(04/07/23 up)
1.コクリコのこと
2.二上山のこと山窩のこと
1.コクリコのこと
先ず最初に、コクリコとは何なのかを説明しておきたい。といっても、小生も
曖昧な知識しかないので、自身の勉強を兼ねてメモしておきたいのである。
コクリコとは、英では「ポピー」、フランス語では「コクリコ」、スペイン語
では「アマポーラ」と称される花のことで、日本だと、「ひなげし」のことであ
る。漢字で表記すると、「雛罌粟」ということになる。この雛罌粟の罌粟は「芥
子」とも表記されることがあるので、「雛芥子」という漢字表記も使われる。
「「雛」は小さい、かわいいの意で、ケシの中では、小型でかわいい花であるこ
とから」とのこと。
詳しくは下記のサイトを見られたい:
「雛罌粟 (ひなげし)」
http://www.hana300.com/hinage.html
「「芥子粒(けしつぶ)」の言葉ができた」のも、雛罌粟に関連するとは、なる
ほどという思いがした。じゃ、消しゴムも、実は、ノートの鉛筆の文字を消しゴ
ムで消すと芥子粒が出るので、本来は、芥子ゴムが正しいか、というと、それは
怪しいようである。
雛罌粟は、別名、虞美人草と言うとか。すぐに思い浮かぶのは、夏目漱石の小
説「虞美人草」。漱石の小説の中で、性格が一番分からない小説で、何度読んで
も(といっても、三度だけだが)読後感がスッキリしない。「漱石が新しい小説
のタイトル名を決めあぐねていたときに、街角の花屋さんで見た「虞美人草」の
名に ”おっ、いい名前♪ これにしよう”ということで名づけた、ということら
しい」という逸話だけは、微笑ましいが。
せめて、下記サイトを御覧いただこう:
「「虞美人草」への旅」
http://www.asahi-net.or.jp/~PU7T-KMR/soseki/hiei0.htm
なお、虞美人草と四面楚歌などの逸話も、上掲のサイトに書かれてある。幾度
となく触れた逸話だが、どうも、この虞美人草という言葉、日本語の(小生の)
語感からして、虞と美人とが結びつきにくく、「 最後の出撃をし、虞妃も自刃し
て殉じたが、彼女のあとにヒナゲシの美しい花が咲いた。そのため人々はこの花
を「虞美人草(ぐびじんそう)」と呼んだ」という話にも、今一つ、素直には感
情移入し辛いものがある。
雛罌粟の赤い花が彼女の血の色を暗示しているというのに。
雛罌粟というと、与謝野晶子の歌を思い起こされる方もいるだろう。
そう、「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟」である。こ
の雛罌粟は、コクリコとフランス風に読ませている。尤も、最初は晶子も、「ひ
なげし」(正確には雛芥子)と読み且つ表現していたのだが、夫の鉄幹との絡み
の果てに、コクリコと読み慣わすようになったとか:
「第2回〜5月の風は雛罌粟色<1>〜 新連載・石田郁代著」
http://www.for-you.co.jp/akiko/ishida/ishida02.htm
ついでなので、「与謝野晶子百首かるた」の一部でも、見ていただこう。晶子
というと、「柔肌の熱き血潮に触れも見で寂しからずや道を説く君」ばかりでは、
ちと寂しいし:
http://www.for-you.co.jp/akiko/entry.htm
さて、やや季節外れというか、時期が終わった感のあるコクリコのことを何故、
採り上げるかというと、たまたまつい先日、ラジオでその言葉を聞きかじったか
らである。その際、コクリコとは、「ひなげし」のことです、という説明もされ
ていたように記憶する。
言うまでもないが(言う必要もないことだが)、小生のこと、遠藤章造氏と田
中直樹氏からなる吉本興業に所属されるお笑いコンビをチラッとだが、連想し、
しめしめ、これで何か書けるかもと思ったことは、紛れもない事実だ。
が、さすがに、これだけの連想では、話は綴れない。三題話というように、コ
クリコとココリコと、あともうひとつ、何かの言葉と、たとえ多少の無理があろ
うと、観念連合でも駄洒落連想でもいいから結びつかないと、書く気にはならな
いのである。
さて、では、小生がこうして書き綴っているということは?
