(03/08/21 up)
(04/09/16 挿画up)
あれはわたしがお袋の田舎である新潟へ連れられて行った時のことだ。
お袋は囲炉裏のある十畳ほどの広い部屋で、田舎のみんなとお喋りに興じて
いた。お袋の姉夫婦やお袋の姪っ子、甥っ子、それに部屋の隅っこには、柱に
凭れるようにして、お袋の母、つまりはわたしの祖母に当たる人も、にこやか
にみんなの楽しげな様子を眺めていた。
祖父に当たる人がいたのかどうかは覚えていない。
驚くほど高い天井は煤で真っ黒で、幼かったわたしは火が燃え盛って焼け焦
げたのかと思っていた。
やたらと広い玄関の脇の囲炉裏の間の隣りには、これまたさらに広い座敷が
あって、何か特別な時でないと使わない開かずの間になっていた。何故か、囲
炉裏の間と座敷を仕切る襖が僅かに開いていて、その透き間から薄暗い座敷を
みんなのお喋りに乗り遅れたわたしは、恐々覗いていた。
玄関を上がると立派な廊下が長々と続いていて、その奥には台所があり、そ
の両隣にも部屋があり、そのどちらかの部屋の脇を抜けると、そこには屋敷の
裏庭に面する廊下があるのだった。その廊下の突き当たりに祖父母の部屋があ
るらしいのだが、幾度か屋敷を訪れたにも関わらず、一度も覗いたという記憶
がない。
屋敷の玄関の前の広い庭の外れには二つほどの蔵(ちょっと記憶が曖昧。三
つあったかもしれない)があって、それなりの歴史を感じさせたが、裏庭の奥
にも別にある蔵は、垣間見ただけの印象では、どうして建て直さないのか、せ
めて改修とか補修くらいはしたほうがいいんじゃないかとガキの自分でさえ感
じるような古臭いものだった。
表の蔵の一つには、何かの折に中に入ったことがあったはずだが、裏の蔵に
は、それどころか裏庭には一歩も足を踏み入れることは許されないのだった。
あれから、既に三十年以上は経過している。さすがに屋敷そのものは、とっ
くに改築されていると聞いている。が、その灰緑色の蔵がどうなったのかは聞
いていない。
囲炉裏の間のお袋たちの他愛もない談義に退屈していると、お袋の姪っ子の
悦ちゃんがボクに近づいてきた。そして、「ボク、夜の散歩に行こうよ!」、
と誘ってくれた。
そう、当時、悦ちゃんに限らず親戚の者達には、わたしはボクと呼ばれてい
たのである。
ボクは素直に連いて行った。ボクは二つ年上の悦ちゃんのことが好きだった。
夏のこととて、悦ちゃんは黄色のタンクトップにベージュ色のジーンズ姿だっ
たと思う。自分の格好はまるで覚えていない。
二人で屋敷を出て行こうとすると、悦ちゃんのお母さんが、「狐の嫁入りが
…、気をつけるのよ」と叫んでいた。
ボクは、悦ちゃんと二人で夜の散歩に行ける喜びで胸が一杯だった。
でも、伯母さんの言葉が気になってならなかった。それでいて、悦ちゃんに
は尋ねることができなかった。下手に聞いて、それで悦ちゃんが気が変わった
りしたら、ボクたちのデートがおじゃんになってしまう。
ボクは、しばらくしてから悦ちゃんに聞くことにして、悦ちゃんの手をしっ
かり握っていた。悦ちゃんの手を握っている…。悦ちゃんの汗とボクの汗が混
じっている…。宵闇に火照るボクの顔が悦ちゃんに見られないかとドキドキし
ていた。
屋敷の周りは何処までも広がる田圃だった。青々と実る稲穂の海だった。夜
になって凪いで静まり返った深緑の海となっていた。悦ちゃんと二人で裸にな
って、巨大な敷布団の海原を何処までも泳いで行けそうな気がした。できるな
ら月の沙漠までも泳ぎ渡って行きたい!
それでいて、伯母さんの「キツネ」という言葉が耳について離れないのだっ
た。
キツネの嫁入り!
