飛越地震があったとか(付:桃山時代の能)

 



飛越地震があったとか




 これも「桃山時代の能」と同様、ラジオで聞きかじった話の受け売りである。
 但し、聞きかじりなので、受け売りにさえもならない。受け流しというのも 生意気なので、一応、受け売りとしておく。何とかデータの補充に努めつつ、 若干だけ覚書風に書いておく。

   まず「飛越地震」というのは1858年(安政5年)に北陸地方で起きた典型的 な内陸直下型の地震で、その規模はM7.0〜7.1と推定される大地震である(発 生した日付は、新暦では4月9日だが、旧暦だと小生の誕生日に一致する。関 係ない話だとは思うが、気になる理由の一つではある)。
 名の通り、「飛」というのは飛騨地方であり、「越」というのはこれは越中 を意味している。富山県と岐阜県の県境、立山連峰の西の辺りで起きた地震で ある。が、地震の余波は遠く金沢にまで及んでいる。 
 この地震についての詳しい説明は、幸いにネットにて見つかったので、下手 な小生の説明は不要である(助かった!):
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssj/naifuru/vol29/v29p5.html

 実は小生は富山の生まれなのだが、迂闊なことに近世において郷里も関係す るこんな大地震があったことを全く知らなかった。あるいは聞いていたはずな のに、それこそ聞き流していたのかもしれない。
 上記のサイトによると、死者の数や倒壊した家屋の数も凄いが、なにしろ、 「山岳地帯を走る活断層(「跡津川断層」)の活動による地震だったため、各 所で山崩れ」が凄まじかったという。特に、「大規模だったのは、立山連峰の 西斜面、通称「立山カルデラ」に面する大鳶山(おおとんびやま)、小鳶山の 大崩壊」がひどく、通称「鳶崩れ」と呼ばれて」いるという。
 崩れ落ち堆積した岩や土砂の量は膨大で、4億立方メートルとも云われる。 そのうち約半分が今日までの140年あまりのうちに流れ出たという。
 ということは、まだいつ流出するか知れない土砂が2億立方メートルくらい は残っているということだ。仮にその2億立方メートルの未流出残土が一気に 流出したら、富山市全域が2メートルの土砂で埋まる計算になる。
 逆に云うと、140年あまりの歳月を掛けてとはいえ、今まで流出した2億立 方メートルにしても、相当に凄まじい被害を下流域に齎しただろうということ でもある。
 実際、大地震が発生するまでは、下流の川にあたる常願寺川は、それまでは 比較的大人しい河だったのが、発生以降は暴れ川へと性格を変え、下流域の住 民等を苦しめてきたのである。
 また、山崩れで発生した大崩れにより上流の川が堰きとめられ、多くのダム モドキを作った。しかし、やがてダムの一部は地震発生二ヵ月後に崩れ、流れ 出た土砂は常願寺川下流に当たる富山平野に流れ出し、数百人の死者を出して いる。
 流れ出た岩の中には400トンを超えるものもあったという。地元の人は、そ の岩を「安政の大転石」と呼んだ:
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/musha/Rzisin/rekishiZ19.html
 ちなみに、まだ記憶に新しい雲仙普賢岳での火山活動の際の「溶岩の総噴出 量は2億4千万立方メートル、福岡ドームの136杯分、東京ドームの190 杯分」だという:
 http://www.city.shimabara.nagasaki.jp/kazan/kasairyu.html

   蝶々が羽を大きく広げたような形をした富山県には、五つの一級河川があ る。小生が子供の頃は七つの一級河川があると教えられたものだったが、今日、 方々のサイトを調べてみて、いつの間にやら五つに変わっていた。
 ちなみに、五つの一級河川というのは、東から順に黒部川、常願寺川、神通 川、庄川、小矢部川である。一級河川でなくなったのは、早月川、片貝川であ る。
 いずれにしても七つの大きな河川が流れているということだ(関係ないけど、 河と川はどう違うのかね)。
 富山県は富山湾に面し周囲を立山連峰など山々に囲まれ、海の幸山の幸に恵 まれた風光明媚な地である。富山市の市街地のど真ん中から天を突く純白に輝 く巨大な屏風のような立山連峰を眺められるのは、なかなかに恵まれた地勢で あると思う。
 富山は水の都と言っても、決して地元の人間による贔屓の引き倒しには当た らないと思う。雪融けの水が方々で湧出している。だからだろうか、こんなサ イトもあったりして:
 http://www1.coralnet.or.jp/shima/index.htm

 が、容易に想像がつくように、このことは県民が水に悩まされてきたことを 意味する。富山は暴れ川との戦いを生きてきた県でもあるのだ。
 そしてその代表格の一つが常願寺川なのである。
 暴れ川と闘うとは土砂と闘うことだ。「急流河川・常願寺川を視察した外国 人技師デ・レーケは「川ではなく、滝だ」と表現している」というのも無理は ない。

 先述した膨大な量の土砂が残る地形を写真で見ることができる。是非、この 写真を見ると同時に、このサイト中の説明を読んで欲しい:
 http://www.hrr.mlit.go.jp/nyusho/annai/project2.html