そう、その後一つというのが、その時に、パッと、しかも、ココリコよりも先
に浮かんでいたのである。だからこそ、こうして恥ずかしげもなく、堂々と書き
連ねることができるわけなのだ。
ところで、先に進む前に、ちょっと気になるので、お笑いコンビのココリコが、
どうしてココリコなのか、あるいはココリコとはどういう意味なのか、簡単にで
も触れておきたい。が、ネットで調べてもココリコの前のコンビ名がココリコボ
ンバーズだったが、極楽とんぼの加藤浩次にボンバーズは似あわないから取れよ
と言われ、ココリコに改名したことまでしか分からない。
と、思っていたら、名前の由来を書いてあるサイトを発見:
「ココリコのプロフィール」
http://member.nifty.ne.jp/shiba-k/basic%20info.htm
当該箇所を引用する。
「「システム手帳が落ちてまして、その中の予定に”喫茶ココリコで待ち合わせ”
ってあったんですよ。…で、そこで(落し主に)会ってお礼に1万円もらいまし
た。縁起がいいのでそこからとりました。(田中)」とのことだが「cocorico」
というのはフランス語で「コケコッコー」というニワトリの鳴き声の意味だそう
だ」とのこと。
尚、話の真偽を当人に確認したわけではない。
そういえば、コクリコという言葉を聞きかじったことに端を発しているこの駄
文だが、コクリコという言葉が小生の柔な記憶の倉庫からすんなり出てきたはず
もない。最初、ココクリという言葉が浮かんできた。
が、どうも、変である。
一つは、「ここをクリック」を略してココクリだし、もう一つは、ある店で通
じる符牒(?)で、コーヒークリーム+クリームの略なのだとか。
だったら、ココア+クリームにしろよ! と言いたいところである。いずれに
しても、どうやっても、「ひなげし」には、道が遠そうである。
ま、そんな経緯(いきさつ)を乗り越えて、やっと本題に入る。
小生が、コクリコから最初に連想した言葉とは?!
それは、富山の人間ならではかもしれないが、コキリコ節だった!?
富山県民謡のこの「コキリコ節」の最初一節だけを転記しておく:
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kokirikobushi.html
コキリコの竹は 七寸五分(しちすんごぶ)じゃ
長いは袖(そで)の かなかいじゃ
マドのサンサは デデレコデン
ハレのサンサも デデレコデン
このコキリコ節には、かの詩人・西条八十との深い関わりがある:
「西 条 八 十 「平村を訪ふ」より」
http://www.shokoren-toyama.or.jp/~gokayama/saijou.htm
このサイトでは、コキリコ節が「筑 子 唄」として紹介され、以下のような歌
詞が綴られている:
思ひと恋と笹舟に乗せりゃ おもひは沈むて恋はうく
波のやしまを遁れ来て薪樵るてふ深山辺に
烏帽子狩りぎぬ脱ぎ棄てて 今は越路の杣がたな
むかひの山に啼く鵯の鳴いてはさがり鳴いてはあがり
朝草刈の目をさます
向ひの山をかづことすれば
荷縄がきれてかづかれぬかづかれぬ
をどりたか踊れ泣く子をおこせささらは窓のもとにある
向ひの山に光るものなんじゃ 星か蛍かこがねのむしか
今来る嫁のたいまつならば さしあげて燃せやせをとこ
西条八十がコキリコ節の郷としての五箇山を知ったのは、柳田国男氏の話によ
ってだという。今でこそ、全国的に知られるようになっているコキリコ節も、昭
和の初期には、消滅の危機に瀕していたのか。
このコキリコ節にモチーフを取った歌、『はぐれコキリコ』が民謡歌手の成世
昌平の歌唱により、ヒットしたのも、記憶に新しい。
富山の民謡というと、「長麦屋」などのほかに、近年では、『おわら風の盆』
の流れで、「おわら節」が知られている。
この「おわら」の語源については、「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで
踊ったからとも、農作物の収穫の時期に豊年を祈った「おおわら(大藁)」から
とも言われている(定説があるのかどうか、分からない)。
