冬 の 灯 火



  「此の恐しい山蛭は神代の古から此處に屯をして居て、人の來るのを待
  ちつけて、永い久しい間に何のくらい何斛かの血を吸ふと、其處でこの
 蟲の望が叶ふ。其の時はありつたけの蛭が不殘吸つただけの人間の血を
 吐出すと、其がために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかはる
 であらう、其と同時に此處に日の光を遮つて晝もなほ暗い大木が切々に
 一ツ一ツ蛭になつて了ふのに相違ないと、いや、全くの事で」

 俺はふと、泉鏡花の高野聖の一節を思い出していた。昔は泉鏡花を毛嫌いして いた。そのくせ、何度となく鏡花の作品を読み直していた。難癖をつけてやるん だと自分に言い聞かせて。全く、若気の至りと言うのも恥ずかしい。
 でも、御蔭で、思わぬときに鏡花の小説の一節が口を突いて出たり、そうでな くとも、印象的な場面がまるで自分の経験かのように脳裏に浮かび上がってくる。
 なんだ、ミイラ取りがミイラに…のたとえじゃないけれど、俺は鏡花の世界を ずっと彷徨ってきただけじゃないか。一歩どころか半歩も食み出すことが出来な かった。俺が鏡花を訳もなく毛嫌いしていたのは、もしかしたら彼の世界に何か 同質なものを感じていたからなのか。奴のおどろおどろしい世界。血と黒い虫と 山蛭と…。

 そうだ、俺はガキの頃、初めて鏡花の小説を読んだ時、既にこの日を予感して いたのだ。俺はどんなに頑張っても鏡花の手の内から飛び立つことはできない、 と。
 俺が早々と文学を捨てたのも、奴の世界を乗り越えるなど出来ないと悟ったか らではないか。決して、奴の文学が紛い物だと思ったせいではない。けれど、俺 は、奴の小説など認めないと懸命に、依怙地になって思い込んできた。
 俺が女の体を求めたのは、俺が臆病だったからかもしれない。数々の女を抱き、 そして捨ててきたのも、俺は人生を鏡花より知っていると自惚れたかったからに 過ぎない…のでは。捨て去る苦味と快感を得るためだけではなかったのか。
 そして今も目の前には、何処で拾ったのかさえ覚えていない女が横たわってい る。際限もなく責め苛んだ挙げ句、俺はへとへとになって青い天井を見上げてい る。女は、女の奴は…スヤスヤと寝入っているではないか。
 俺は一体、女を責めたのか、それとも狐に化かされただけなのか。馬鹿にだけ はされたくない。女になど蔑まれたくない。どうして女って奴は、終わりがない のだ。俺が我慢の極で行き果てた時、女が微かに笑ったのを俺は決して見逃しは しなかった。奴は笑った。何を笑った? 俺の愚かさをか。
 あの安らかな眠りはどうだ?! まるで俺が優しい男であるかのようじゃない か。俺が女を愛したかのようじゃないか。ホトが腫れぼったくなるほどに弄くっ たのに、俺は途方に暮れている。行き場を失って、何をする当てもなくなってい る。凶暴なほどの欲望の滾りが尽き果てると、後に残ったのは魂の抜け殻となっ た木偶の坊の俺だ。
 部屋の明かりを消した。
 すると、暖炉に見せかけた暖房装置から溢れるオレンジ色の光が部屋一面を満 たした。俺の肩や胸を染め、女の横顔を温めている。窓のカーテンの隙間から青 白い光が漏れ込んでいる。
 ふと、路地裏のスナックの前に立つ女の姿を思い出した。俺より先に出たのだ。 店で声をかけたけれど、曖昧な笑みを浮かべるだけで、すぐに席を立ってしまっ た。振られたのだと思っていたのに。
 軽く促すと女は黙って俺についてきた。北の町の者だと女は言っていた。雪は 既に小降りになっていた。雪の道を歩いた。どうして女は俺について来るのだろ う。ついて来たらダメだと言ってやりたい。でも、言えなかった。澄んだ紺碧の 空は雪明りに溶け込んで何処か幻のような雰囲気を与えてくれた。そう、これは 本当のことではない。夢の世界の出来事なのだ。雪が醸し出す冬の灯火は、俺に 実感を与えてくれない。ああ、また、同じことを仕出かしそうだ。誰か止めてく れないか…。
 やがて俺達は、濁ったピンク色のネオンサインの燈る宿に入った。
「わたしだって…」そう、女が言ったのは、どの辺りを歩いていた時だったろう。
「あなただけじゃないの…」
 一体、どういう意味で言ったのか俺には分からない。呑めないはずの酒に俺は 誑かされていた…とは思いたくない。雪より白い肌に俺は呆気なく溺れた。灯り を煌煌と照らした部屋で、俺は得たいの知れない虫けらを追いまわした。俺の脳 髄に張り付くナメクジのような虫。それとも俺の背中に棲み付いて離れない蛭。 女の腹を嘗める舌は、まるで俺のものではないようだった。ガキの頃にドラッグ に嵌った時に見た、蕩ける肉片だった。脳髄がツーンと痺れていた。耐え切れな いほどの快感。気が狂うほどの恍惚。この世の悦楽の極。やがて垂れ滴ったその 肉の塊から白く輝く骨が突き出てくる。俺は裂けて砕けた骨の切っ先となってい た。尖った刃は女の白い肌を辺り構わず辿りつづけた。雪の原を走るウサギ。俺 は自由な獣。果てしなく広がる雪原になんというあどけない足跡なのだろう。
「なんて可愛い獣!」と叫んだのは、俺じゃなく女だった。
「俺を可愛いだと!」
「あんたは初心なのよ」
 怒った瞬間、別の一節が俺の肉を引き裂くかのように噴出してきた。もう、や めてくれ!

「凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでも
なければ、大海が押被さるのでもない、飛騨國の樹林が蛭になるのが
最初で、しまひには皆血と泥の中に筋の黒い蟲が泳ぐ、其が代がはり
の世界であらうと、ぼんやり。」

 女の体は俺には森なのだ。真っ白な闇の森。昼も夜もない、妙に生暖かな大地。 草、木、虫、魚、馬、猿、蛭、女…。俺はとうとう俺のやるべきことをやってし まった。俺は鏡花に嫉妬していた。まるで鏡花に勝つには女を引き裂くしかない ように。白い肉。血の海。脂と髪の粘ったスープ。滅びなければならない。地球 が壊れなければならない。血と泥の海の中に虫けらのように人間どもが泳ぐので なければならない!
 気が付くと、女は何事もなかったかのように立ち去り、俺は末期の夢の変幻す る天井を眺めていた。


「泉鏡花を読む」の中の「高野聖」から引用させてもらいました。: 
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~ant/

                                           03/02/03 22:24