今朝だったか(朝帰りで寝惚けていたので記憶が定かではない)、テレビで
ある島の巨大な石の遺跡(?)が紹介されていた。
その島は今や居住する人はただの一人となったという。尤も、他の地との往
来はあるので孤独ではないようだが、しかし、住民が一人というのは寂しいよ
うな。彼は何かの施設の管理のために居残っているという。
そのうち、番組では(なんの番組か覚えていない)巨大な謎の巨石が映し出
された。え、こんなのが日本にあったの、と小生は吃驚。知っている人は知っ
ているんだろうけど。
で、一眠りし、雑用を片付けたので、ようやく夜になって調査。といっても、
ネットだけの調査というより検索なのだが。
小生が見たのは、どうやら、「王位石(おゑ石)」らしい:
http://www3.ocn.ne.jp/~yosimoto/kankou.htm
サイトの説明を引用すると、「野崎島の北端部の山、平岳(標高300メー
トル)の頂上付近に、「沖の神島神社」と云う社殿があります。西暦704年
に祭られた古い神社である。その社殿の後方に「王位石(おゑ石)」と呼ばれ
る巨大石が、そそり立っている。」とのこと。
このサイトにもあるように、また、番組でも述べられていたが、「自然に形
成されたものか、あるいは人工的なものか定かではない」という。それで、冒
頭に「遺跡(?)」と記すしかなかったのだ。
まだ、学術的な研究の手が及んでいないらしいのである。
そのサイトによると、「古老の話では、この石の上で神楽を舞い、往来する
船の航海の安全を祈願した」とのことで、つい先年までは何かの儀式がなされ
たり、あるいは言い伝えが残されていたらしい。
が、きちんと伝統や言い伝えが継承されないうちに手掛かりや糸口が消え去
ってしまう、そんな危機に瀕しているようだ。
この野崎島というのは、小値賀諸島の中の島の一つ。その小値賀諸島には謎
を秘めた遺跡が多い:
http://www.ruralnet.or.jp/rekishi_roman/5/ojika/ojika_b.html
このサイトには「遣唐使船の寄港を物語る碇石(いかりいし)発見」という
項目がある。せっかくなのでその一部を引用させてもらう:
「長い航海に耐える船には停泊のための碇が必要ですが、現在のように金属製
の錨が登場するのは14世紀以降のことで、それまでは木製のかぎ型と重し石を
一体にしたものが使われていました。木製のかぎ型は海中で腐食してしまうの
で現存しませんが、碇石は日本近海で約40本発見され、そのうち6本が小値賀
島前方湾で発見されています」
ああ、興味津々。好奇心でハチキレソウダ。
関係ないと思うけど、「王位石」って、遣唐使船に使われた碇石を祀ったも
のなんじゃないかと邪推したりして。うーん、もっと想像力を働かせないとダ
メか。
このサイトには、更に小生の好奇心を掻き立てる項目がある。「長い眠りか
ら覚めない遺跡が数多く残る」だって。黒島神ノ崎遺跡には、発掘さえされず
に眠っている遺跡があるのだ。「古墳時代の石棺墳墓が約30もあ」るとなると、
勿体無い限りだ。そのうちの一つの石棺からだけでも、驚くべき副葬品がザク
ザク出ているというのに。
ところで、となると、「王位石」って、石棺墳墓の名残なのか、と思ったり。
ところで、巨石文化というと、その方面に関心のある方なら誰しも思い浮か
べる謎の遺跡(?)に、日本最西端の沖縄県与那国島沖の海底にある、「ピラ
ミッドのような巨大な石の「遺跡」」がある:
http://mytown.asahi.com/okinawa/news02.asp?c=18&kiji=96
テレビでもよく話題に採り上げられたので、巨石文化ファンでなくても御存
知の方も多いのではなかろうか。
これこそ謎だね。あくまで自然の造形物だという主張もあるけど、一体、真
相はどうなのだろう。
小生、このサイトを読んでいて末尾の一文に釘付け。「文化庁によると今年
度、調査に国の補助金が出ているのは長崎県の鷹島海底遺跡だけ」だって。え
っ、鷹島海底遺跡って何?