が、コキリコ節のコキリコについては、「越中五箇山の古社、上梨白山宮の祭
礼に歌い踊られてきた」ことは分かるが、語源そのものは(小生は)分からない。
が、ここで、またまた、が、である。小生の検索の仕方が悪かったらしい。と
いうより、小生の富山賢人…おやおや…富山県人らしからぬ無知が禍したのだっ
た。そう、キーワードは、「こきりこ」ではなく、「小切子」とするべきだった
のだ。
この「小切子」で検索して羅列された中に以下のサイトを見出した:
「閑吟集」
http://www.nextftp.com/y_misa/kangin/kangin.html
この『閑吟集』は、「室町後期の歌謡集」であり、「室町時代に流行した「小
歌(民間の卑俗な歌で、軽く肩のこらない娯楽的なもの)」226種の他、「吟詩
句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた:「放下」は
中世・近世に行われた芸能の一つで、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞)」
「早歌(そうか:別名「宴曲」とも言う、鎌倉末期から室町時代にかけて、武家
を中心に貴族、僧侶などの間に流行した宴席のうたいもの)」などを合わせて、
311首が収録されてい」るという。
その文中に、「「放下」は中世・近世に行われた芸能の一つで、小切子(こき
りこ)を打ちながら行う歌舞)」という項が見受けられる。
下記のサイトによると、次のような説明を見出す:
http://shumpu.com/diary/html/200312/10.htm
「国語辞書『大辞林』によると、「放下」(ほうか)の2番目の説明として、
「大道芸の一種。中世から近世初期にかけて、放下師・放下僧と呼ばれる芸人
の演じたもの。品玉(しなだま)・輪鼓(りゅうご)などの散楽系の芸や、
小切子(こきりこ)を打ちつつ歌う放下歌などを演じた」とある。また、そ
れにつづく説明として、「放下師」は「放下を演じる遊芸人のこと」
ということで、今回は、小生の当てずっぽうな見当である、コクリコとコキリ
コとについては、関係がなさそうである。ちょっと当てが外れてしまった。
さすがに越中五箇山にフランス人や、フランス文化がいつの世であろうと、は
るか南蛮の地より渡来したとも思えず、まして、その郷に芥子の花が植えられて、
コクリコの郷が、いつか転訛してコキリコになったとも、言い難いようである。
せっかくなので、コキリコ節の歌詞に出てくる、「ささら」や「こきりこ」と
いう楽器の画像を見ていただこう:
「五箇山の民謡」
http://senshohamada.hp.infoseek.co.jp/minyou/minnyou-gokayama.htm
あれこれ迷った挙げ句、ちゃんとしたキーワードさえ最初から打ち込んでおけ
ば、結論は早かったようだが、しかし、道草をした御蔭で、いろいろ歴史的来歴
なども知ることができて、それはそれで楽しかった。
04/06/07 記
2.二上山のこと山窩のこと
小生が子供の頃、二上山というと、富山は高岡市にある二上山のことだった。
標高274mの山で、能登半島国定公園に位置し、一方、万葉ラインがその山
並みを走っている。標高は大したことはなさそうだが、周囲に眺望を阻むものが
なく、見晴らしはなかなかである:
http://www.city.takaoka.toyama.jp/kanbutu/kankou/kanko060.html
このサイトには、「天平18年、越中の国守として赴任した大伴家持は奈良の
二上山(にじょうざん)と同じ名を持つ山が大和から遠く離れた越の国にもある
ことに感動し、多くの歌を詠んでいます」とあるが、小生は、長じるに至って初
めて、高岡以外にも二上山があることを知った次第だった。しかも、そちらのほ
うこそ、全国的に有名だということも。
但し、奈良の二上山は、(にじょうざん)と読むが、高岡の二上山は(ふたが
みやま)と呼ぶ。なので、小生は、奈良の二上山をずっと(ふたがみやま)と呼
び習わしてきた。
今も、なかなか、(にじょうざん)とは読み慣れないものがある。