いつか聞いたことがある。そうだ、いつだったかお袋に田舎はキツネ火で有
名な村なのだと聞いたことがある。ただ、ボクは聞き流していた。田舎なんだ
からキツネやタヌキくらいは出るんだろう、当たり前じゃない、という程度だ
った。
それが、実際に夜の村の道を歩いていると、街灯などあるはずもなく、それ
に頼みの月も何故か雲に隠れている。その代わり、空は晴れ渡っているので、
星は無数に瞬いている。空に星があんなにあるなんて信じられない思いだった。
しかも氷の刃の切っ先のように鋭く光っている。
悦ちゃんの手を握るボクの手には、嬉しさと照れの汗に、訳の分からない恐
怖の汗も混じってきた。ボクは悦ちゃんの手を、一層、しっかりと握った。
「ねえ、さっきさ」
「えっ」
「さっきさ、おばさんさ、キツネがどうしたって言ってたよね」
「キツネ? ああ、キツネの嫁入りね。そうそう、この辺りは夜になるとキツ
ネが化かしに出るのよ。キツネが現れる前に、キツネ火がチロチロするの。そ
れが合図というか、前触れね」
「えっ、出るの」
「大丈夫よ、わたしが付いてるんだから! 男の子でしょ! 気分よく散歩し
ましょ」
藍色の空、紺色の空、月を隠す鉛色の雲、雲の切れ目の紫紅色の空、すっか
り太陽は高く低く連なる山々に没しているけれど、それでも山の端には名残を
惜しむかのような光が夜の底に透けて見えるようだった。
緩やかに傾斜する山里に点々と灯りが望める。人家があるのだ。そうだ、ボ
クたちだけじゃないんだ。何かあったら、そこまで駆けて行けば、誰かが助け
てくれるに違いない。
ところが、まるで峠の道のように起伏し蛇行する道は、気がついたら谷の底
のような場所に差し掛かってしまい、人家など一つも見えなくなってしまった。
「ねえ、何処まで歩いてくの」
「いいところよ。黙って、連いてくればいいの」
ボクには悦ちゃんが他人のように感じられてきた。横顔を伺っても、能面の
ように無表情だった。
というより、後ろで束ねていたはずの髪が、いつの間にかバラバラになり、
顔を覆っているのだった。これじゃ、誰だか分からない。
手の温もりだけが頼みの綱だった。ボクの汗が悦ちゃんの汗と溶け合って、
ドロドロになっている。ああ、この感触。今はこれだけだ。
不意に悦ちゃんが口を開いた。
「ここが墓場なのね」
「墓場?」
「そう、この村の人たちの先祖代代の墓が並んでいるの」
ボクには最初、何も見えなかった。目を凝らしてみるとやっと、少し窪んだ
辺りに確かに墓石らしいのが十基ほど散在しているのが伺えた。幾つか卒塔婆
らしいものも端っこのほうに今にも倒れそうにして突っ立っている。
「ここなのよ」
「ここって、何が」
「キツネ火の名所が」
ボクは悦ちゃんの身体にしがみ付いた。
「だらしないのね。しがみ付かないの。大丈夫よ、今は出ないから」
「今は出ない? ホント? じゃ、いつ、出るの」
「そうね、あと、一時間もしたらかな」
「えっ、じゃ、これから出るんじゃないか」
ボクは、情ないことに身体が竦んで、一歩も動けなくなってしまった。悦ち
ゃんに笑われても、悦ちゃんの体に纏わりつくしかなかった。悦ちゃんの体は
温かかった。汗で濡れていた。毛深いのか、腕に頬を当てると、産毛がこそば
ゆい。
今は出ない、でも、これから出る! なんて悦ちゃんは意地悪なんだろうと
思った。そのうち訳もなく悦ちゃんに圧し掛かりたくなった。ボクだってバカ
にされるだけじゃないんだぞ! と、思った瞬間だった。
「そこに登ってみなさい」
「そこ?」
いつ火をつけたのか分からないけれど、悦ちゃんは悦ちゃんの家の墓に蝋燭
を立て、火を灯していたのだ。ボクが目を閉じて震えているというのに、悦ち
ゃんはなんて冷静なんだろう。
ボクは肩透かしを喰らった気がした。素直に従うしかなかった。
言われるままに、蝋燭の焔を頼りに、墓場の一角にある大きな岩に登ってみ
ると、それはすぐに眼に飛び込んできた。
あれがキツネの嫁入りなのか!

