壁 の 傷



  そこはきっと有り触れた場所。誰でもが何気なく行き過ぎていく。だけど、 誰一人として記憶の海の片隅にさえ残そうとはしない。
 陸橋の下の、中途半端な長さのために灯りさえ設置されない薄暗い側道。
 煤けた壁には幾重にも殴り描きされた判別不能な絵や記号。そして傷。
 傷は人の手によって刻まれたのか、それとも歳月の気まぐれがコンクリート の化粧を剥がして、積年の怨念を滲ませ浮かび上がらせたのか、誰にも分から ない。
 掌で、そっと壁を擦ってみる。ザラザラした感触が何故か気持ちを落ち着か せる。
 この世が未だ完全な平面に還元され尽くしていないと告げているようなのだ。
 お前だけが刺々しいわけじゃないと告げているようなのだ。
 俺は、ふと思う。きっとこの壁には人の魂が塗り篭められているに違いない と。
 それは、きっと俺が心底から会いたい人の執念に違いないと。
 手の平を壁に沿って斜めに走らせてみる。すると、奇妙に白っぽい線が顔を 覗かせる。炭坑を出てきた男の顔を垂れる汗の筋のようだ。
 感傷的な俺は、涙の筋と思いたかったけれど、壁の頑なな誇りが俺の我が侭 を許さない。もう、何十年もこうして人の慌しい行き来を見守ってきたのだ、 壁だって涙も涸れようというものだ。
 悲惨なことに壁の方々が、上塗りされて盛り上がっている。継ぎ接ぎされた 古着よりひどい有り様だ。失敗した整形手術の痕のようだ。醜い。でも、だか ら愛しい。
 きっと素のままのコンクリートの壁だったなら、罅割れた透き間から涙だっ て流せたかもしれない。雨水がコンクリートの分厚い壁をも浸透し伝い流れて 渇いた表面を潤せたかもしれないのだ。
 涙さえ壁の遥か下層で出口を見出せないまま途方に暮れている。奴は、壁の 奴は、きっと自分でも悲しいのか可笑しいのか、笑いたいのか、怒りたいのか 分からないでいるに違いない。
 この薄闇に佇む壁の前を通り過ぎると、俺はほんの一瞬だけれど、孤独を忘 れることができる。
 何故なら、壁を撫で摩るのは俺一人ではないからだ。傷だらけ、補修だらけ の壁に心の頬を摺り寄せることで、やっとの思いで大地の鼓動を聞いている奴 が、俺だけではないと実感できるからだ。何層にも上塗りされたペンキの下に 俺の先人の手の温もりが化石となって生きている。俺の手形だって、うまくし たら、いつかは無骨なペンキの餌食となって深く埋められていけるかもしれな い。
 そんな僥倖を俺は味わえるだろうか。

 俺は昔、そう、ガキの頃、ある家の傍を通るのが好きだった。その家には蔵 があって、その蔵は土壁だった。その壁の表面は、それこそ痘痕面だった。葦 の茎さえもが剥き出しだった。
 それだけじゃない。なんとその壁には弾痕が斜めに走っていたのだ。誰にと もなく聞いた話だと、戦時中にグラマンとかいう戦闘機に家の主が狙われて機 銃掃射を受けた名残なのだという。その追い立てられた男は撃たれた時に弾の 欠片が体に深く食い込み、やがてその傷が遠因となって死んだが、壁の弾痕だ けはしっかり残っていたというわけだ。
 俺は、その生々しさを密かに愛惜していた。現実に刻まれた勲章のように思 っていたのだ。俺もいつか、そんな傷痕を誰かに残したいと、どれほど切に願 ったことか。
 その願いは叶ったのか…。その真実だけは自分の胸の中でさえ、目を背けて いる。
 やがて、いつだったか蔵は綺麗に改修されてしまった。俺をこの世に繋ぎ止 める絆が断ち切られたようだった。そして俺は田舎を去ったのだ。

   雨に祟られることのない陸橋下の壁。
 俺はもしかしたら、いつかはこの壁に弾痕に似た穴を抉り付けることで、生 きる証しを立てたいと思っているのかもしれない。
 それともフォートリエのように誰かの生きている肢体を泥壁の中に埋めたい と思っているのかもしれない。
 そして、さり気ない振りをして、ある日、壁を指で掻き削る。すると…、奴 の腐敗し果てた肉体の影が現れ出るという段取りだ。
 俺は、その変わり果てた姿を抱擁したいのだ。きっと、どんな交合よりも強 烈な快感を覚えるに違いない。
 その日の来るまでは、密かに壁に頬擦りし続けるのだろう。

                                                 02/11/10