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(03/05/01 up)
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる 和泉式部 眠れない夜が続いていた。眠っても喉の渇きにも似た切迫した思いから逃げ られるわけもない。陽光をまともに浴びる夢が俺を待っている。瞼が焼けきれ そうだ。眼球が焦げてしまいそうだ。 部屋に漂う何かの強烈な香りが一層、神経を苛立たせていた。女房が好きだ という花の香りだを放つ芳香剤だったが、花の名前は忘れてしまった。 俺は嫌いだというのに、女房の奴が、これがないとわたし、生きていけない の、なんて大袈裟な言い草をした挙げ句、サイドテーブルの上に置いている。 もしかしたらこのせいで俺は眠れないのかもしれない。 俺は生き延びている。死にたいほどの苦しみがある。でも、俺は身を捩じら せても、寝床を輾転反側しても生き延びる。死ねばあいつが待っていることを 知っているからだ。にっこりと笑ったあいつが。 あいつは俺が悪いことを知らない。知らないはずだ。俺のせいで……。 知っているのは俺だけのはずだ。その俺が死んだらあいつのもとに行かなけ ればならない。行けば、きっと俺はあいつに告白してしまうに違いない。何も かもをぶちまけてしまうに違いない。 これが最後の一杯だ、これさえ奴に飲ませれば腐れ縁を断ち切れる。そのは ずだった。そして実際にうまくいった。奴は飲んでくれた。味の異変に気がつ いて、一口だけで吐き出すかもしれないという懸念をよそに、あいつは一気に 飲み干してくれたのだ。 俺には未来がある。俺には将来がある。だからお前が邪魔なのだ。そんなこ とを言えるはずもない。けれど、お前には俺の前から消え去って欲しかったの だ。お前には永遠に口を閉ざして欲しかったのだ。お前は、俺の約束された将 来の障碍そのものだったのだ。お前は欲望を満たすだけの女なのだ。 俺は若かったのかもしれない。忘れ果てた過去、の、はずなのだ。 山の峠の脇道を入った古びた休憩所に車を止めて、俺達は暮れていく山里を 眺めていた。曖昧な闇の底に一つ、また一つ、灯りが浮かぶ。蛍が夜の訪れを 待って舞い飛び始めるように。 俺の差し出す珈琲をお前は素直に受け取ってくれた。 あんなにもしおらしいお前を初めて見たような気がした。あの時、初めて俺 はお前に心底、惚れていると気付いたのかも知れない。 夜が一気に深くなる。 エンジンを止めた車の中で俺はお前の喉を珈琲が滑り落ちていく音をまざま ざと聞いていた。密かに盗み見たお前の唇に一滴だけ珈琲が垂れていたような 気がしたのは、俺の錯覚なのだろうか。闇の中に蒼白く浮かぶお前の横顔。そ の口元から喉にかけて細く赤黒い帯が一筋。 せめてその解れた髪のような帯に最後のキスを贈るべきだったろうか。 お前は全く表情を変えなかった。何事も起きてはいないかのようだった。ゴ クリという喉越しの音だって俺の思い込みに過ぎなかったのだろう。春の風に 木の葉が揺れる。胸騒ぎのように激しく密やかに揺れて止まない。ザワザワと いう葉の擦れる音が俺の神経を甚振る。 あの時、お前は黙ってドアを開けて、転がるようにして車の外に出た。崖の 淵ギリギリまで這っていくお前の後ろ姿。息絶える間際ののたうつ白蛇。真昼 間のモーテルで見せてくれたお前の狂喜乱舞。掴まえようと懸命になる俺を嘲 笑うかのようにお前の体はぬめって捉えどころがなかった。 「あなたはわたしのことを一生、忘れないわよ」 ベッドで、そう、お前は言ったね。 そのお前は、今、大地に溶け込もうとしている。闇に消え去ろうとしている。 あと一歩だった。その一歩を俺が後押しして、お前は崖を転がり落ちた。 何の手応えもなかった。音さえしない。ただ、風の鳴く微かな音色が響いた ような気がしただけだ。いや、それさえも俺が、全くの沈黙に耐えられなくて、 勝手に耳に聞き取っていただけなのかもしれない。ザワワザワワという山笹の 葉の風に鳴る音だって、せめてそれくらいはあって欲しいと願ったからに過ぎ ないのかもしれない。 俺は念願の地位を手に入れた。約束された未来に俺は今、いる。隣りには退 屈な女が眠る。お前とは正反対の女だ。現実が全ての女なのだ。俺にも現実が 全てなのだ。 ただ、その現実が見えなくなったのは何故だ? 夜の底で俺は闇の天井を眺めていた。ドアのパイロットランプや電話機の留 守電の赤いランプや太陽光で充電されたエネルギーで光る腕時計や、カーテン の隅から洩れ込む月光が、俺と女房のいる部屋を不思議な別世界へと演出して いた。 目を無理矢理閉じても、目に焼きついた無数の光が俺の瞼の裏で季節外れの 蛍の群舞のように明滅するのだった。 あの蛍はお前の命なのだろうか。それともあの日、失ってしまった俺の魂な のだろうか。 よく見ると、飛んでいるのはたった二匹の蛍に過ぎないと分かった。漆黒の 闇に二筋の光の帯が夢の中の幻のような花の形を描いている。一筋は白っぽく、 もう一筋は淡い赤紫だ。その二つの光の帯が戯れあい重なり合い、やがて模様 を織り成していく。 なんて仲のいい蛍たちなんだろう。 花の形……。あの、形は……。もしかして沈丁花? でも、花に疎い俺がどうして二匹の蛍の描く花の形が沈丁花だと分かったの だろう。 すると、不意に、あいつがいつだったか沈丁花が好きだと言っていたことを 思い出した。あいつの視線の先には、夢の中で咲くような花があった。 あれが沈丁花なのか。 沈丁花はわたしの花なの。わたしの誕生花なのよ。あなたに尽くす花。俺の 耳を素通りしたに過ぎなかったはずなのに、どうして今になって思い出すのか。 ベッドの中で俺は悶々としていた。白夜のような日々。昼の世界にまで浸潤 する闇の禍禍しさ。明けることのない闇のはずなのに、醒めることのない眠り に怯えている。それでいて夜の底の静寂は俺に恵まれない。 相変わらず部屋の中の芳香が俺の責め苦となっていた。なんだってこんなも のを置いておくのだ。俺はとうとう我慢がならず、芳香の入った壜を壁に叩き つけた。 その瞬間だった、この香りが好きだと、いつだったか女房が教えてくれた花 の名前が沈丁花だと思い出したのは。 03/04/30 02:10 |