「二上山麓(市内西田)の富山湾に面した丘陵にうっそうとした森林と静寂に包
まれて臨済宗国泰寺派の総本山国泰寺」がある(西田地区というのは、竹の子の
産地としても知られている):
http://www.city.takaoka.toyama.jp/kanbutu/kankou/kanko040.html
北陸観音霊場、富山一国霊場のひとつであり、妙音会虚無僧の本山でもある。
西田幾多郎や鈴木大拙らがここで修行したことは、知る人ぞ知る事実なのかもし
れない。
富山の人間は、何かと立山(連峰の眺め)を自慢したがる。
かく言う小生も、その一人である。
しかし、これは、富山の地に立てば、誰しも実感するし納得するだろう。市街
地だろうと、海辺だろうと、晴れた日には立山連峰が巨大な銀屏風の如く市街地
などを囲繞していると知り、納得せざるを得ない。
こうした思いは、富山については全県的に共通するようだ。
が、これが高岡市となると、事情がやや違ってくる。やはり高岡市の雨晴海岸
という風光明媚な海岸があって、海越しに立山連峰が望めるスポットがあったり
するのだし、依然として立山への思い入れは強いのだが、同時に、さすが地元だ
けあって、二上山への思い入れもタップリなのである。
若き日の大伴家持は富山は高岡に国守として赴任し(天平18(746)年から越中
在任5年間)、彼が生涯に作った歌の半分はこの地でのものである。雨晴海岸は、
家持の歌にもしばしば登場する。
せっかくなので、家持が愛しただろう雨晴海岸の、立山連峰を望むその眺望を
一緒に愛でてもらいたい:
http://www.westjr.co.jp/news/bsignal/02_vol_20/cont_4.html
このサイトは、写真が素晴らしく、見ても読んでも楽しいサイトだ。家持が二
上山を織り込んで作った歌、「玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時
は来にけり」も紹介されている。
「2つの峰からなる高岡の二上山は、ふたつの神という意味もある」という。「古
代から神の山と崇められて来」た山なのである。
家持が編んだとされる『万葉集』の性格や、家持と高岡との関係などについて
は、下記を参照願いたい:
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/tateyama-manyo.htm
さて、次は、奈良の二上山(にじょうざん)を巡ってみよう(標高517m):
http://www.pref.nara.jp/nara/kaido/spot/k10.htm
このサイトにあるように、「雄岳、雌岳両峰の間に陽が沈む姿から、古来より
神聖な山として人々から崇められてきた。この二上山には大津皇子の墓がある。
謀反の疑いをかけられ自害した悲劇の皇子がここに眠っている」という歴史的背
景がこの山にはある。
小生は、まだ、この山には訪れたことがないのだが、「山頂付近からは、日本
史の数々の舞台となった大和平野が一望でき、雄岳から雌岳へ向かう途中からは
河内平野と大阪湾、雌岳の向こうには葛城、金剛 の山並みを望むことができる」
という、その眺望をいつか堪能したいものである。
香芝市には、二上山博物館がある:
http://www.kiis.or.jp/kansaida/kashiba/kashiba01.html
「二上山と3つの石」がテーマの博物館のようだ。
このサイトにあるように、「いまからおよそ2,000万年前頃に、大噴火した火
山というのが二上山の真の姿なのである」という。
「この噴火によって、二上山はさまざまな火成岩を生みだした。そのうちでも、
とりわけ、サヌカイトと屯鶴峯(どんづるぼう)に見られる凝灰岩(ぎょうかい
がん)、ざくろ石(金剛砂)(こんごうしゃ)は、全国的にも興味深い存在なの
である」
また、「サヌカイト」、「凝灰岩」、「金剛砂」の3つの石によって、「二上
山」は旧石器時代から今まで、山の美しい姿によって人々に深い感動を与えただ
けでなく、人々の暮らしのなかで深いかかわりをもってきたのである」という。
下記のサイトでは、二上山博物館のサヌカイト原石を組み合わせて作った石琴
