大きい。大きすぎて想像もつかないほどだ。あるいは自分には何を失ったかさえ分からないのかもしれない。 人間は自分を時には鏡に映してみることもあるし、人の評判を気にすることある。けれど、そうした一切の情報は、結局のところ自分という人間の心の内部で紐解くしかない。自分は独我論に組する人間ではないつもりだが、しかし、独我の世界から脱することなど不可能に近い。 そうしてそのガス中毒死未遂事故の後も小生は生きている。が、その自分の世界を内部より見るしかすべがない。従って、内部から見た自分の世界がいかに従前に比べて貧困なものになったのかは、実は分からないのだ。 事故の後だろうが前だろうが、私は私の内部より私を見、考える。 その内省が与える成果というものが、以前に比して貧弱なものであっても、今の私には、それしかない。それが全てである。そうしてその貧弱かもしれない自己の世界が狭苦しくなったとしても、それ以外に自分の世界がない以上、私は、私の世界の人間であるより他になく、私の見る世界を一つの天蓋に覆われた世界だと仮にすると、その天蓋が従前より高さや美しさが劣っていても、その優劣を自分では比べようがないのだ。 とはいっても、後に友人に指摘されることだが、脳細胞はガス事故の際、相当に死滅したはずである。 客観的な事実で自らを反省してみると、まず、自分は友人といるとどんな真剣な話をしている際にも駄洒落を飛ばす人間だった。自分にとって、駄洒落というものは浮かんでくるもので、考えるものではない。それが全くと言っていい程、浮かばなくなったのである。 更に気が付くことは歌がなくなった。歌心と言っていいかもしれない。自分は物心付いた頃から、人前ではともかく、心に歌があった。そのほとんどが流行歌の類いだったが、とにかく、ミーハーな人間としてアイドルらの歌や演歌やポップスを常に歌っていた。 その歌がなくなった。歌が浮かばなくなったのである。 そうした徴候は他にも沢山ある。まず、その1980年の冬から極端に気が弱くなった。元々気が強いほうではなかったが、しかし、それでも哲学する挑戦的意欲だけはあったと思う。 けれど、その冬からアルバイト生活が不安でたまらなくなった。アルバイト先の社員に仕事先の相談をするようにさえなった。挙句、女子社員に紹介される形で、やはり伊勢丹の取引先だった某輸出代行業を営む会社に入ることになったのである。そんなことはその年の冬まで考えたこともなかったのに。 そして1981年の4月からは晴れて正式に会社員になったのだが、モラルも崩れ、何といっても本を読む気力が萎えてしまった。それから十年ほどは年間にして数十冊も読めたかどうか。しかもそのかなりの部分をオートバイ関係の本や紀行、随筆が占めるようになっていたのだ。哲学の本には手が出なくなったのである。 1981年の秋だったか、大学を卒業して以来、音沙汰のなかった友人連に不意に小生の高輪の団地に訪問された。そのうちの一人、TN氏は既に某優良会社を辞めて出版業に乗り出していた。小生も幾度となく誘われた。自分としても、出版業はともかく、書物への関心は強かったし、あるいは自分のアイデンティティは書物にしかなかったはずだからと彼に付き従おうとしたが、それは空回りに終わった。 少なくとも十年前後は小生は、よく言えば回復期にあったといえるかもしれない。1980年代の末頃には窓際族になっていて、会社でも仲間が一人もいなくて孤立していた が、その80年代後半に失恋したこともあり、精神的に相当に追い詰められていたようだ。87年には失恋を記念して(?)青梅マラソンに参加したりして、足掻いていたのである。 結局のところ、ガス事故の余波から抜けきることなど出来ないのかもしれない。失ったものは帰ってはこない。自分の世界は依然としてある。けれど、それは変色した、劣化した自分に過ぎない。天が低く垂れ込めた窮屈な世界に感じる。 が、そうであっても、それが自分の世界なのである。 80年代の終わりごろ、小生は抽象表現主義や生の藝術と呼ばれる絵画世界に開眼した。フォートリエの土の中に埋められ歪んだ顔の絵。デュビュッフェの世界、フランシス・ベーコンの世界。そうした世界に親和する自分がいることに気づいた。 そうして小生は89年の1月24日の夜より、夜毎、ワープロに向かい、自らの壁を掻き削る作業に取り組むことになる。 それは小説とは到底呼べない代物である。友人のTN氏には散々、そんなものは文章ではないと呆れられた。しかし、自分には、当時、夜毎に描いた断片の数々は自分に圧し掛かる壁を素手で、生爪を剥がす覚悟で刻んでいたものなのである。 閑話休題:そういえば、学生時代にもガス事故事件があった。それは締め切った部屋で石油ストーブが不完全燃焼していたことによるものだった。その時は、たまたま哲学科の先輩が小生がゼミに出ないことを心配して小生のアパートを訪問してくれた御蔭で未遂に終わったのだが。 |