こ ん じ き の い お り
金 色 の 庵
 
(04/04/12 up)
 




                                         或る日のことだった。男は不意に思い立ったかのように家を出た。
 二人きりの生活だった のに、老いた妻一人を置き去りにしての家出だった。台所にある冷蔵庫の扉にメモ一枚 が磁石で止めてあった。内容のあまりの素っ気無さに妻は呆れてしまった。
「益美へ すまん。オレは旅に出る。もう、戻らぬ。 退蔵」
 妻には夫の行く先に思い当たる場所は何も無かった。
(何があって家を出たの…? 女? それとも、妻たる私に落ち度があったから?)
 家出することは、数ヶ月前からの男の目論見だった。男は、どうしてもそうし たかった。男には、それは家出ではなく、出家なのだった。この世を捨てて、清 浄な世界へ旅立つ。汚れた心と体を捨て去り、青雲の志に命を懸けるつもりでい たのである。
 庵(いおり)は、既に用意してあった。山間(やまあい)の道なき道を歩き、 やがて獣道となり、動物の爪の跡しか刻まれないような、深い下草に埋もれ そうな細筋を抜けると、やっとのことで男の住処に至るのだった。
 それは鳥の塒(ねぐら)にも似た、木屑と藁の家だった。
 幾度も険しい道を辿っていて、男は歩き慣れていた。食糧や飲料などをたっぷ り運び終わっていた。少なくとも数か月分は蓄えてある。食用になる草の在り処も見つけてあった。いざとなれば、水さえ あればいい。その水は、ほんの数分も歩いた場所に沢がある。幾度となく喉を潤 したことがある。
(間に合った…。もう、これで十分だ。思い残すことはない)
 男は、誰に言うとも無く、ひとりごちた。妻のことを思うと、胸が疼かないと いったら、嘘になる。
(でも、このほうが良かったのだ…。他にどんな方法があったろうか)
 そう、男は自分に言い聞かせた。
(もう、後戻りの道筋も見えなくなっている…)
 飲むもの、食べるものと、毛布を一枚だけ。あとは、一冊の本を持参していた。 その本だけを読むつもりでいた。その本は、何十回と無く読んでいて、 既にボロボロになっていた。読むというより、眺める、いや、読経するのだ。
 そう、それは、ある経文だった。その解説書は、暗誦できるほど読み込んでいた。 ここまできたら、後は、本文をひたすらに読めばいい。音韻的な意味での朗誦の仕方は頭に叩き込んでいた。意味など分からなくてい いのだ。
(下手に理解したって、そんなもの、今のオレに何の意味があろうか。徹底し て読んで詠んで仏か般若を呼んで、呼ばれて、そしてオレはあの世界へ行くのだ。 この世でもあの世でもない浄福に満ちた世界へ)
 夜が明ける前から起き出して、男は小さな経典を読誦した。唱えながら散歩し、食 事し、山川を眺め、空を見上げ、遠くの空を仰ぎ、流れる雲に心を遊ばせ、小鳥の鳴き声 に耳を傾け、森の囁きに身を浸し、身を清めた。身も心も骨の髄から生まれ変わるのが、実感 できるようだった。森羅万象の全ては新しい世界への誘いに思えた。
 やがて、男の願いが叶う日が少しずつやってきた。男は黄金色の世界に恋い焦 がれていたのだ。遠い昔、浄土の世界を欣求していた人びとは、誰しも黄金(こがね) を惜しむことなく注(つ)ぎ込んで浄土色に輝く堂を創り上げた。全てが金ぴかに輝く、眼 も眩(くら)む世界。眼が眩しさのあまりに瞑れてしまっても、何も悔いること などなかったのだ。
 そう、オレだってそんな世界へ行けるのだ。オレにはカネはない。だけど、そ の意思だけは、古(いにしえ)のどんな奴にも負けはしない…。
 そして、ついに男には、その庵全体が黄金色に輝きだす日がやってきたというわけ だった。
 最初は、褥(しとね)の辺り、壁面の一部、囲炉裏を模した土間に積まれた薪、藁 で編んだ敷き物などが、なんとなく黄金色に光るような気がするだけだった。だから、 気のせいとも思えなくもなかったのだが、次第に、折り巻いて枕代わりにしてい る藁束とか、食器、粗末な衣服、髪、窓の桟、なぜか天井までもがまさしく彼岸の光沢に満ちる ようになった。男は、噎せ返るほどの悟りの境涯を揺蕩っていた。
(ついにこの日がやってきたのだ!)
 男は恍惚たる境を遊ぶのみだった。もう、自分が誰だということも考えなくな った。誰が誰ということが何を意味するのか、分かりたくも無かった。あるの は、ガキの頃、泥んこ遊びをしたような無邪気極まる、夢見心地の世界だけなの だった。
 そうして、やがて男は、或る日…。

   それから、しばらくして、妻の一行がやってきた。夫の身辺を整理していたら、 日記と共に、荷物の送り状の控えが一枚、見つかったのだ。そこに記された住所 を頼りに、知り合いと連れ立って近在の村へやってきたのである。
 村人に消息を尋ね、ようやくのことで居場所を探り当てたというわけだった。
 その庵に繰り広げられた世界は、悲惨極まるものだった。庵の内も外も全てが 金色(こんじき)だった。そう、ウンコが塗りたてられてあったのだ。夫も、ウンコの山に 突っ伏し、窒息して果てたようだった。恍惚三昧の表情を浮かべて…。
 妻が焼き捨てた夫の日記には、「オレはボケていく」という文章だけが何度も何度も書き連ね てあったという噂がまことしやかに囁かれていた。


  
04/03/26 作(04/12 一部修正)