など、館蔵品などを見ることができる:
http://inoues.net/yamataikoku/museum/nijyozan_museum.html
この二上山博物館で、「役行者と葛城修験」展が催されたことがある。その詳
細などを下記サイトで知ることができる:
http://inoues.net/yamataikoku/mystery/ennoozu.html
このサイトから転記する:
奈良時代の仏教は、国家仏教として七堂伽藍(しちどうがらん)のなかで政府
の保護を受ける学問僧と、日本古来の山岳信仰が外来の道教や仏教の影響を受
け、山岳修行により超自然の獲得に努める私度僧(しどそう)があった。役行
者もその一人で、その呪術的な力を民衆に示し、自由に布教活動を行い、次第
に勢力を増していった。そのため、僧尼令(そうにれい)等による規制もあっ
たが、途絶えることなく平安時代の密教に継承され、新たな展開をとげた。
天台・真言両宗の密教が比叡山・高野山を開き、山岳修行を奨励したことから
金剛・葛城、吉野・大峯・熊野などの各地の霊山に修験者が自らの験力(げん
りき)を高めるために入峯(にゅうぶ)した。このような山岳宗教の隆盛にと
もなって、役行者を修験道の開祖として仰ぐようになった。
現在、聖護院により28宿の行場を廻る葛城修験が復興されている。近世になる
と、山岳で起居していた修験者達は、全国各地を遊行(ゆぎょう)し、寺社の
まつりで護摩をたき、雨乞いや病気平癒の加持祈祷をおこなった。また、円空
や木喰明満のように、自らの修行として作仏するものもあった。中期以降は、
庶民が講(こう)をつくり、各地の霊山に登って修行するようになっていった。
近代に入って、明治の神仏分離令、修験道廃止令によって本派本山に戻って天
台・真言両宗に帰入するように命じられ、本山派、当山派ともそれぞれに天台
宗・真言宗に包括された。第二次大戦後は、宗教法人法の試行により、本山派
の聖護院は修験宗(現本山修験宗)、当山派の真言宗醍醐派など、多くの修験
集団が独立した。
(以上、引用)
近代において、山々を遊行する人びとを時に山窩などと賎称した。明治以降、
政府は、戸籍に載らない、こういった流浪の民を徹底的に弾圧したり、戸籍に汲
み入れて行ったりした(国の民を一人残らず把握し、税を徴収し、兵力として活
用する必要などがあったのであろう)。
最終的に完遂したのは、十五年戦争当時だったとも聞いたことがある。
山窩については、下記のサイトが詳しい:
「サンカ(山窩)を考える」
http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
山窩研究というと、「説教強盗」という命名でも有名な三角寛を思い起こされ
る方も多いだろう。彼が山窩研究を始めた切っ掛けというのが、面白い。それは、
「説教強盗」とも無縁ではない。
詳しくは下記サイトを参照願いたいが、実は、その説教強盗の「その鮮やかな
手口にキリキリ舞いさせられた捜査陣から「犯人はサンカ」ではないのかと声が
あが」り、「これを聞きつけた三角寛はサンカに興味を持ち、サンカの研究を始
め」たというのである:
「山窩(サンカ)とは何か」
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-23.html
さて、このように、小生が二上山や、役行者(役小角)あるいは修験者達、そ
して山窩(サンカ)らを紹介したのは、小生は今、五木寛之の『風の王国』(新
潮文庫)を読んでいるのだが、その内容に深く関わりがあるからである。
この『風の王国』については、既に例によって松岡正剛が昨年、「千夜千冊」
にて採り上げている:
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0801.html
ちなみに、同じく五木寛之著の『戒厳令の夜』も、山窩というテーマを扱って
いるらしい(小生は未読)。
04/06/20 記

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