早速、ネット検索である。ああ、ネットは便利だ。いろいろ引っ掛かるし。
小生としてはセイフティネットが早く欲しい。で、小生を引っ掛けて欲しいね。
すると、例えば下記のようなサイトが見つかった:
http://www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/takasimasite.htm
知らないのは小生だけかもしれないが、そもそも鷹島(たかしま)というの
は、「中世の日本を震撼させた蒙古襲来の歴史上の舞台として知られ、文永11
年(1274)の「文永の役」では、鷹島と周辺が主戦場となり、また弘安4年
(1281)の「弘安の役」では、鷹島沖に集結した第二次日本征討軍の東路
軍および江南軍あわせて約4,400隻の大艦隊が、大暴風雨により一夜にして
壊滅的打撃を被った、元寇終焉の地として世に名高い」だって。
さすがに昔、蒙古の来襲があったことくらいは小生も知っていたが、
その舞台を具体的に思い浮かべたことはあまりなかったような。どこか九州の
沖合いかなという程度だ。なんたる不覚。
ところで、鷹島海底遺跡のほうはそれなりに学術的にも調査され、今年度も
調査に補助金が出ている。
[鷹島海底遺跡の発掘調査の様子を下記のサイトで見ることができる:
http://www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/2002takashima.htm ]
蒙古の来襲(の成功)が阻まれたのは、一つには、まず、朝鮮半島での朝鮮
の人々の必死の抵抗があったことを忘れてはならないだろう。我々日本人は、
朝鮮半島の方々への感謝の念はもっと持っていいのではないか。
その上で、蒙古の来襲(の成功)が阻まれたのは、台風の暴雨風が蒙古軍に
壊滅的な打撃を与えたことが知られている。我々日本人の一部は、神風と称し
たりする。その台風について、このサイトの最後に興味深い記述があった。
「真鍋大覚氏(九州大学工学部助教授)が、中国南部の泉州湾の海底から引き
揚げられた南宋時代の軍船(略)をもとに、風と波に対する船の復原力を計算
する「船舶安全基準」にあてはめて、同軍船を沈没させるほどの風速を計算し
たところ、(略)、昭和29年の洞爺丸台風に匹敵する大型台風であったろうと
推測している」というのだ。
なるほど、こんな台風に直撃されたら現代の船だって大変だ。
実は、朝鮮半島での抵抗で蒙古軍の襲来の時期がずれてしまい、日本の<神
風>の時期に遭遇してしまったのだ。
さて、こうした海底の遺跡調査を研究する学問を水中考古学という。こんな
学問のあることを知ったのは、確か、『水中考古学の冒険 エーゲ海にアンフォ
ラを引上げて』(ピーター・スロックモートン著 水口志計夫訳、筑摩書房刊)
を読んでのことだった。アンフォラなんて言葉を知ったのも本書を読んで初め
てのことだ。
この水中考古学は、海に実際に潜っての調査が基本だが、同時に人工衛星を
も使って研究する、と研究事情が変わっていることは知らなかったけれど。
話が例によって大分、逸れてきたような。何だっけ? そうそう、巨石文化
の話だった。
日本にも各地に巨石文化研究会がある。例えば、今回の話題に出てくる「王
位石」に関連して:
http://www.montemps.co.jp/circle/030.html
それにしても、巨石文化とか古代ロマンに惹かれるのは何故なんだろう。何
か興味を掻き立てるものがあるのだ。
そんな中、ガキの頃から宇宙の神秘にも興味があったしエジプトのピラミッ
ドなど古代の遺跡にも興味があったけど、海底の神秘はともかく、海底の遺跡
に関心を持ち出してからは十数年にしかならないような。海底に様々な巨大な
遺跡があるとは想像も及ばなかった…?