 ということで仕事が暇だとラジオでいろんな話を聞ける。実にありがたいこ とだ。ウエーンである。

                                                 02/11/09



桃山時代の能




 金曜日の未明だったかNHKのラジオ(第一放送)で、桃山時代の能の復元と いうことでどなたかが(名前は失念した)アナウンサーの問いに答える形で語っ ておられた。
 小生は能を舞台で見たことはない。せいぜいテレビで断片的に垣間見ただけだ。
 あとは、時代劇の中で武士たちが能舞台を見る場面などは幾度となく見る機会 はあった。特に織田信長などは(彼に限らないが)自ら能を舞ったようだし、一 つのエピソードとして「絵」になることもあってか、しばしば信長が舞う場面は 撮られてきた。有能だが無骨な半面、幽玄なる能に興じる信長像というわけであ る。
 ということもあって、小生などのように生の能(舞台)に疎い人間は、テレビ や映画の能舞台のイメージが能に対する理解の土台というか背景になっているも のと思う。
 これはラジオの聞きかじりで、必ずしも正確な話をここで披露できるわけでは ない。読まれる方は眉に唾して読んでほしいし、できるなら正確な話を誰かが披 露してもらえたなら、それに増す喜びはない。 

 さて、昨日未明に聞いた話によると、今、我々が見る機会がある能というのは、 基本的に江戸時代に様式化・儀礼化されたとのことである。これは恐らくは歌舞 伎や狂言・落語など、他の多くの芸能に通じることだろう。
 しかし、最近の研究によると、信長や秀吉が好んで見たり自らが演じた能は、 江戸時時代以降の能とは様子が少し(それとも大きくと語り手が述べたか忘れた) 違うという。
 少なくとも桃山時代の能は時間的にもっと短かったというのだ。
 ある桃山時代の研究者が秀吉らのタイムスケジュールから割り出した能の演劇 時間は、どうやら50数分だというのである(54分くらいと語った記憶が微かに あるが自信がない)。
 さて、ある別の研究者(確か高桑いづみという名前だったと思う。
 彼女は(高桑さんだったとして)、「能楽囃子の歴史的研究 −楽器形態・技 法・演出効果をめぐって」という論文で博士号を取得している)は、(ここから 先はもっとあやふや)楽器の研究か語りのアクセントから当時の能を演じる時間 を割り出したとのこと。
 しかも、驚いたことに、両者の割り出した時間がほぼ一致したというのだ。
 折りしも、11月9日(土)に(つまり今日)、「横浜能楽堂企画公演「秀吉が 見た『卒都婆小町』」」ということで復元能の公演が行われた(ついさっき、7時 半頃に公演が終了したはず):
 http://www.city.yokohama.jp/me/nohgaku/prog-2.html
 上記の案内によると、「解説「桃山の能がよみがえるまで」」ということで、 高桑いづみさんも含め、研究者の方々の講演があったようで、どんな解説がなさ れたのか、小生としては興味津々である。

 これは小生の勝手な偏見に過ぎないのだが、時代劇などで能を武将が演じる場 面に遭遇すると、ホントにこんな風に演じられていたのかと根拠もなく疑心暗鬼 の念で見てしまっていた。
 根拠などない。しかし、江戸時代はともかく、戦国時代や、まして桃山時代は 未だ体制が確固とした基盤の上に乗っていたわけでは毛頭ない。
 もっともっと緊張感と緊張と透徹した人間や人生理解に裏打ちされた、凝縮さ れた人間ドラマ像が示されていたに違いないと、根拠なく思うのだ。
 テレビで垣間見ただけの小生が能の批評などできるはずもないし、テレビでは 舞台の雰囲気が十分に伝わるわけもないのだろうが、しかし、何か違う。小生と しては、様式化される以前の能を見たいと思ってしまうのである。

                                                02/11/09

 折りしも11月27日の朝日新聞に「桃山時代の能は短かった」題された記事 が掲載され、小生の目を惹いた。
 記事の要旨を以下、簡単に記しておく。
 桃山時代の能の上演時間は、表章・法政大学名誉教授の研究では現行の約6割 の短さである。
 能楽は江戸時代に武家のための芸となった式楽化のため、重々しくなり長くも ある保守スタイルが定着した。近年は、式楽観に代わる古典演劇観が、その傾向 を助長してきた。位の重い曲はよりゆっくりと、速い能はより速くなる傾向にあ る。
 3年がかりの復元作業に参加したのは、実演者からはシテ方の山本順之氏、太 鼓の柿原崇志氏。研究者側からは竹本幹夫早稲田大教授、高桑いづみ東京文化財 研究所室長、坂本清恵玉川大助教授、山口憲・山口能装束研究所長。
 現在1時間半の演能時間は復元能では50分。アクセントも今の京言葉風。能 装束は桃山時代のものを復元。能面は梅若六郎家に伝わる室町時代の名品「老女 小町」。小鼓も奈良・春日大社の社宝である室町時代の胴を使う。
 記事の中では、公演を企画した山崎有一郎・横浜能楽堂館長のコメントが載っ ている:「能はかつて酒を飲みながらでも見る気楽な芸能の側面があった。それ が重苦しくなり、退屈なのにありがたがる傾向がある。原点に戻るとどうなるか、 重苦しい曲の代表である『卒塔婆小町』をモデルに復元してもらった」
 記事には、復元能「卒塔婆小町」を舞うシテの山本順之氏の姿を映す写真が、 神田吉明氏による撮影で掲載されている。

                                              02/12/02補記