|
(03/03/04up)
授業が始まる。大抵は、ちょっとした時間を見つけて、事前に鼻をかんでおく。 が、たまにかみわすれることもある。そうした時は、授業というのは、最初から悲 惨な時間帯と化してしまう。 ただ、鼻炎の症状の強いらしいぼくは、実際には、ちょっとやそっとかんだくら いでは、授業が始まって十分もしないうちに、その効果は薄れてしまうのだった。 要するに、予めかんでおこうがおくまいが、結局は同じ事なんだ。 すると、もう、心はうつろになる。時計と睨めっこになってしまうのだ。気の小 さいぼくは、静かな授業時間の最中にチーンとするなんて、できっこない。鼻水を ズズッとするのも気が引けるのだ。 鼻水が垂れそうなのを懸命に堪える。考えることは、ただ、鼻水をチーンしたい! それだけ。 先生が何か問題を出している。最初は例題とかで、先生が出した問題を先生が解 いてくれる。 「でしょ、…だから、これとこれが、…こうなるから、だから、ね、ああなるわけ、 …ね、分かるでしょ」って、ぼくは、まるっきり上の空である。 けれど、目は真剣に黒板を眺めている。先生の顔の表情とか、黒板の上に白やら 黄色やらピンク色のチョークで書かれた説明の文字を追っている。それらの個々の 情景は、ちゃんと見ているような気がする。 ただ、そう、それらの繋がりとか意味を理解できないでいる。 ああ、もう、垂れそうだ。ズズッと啜ってみるのだけれど、もう、鼻の奥は目一 杯、詰まっていて、どうしようもない。こっそりとちり紙を取り出して、せめて鼻 の穴から溢れ出しかけている分だけでも、拭ったりする。 早く、授業が終わって欲しい。けれど、まだ、授業は半分も終わっていないのだ。 あとの二十分余りが気の遠くなるほどに、長い時間に感じられる。もう、ぼくには 尽くすべき手段は何も残されていない。 不意に先生の言葉が耳を刺す。 「…からな、分かったか」 え、何、言ったの。ちゃんと聞いているはずなのに、肝腎なところが、スッポリ、 抜け落ちている。ガッカリだよ。 既に息が苦しくて、体が火照っている。鼻はしっかり詰まっているから鼻で息は 出来ない。といって、口を開けると、苦しさの余り、ハーハーとやりそうで、やば い。 そう、ぼくは、鼻で息が出来ないから、黙っていると、というより、気が抜ける と、すぐ、口をポッカリ開けて、頓馬な顔で口で息をしているはめになるんだ。で、 ハーハーなんて、バカみたいになってしまう。 だから、ぼくは、授業中だろうが、なんだろうが、人前で何かに夢中になること ができなくなっている。夢中になった瞬間、すべてを忘れ、つまりは、たしなみを 忘れて、口をポカンと開けてしまう。それだけじゃなく、息を吐く音さえ、出して しまうらしい。 ぼくが映画を映画館で見るのが嫌いなのは、そのせいなんだ。ホントは映画が好 きなんだけど。ぼくは映画なんて見ないよ、なんて嘯いているのは、たとえ好きで も行けない自分の惨めさをみんなに悟られたくないからさ。どうせ、説明したって、 誰にも分かりっこないし。映画を見て、思わず夢中になっちゃうのに、夢中になれ ないだなんて、楽しいわけないだろう!(そんなの鼻をかめば、済むことじゃんっ て。なんて、デリカシーのない奴等なんだろうって、思うだけさ。それができない から苦労してるんじゃないか!)。 それでも、普段なら、さりげなく口を、そう、薄く開けて、人に、口では息をし ていない風を装って、口で息を静かにすることができる。それに、他人の目を避け て、何処かの物陰で、遠慮なく大口を開けてハーハー、やったって構わないわけだ し。 でも、今は授業中なんだ。幾ら鼻が詰まっているからって、こんなにピンと張り 詰めた静か過ぎる雰囲気の中で、鼻をかむのは勿論、口を薄く開けて息をするのも、 憚られてしまう。 どうしたらいいだろう。