いや、そんなことはないな。アトランティス大陸とかムー大陸の話はガキの
頃、思いっきり興味を持ってたんだから。ただ、いつしか夢物語に成り果てて
いた。生活に追われて想像力が萎んでしまったのだ。
それが、小生が海底の遺跡や伝説に関心を持ちきれずにいた間に、いつしか、
アトランティス大陸伝説のほうは海底での発見・調査で伝説ではなくなってい
た(エーゲ海のサントリーニ島)。
さて、ムー大陸伝説はどうなんだろうか。ああ、小生の目の黒いうちに少し
でも何か分かればと思うんだけど。
03/02/11 記
2.蒙古来襲と高麗と日本
「蒙古の来襲(の成功)が阻まれたのは、一つには、まず、朝鮮半島での朝鮮
の人々の必死の抵抗があったことを忘れてはならないだろう。我々日本人は、
朝鮮半島の方々への感謝の念はもっと持っていいのではないか。」
という記述の中の、特に後段の部分について、異論を戴いた。実際、元寇の
際、蒙古軍という寄り合い所帯の軍勢の中に高麗軍があり、日本を攻め、多く
の被害を日本の各地で生じたことは事実のようだ。
それゆえ朝鮮(高麗)に恨みこそあれ、感謝するいわれなどない、という異
論である。
蒙古の勢力がが極東にまで及び、当時の中国(宋)や高麗を長年に渡って攻
めつづけ、その結果、宋は国力を疲弊させ、高麗は結果として蒙古に臣従する
ことになった。結果として蒙古軍の一環に組み込まれ、当時の鎌倉幕府下の日
本に攻め込むことになったわけだ。
さて、では、蒙古軍の指揮下にある高麗軍の士気は如何なるものであったの
か。積極的に日本を攻める意欲に満ちていたと言えるのかどうか。また、蒙古
の命令で突貫工事の形で船を作ることになったため、意図的に欠陥船を作った
かどうかは別として(そのように主張している方もいるようだが)、実際に船
の建造が万全であったとは言えないようだ。
それ以上に過酷な戦闘の準備への要求(その中の一つとして船の建造)に高
麗自体が国力において疲弊していて、仮に戦闘意欲があっても、意欲が空回り
し士気が低下するという結果に繋がったのではなかろうか。
蒙古軍(元)がそもそも極東、特に海を渡ってまで日本に攻め入る意志が当
初からあったのかどうか。文永・弘安の役のうち、最初の文永の役の際は、準
備不足と情報不足もあり、中途半端な形で引き返すことになった。
この際、<神風>が役割を果たしたというのは、難しいようだ。
再度、満を持しての弘安の役の際は、それでも準備万端整ったと言えるかど
うかというと、この際も、やはりかなり慌しい状況にあったことは変わりない
ようだ。いずれにしても、蒙古軍にとっては不得手、乃至は未経験に近い海を
越えての攻撃で、高麗などの意見に従う上で、戦闘の上で蒙古軍内部に意見対
立があったのではないか。指揮権限は元にあっても、実際の作戦は寄せ集めの
軍の連中に頼るしかなかったのだ。
二度目の侵襲も失敗したが、蒙古軍は諦めたわけではなかった。三度目を計
画していたようである。が、その準備中に、高麗を初め、中国の江南地域や今
のベトナム地域などから反乱の火の手が上がった。準備していた軍勢もそうし
た反乱の鎮圧に向けるしかなくなったのである。
言うまでもないが、こうした反乱は日本のために為されたわけではない。ま
た、長年に渡って蒙古の侵襲に耐えたのも、高麗は日本のために為したわけで
はない。
ただ、結果として元と日本との間の国々・地域の存在、そして海(その中の
一つの要素が暴風雨であるに過ぎない)の存在が、クッションとなり、日本の
危機を決定的なものにさせずに済んだというに過ぎないのだ。特に高麗の長年
の元との戦いは、日本(鎌倉幕府)に準備する猶予の時を結果として与えたこ
とになる。決して日本のために時間稼ぎをしたわけではないのだが。
付言する必要もなかろうが、鎌倉幕府の御家人など、実際に蒙古軍と戦った
り、あるいは戦闘の中で蹂躙された住民の犠牲と努力があったればこその<勝
利>だったのである。
参考資料:
http://www3.famille.ne.jp/~o-koga/kuma/kirameki/land-story/lannd-history.htm
http://www2.justnet.ne.jp/~ajo/tokimune/tokimune2.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/smouko/mohon/mou046.htm
03/02/12 記