山里の奥のほうに橙色の光が十個、あるいはそれ以上の数、闇夜にチラチラ
揺れている。光は大よそ、列をなしている。見ようによっては、田圃か畑の間
を縫って走る道を辿っているようにも思える。ボクは、一瞬、UFO! と叫
びそうになった。
いや、つい、口に出してしまっていたらしい。
「UFOだって、情緒がないわね。キツネ火と言ってよ。狐の嫁入りって言っ
てんだからさ」
ボクは恥ずかしかった。ついこの間、読んだ漫画の本に闇夜に浮かぶ謎の光
の群れを撮ったという写真を見たばっかりだったのだ。あれは、夜の空に十数
個の眩い光たちが集団をなして浮かんでいるといった写真だった。
「あのね、あの光はね、本当の狐の嫁入りなの」
「えっ、本当のキツネの嫁入り」
「そう。でも、誤解しないでね。村の風習よ。昼間に結婚式を挙げたカップル
たちの一行が、夜、狐の化粧をして、村のあちこちを練り歩くの。で、最後は
披露宴の会場に向うのよね。そのうち、こっちのほうにもやって来るわよ」
そうか、そうだったのか。なんだ。ボクはガッカリした。これじゃ、悦ちゃ
んの体にしがみ付く理由がなくなってしまう。帰り道は、手を繋ぐだけ、か。
しかし、ボクには未だ、燻っているものがあった。伯母さんが「気をつける
のよ」と言っていたじゃないか。気をつけるのよ、とは、キツネの嫁入りがあ
るから、見逃さないのよ、という意味だったろうか。
そうじゃない! ボクは、何か裏があると思っていた。
あれは、やっぱりキツネの嫁入りなんだ。キツネ火なんだ。ボクを心配させ
まいとして、悦っちゃんは結婚したカップルの一行が練り歩いているなどと誤
魔化しているんだと考えてみた。
それでいて、悦ちゃんが、そこまで優しかったかなという疑問も拭えずにい
た。ボクは何がなんだか分からなくなった。
どれほど、キツネ火を眺めていただろうか。その黄色の火の群れは、次第に
ボクたちのほうに近づいてきた。もう、否定はできなかった。悦ちゃんの言っ
ていることが正しかったのだ。花婿・花嫁、そして介添え人らの一行が、手に
手に灯りを持ってゆっくりと歩いてくるのだった。
「手に持ってるのは、手燭行灯というの」
「てしょくあんどん?」
「そう、あれがいいのよね。あれが、事情を知らない人が見たら、キツネ火に
見えたりするの。情緒、あるわよね。わたしもああいう結婚、したい」
そうだ、ボクだって悦ちゃんと結婚、したい!
ボクたちは花嫁の一行のあとを追うように、ゆっくり歩いていった。手に手
を取って。
けれど、話はこれで終わらない。いいものって、これのことだったのか。こ
れだけだったのかという疑問は燻ったままだったのだ。腑に落ちないままに、
帰るしかなかった。何かキツネに騙されたような、釈然としない思いだった。
悦ちゃんの館に帰り着く直前だった。不意に雨が降り出した。
ボクの手を振り切って、悦ちゃんが走り出した。ボクは懸命に悦ちゃんを追
った。屋敷の灯りに悦ちゃんの濡れた肩や腕が浮かんで、ボクの心を一層、騒
がせたのだった。
あの時の悦ちゃんの後ろ姿は今もわたしの眼に焼き付いている。
そのシャッターチャンスの一瞬だった、屋敷の奥から伯母さんが出てきて言
った。
「だから、狐の嫁入りに気をつけなさいって言ったでしょう」
「ううん。だって、間に合うと思ったし」
ボクは、二人の会話の意味がまるで理解できなかった。
あとで、お袋にこっそり「キツネの嫁入り」って何? と聞いた。すると、
お袋は、ボク達の帰った時の様子を見ていたのか、丁寧に説明してくれた。
「それはね、別名、狐雨(きつねあめ)とも言うのね。日が照ってるのに降る
雨のことを言うの。多分、狐が人を騙したり、からかったりするように、日が
照っている最中に不意に思いがけず雨が降るんで、それで狐の嫁入りと言うん
でしょうね。普通は、夕立じゃなくて、晴れてる昼間の急な雨のことだけど、
姉さんのことだから、夕立のことを洒落て言ったのね」
ボクは、ガッカリした。すっかりキツネに抓まれた気分だった。
今にして思うのは、一番のキツネは、悦ちゃんだったということだ。悦ちゃ
んは最初から伯母さんの言っていることが分かっている。それだけじゃなく、
ボクがその言葉に怯えていることにも気づいている。それなのに、最後の最後
まで素知らぬ顔でボクをからかっていた…。
でも、いいんだ。ボクは、いや、わたしは悦ちゃんの体に思いっきりしがみ
付けたんだし。
もしかしたら、まさか、悦ちゃんは分かっていて、ボクにしがみ付かせるた
めに黙っていた…。まさか、そこまでは…。でも…。
03/08/21 作

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