息が苦しくて、もう、頭がボーとしている。何も考える 余裕などない。考えるどころか、黒板を見ている振りを装うのも億劫になっている。 先生の説明だって、垂れ零れそうな鼻水のせいで、途切れ途切れの言葉の端切れに なっている。 仕方なく、周囲の目を伺いつつ、こっそりと息をする。口でだ。 但し、薄く開けた唇の透き間から、音が決して洩れたりすることのないように十 分に気をつけながら、ゆっくりと深く、しかし、実は窒息しそうな辛さの故に必死 になって息をする。 ああ、授業はまだまだ続く。あと、十分以上、残っているようだ。せめて、ぼく を指さないで欲しいな、先生。助けて欲しいよ、先生。誰でもいいから助けて欲し い。でも、先生も、ぼくが鼻詰まりで苦労してるなんて、知らないのだ。 「だから、13掛ける15というのは、ね、こういうふうにやるんだ。分かるね。 十分、説明したと思うから…、誰かに…、やってもらおうかな…、ええと、誰がい いかな…」 (ああ、ぼくでないように…。ぼくが当たらないように…) 「○△君、やってくれるかな」 (よかった、ぼくじゃなかった!) ぼくの授業時間なんて、いつもこうなんだ。ただひたすら終わるのを待つだけの 苦しみの時間帯。意識が遠のいていくのを、ただ、手をこまねいて眺めている不毛 な時。段々と体の中から空気がなくなって、代わりに赤っぽいような熱の塊が体一 杯に充満する蒼白の時。これだけ苦しみに耐えたって、なんの役にも立たないなん て、嘘みたいだ! けれど、○△の奴ったら、簡単に答えやがるので、先生は、もう一つ問題を出し て、他の奴を指そうとしている。 「じゃ、次は、これ。誰にやってもらおうかな…」 ぼくは祈るような思いで、誰か他の人に当たるのをひたすら願う。ぼくは問題の 意味も分からない。分かるようになるのは授業が終わってから、きっと、うちに帰 ってからなのだ。 授業の残りの時間は、あと、ほんの数分になっている。あと僅かだ。もうちょっ と我慢すれば、休み時間になる。ワイワイガヤガヤと賑やかな中で、教室の隅っこ か、大概は、トイレへ行く途中の廊下の片隅でみんなに隠れて鼻をかむんだ。束の 間の安息を得ることができるんだ。 「××君、やって」 (××君だって、え? それって、ぼくのことじゃないか…) ぼくは、名前だけは分かった。のろのろと立つ。頭は、とっくの昔に空白になっ ている。意識が絶える寸前になっている。顔が窒息の苦しみで真っ赤になっている のが自分でも分かる。懸命に鼻水が垂れるのを堪える。 でも、皆は、そう、先生も、ぼくの顔が真っ赤なのは、ぼくが答えられなくて、 恥ずかしいからだと思っているんだろうな。悲しいな。 確かに。 確かに、答えられない。でも、息が苦しいのも、確かなんだ。誰一人、分かって くれない。こんな馬鹿馬鹿しい難儀を毎日毎日、毎時間毎時間、耐えているだなん て、親だって知らない。ウチでの食事だって、息を殺すようにやっている…、そん な素振りを親にも気付かれたくないんだ。でも、気付いてくれたってよさそうなも のなのに…。親が神様じゃないって分かったのは、この悲しい事実のせいだったか な…。でも、いいんだ。自分だって、目を背けているくらいなんだから。 ああ、今日も、ぼくは立つ羽目になる。でも、今日は、ましなほうだ。だって、 立たされている時間は、ほんの数分なんだから。それだけ立っていたら、休み時間 になり、鼻をかむことができる。救いのときがやってくるのだ。 他の誰かがぼくに代わって答えているのを虚ろな意識の中で聞きながら、ぼくは、 遥かに遠い遠いチャイムの鳴る時を待っている…。 03/03/03 08:18 [本稿はエッセイ作品「1プラス1の間には」を土台にして掌編作品に仕立ててみたものです。比較して読むと面白いかも。(03/03/04記)] |