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曼珠沙華毒々しき赤の万燈を 草葉の陰よりささげているも 木下利玄
何処かの家の垣根から金木犀の香りが漂ってきたらしい。 「あ! 金木犀」と呟き、臭いに敏感な澄子が武治を置き去りにして、香りの 源へ駆けて行った。 武治も澄子を追うしかない。武治は澄子と違って、やや臭いには鈍感である。 というか、普通なのかもしれない。むしろ澄子のほうが過敏なのだと武治は思っ ていた。風下だとしても、かなり離れた場所から澄子が駆け出していったのだ。 尤も、そんなことはしばしばあることで、もう、武治は慣れっこになっていた。 武治が竹垣の家の角を曲がると、秋の空に突き抜けるような橙色の花々を咲 き誇らせているのが見えた。緑の濃い葉っぱの群れに覆われているはずなのに、 鋭いほどに輪郭も鮮やかに目に飛び込んでくる。 澄子は花を愛でるというより、香りを嗅ぐのに夢中のようだった。 「新鮮なオレンジの果汁を体一杯に浴びる感じが好き」と、誰に言うでもな く澄子は言う。 あくまでも高い秋の青空と濃い緑の葉々と澄子と。こうして眺めている分に は、澄子は美しい。写真にで写してみたいほどだと内心、武治は思った。そう、 離れている分には、薔薇だって棘で刺し違えられるはずもない。 武治も、金木犀の芳香漂う透明な傘の下に佇んでみた。命の溢れるような、 それとも命の賦活されるような不思議な喜びを素直に味わった。 「なあ、澄子の田舎にも金木犀ってあるのか」 「田舎? 田舎の家ってこと? あら、あったじゃない。この前、来た時だ って見てたはずよ。」 「あれ? あん時、咲いてたっけ?」 「咲いてなくたって、金木犀は金木犀よ。花の咲いてる時期って、この木は 極端に短いの。ちょっと強い雨が降ると、呆気なく散っちゃうし。たまたま来 た時に、ちょうど咲いているなんてことは、難しいかもね。」 「俺が行ったのは、春だっけ。そうか、見すごしてたのか。やっぱり、こん な風に鮮やかなのか?」 「そりゃ、もう。」 二人は散歩の行き先など決めていなかった。ちょっと足を伸ばしてみよう、 地元の町をゆっくり歩いてみようと武治が言い出したのだ。いつぞやの晩餐の 夜から、三週間ぶりの一緒の週末なのである。例によって突然、ポッカリ空い た休みなので、どう過ごせばいいのか見当が付かなかった。 一人なら寝て過ごすか、本を読むか、ベランダの庇の裏の染みを眺めている だけで武治は、存分に一日を愉しむことができる。 澄子にしても、一人だと、ウインドーショッピングを楽しむか、大概は例の 集会とやらに出掛けるはずなのだ。 もう、金木犀を眺める振りをするのに飽きた武治は、つい、余計な質問をし てしまった。 「今日は、どうして集会に行かないんだ?」 しばらく澄子は無言のままだった。何となく表情が曇り始めている。武治も、 言い終わる前に後悔していた。 「だから、もう、朝、言ったじゃない。会場の都合だって。急に会場が借り られなくなったのよ。突然だから、誰か会員の部屋に押しかけるってのも、な かなか、そんなわけにもいかないし。」 武治は澄子が嘘をついているのが分かっていた。信仰の厚い連中、まして会 合の大好きな連中が会場の都合などで集会を諦めるはずがないのだ。しかし、 薮にわざわざ足を踏み込んで蛇を呼び出す必要もない。 澄子がそう言うなら、それでいいのだ。澄子がそれほど機嫌を損ねなかった らしいことに、武治はホッとしていた。 しかし、安堵するだけでは間が持たない感じがあった。 (何か話題はないか) ふと、武治は澄子の郷里の町に秋になると咲き誇る曼珠沙華のことを思い出 した。もしかしたら、もう、咲いているのかもしれない。花の知識に疎い武治 は、曼珠沙華が赤い花だということくらいしか知らない。香りがするのかどう かも知らないのだ。 「澄子の田舎じゃ、もう、曼珠沙華が咲いてるのかな」 「曼珠沙華? うん、咲いてるはず。今もね、金木犀を見ながら田舎を思い 出してたの」 ドンピシャだった。 「曼珠沙華って、どんな花だっけ?」 「ああ、曼珠沙華だったら、任せて。結構、詳しいのよ。」 大当たりだ。武治は、密かに安堵の胸を撫で下ろした。 「ちょっと事典風に説明すると、昔、中国から渡来した植物なの。これは、 金木犀も同じね。これは聞きかじりだけど、稲作と一緒に伝わったという説も あるらしい。つまりね、稲作の休みの間の、田圃を癒すための植物ってことね。 蓮華みたいなものかしら。ちょっと怪しいけど。曼珠沙華って法華経に出てく る梵語で赤い花を意味するの。」 武治は、「赤い花」と聞いて、学生時代に読んだガルシンの小説を想い起こ していた。 精神病院の入院患者の物語だった。彼は病院の庭に真っ赤な芥子の花を見か ける。彼にはそれが悪の象徴のように思われる。で、毟り取ってしまうのだが、 その翌日、彼自身も死んでしまうのだ。 心の病。深紅の花。悪の花。由真の白い体に咲いた赤い花。上気した顔。血 走り見開かれた目。幾度、果てても、その都度、快感の波が押し寄せ、彼を圧 倒したこと。 (あの日以来、俺は女の中では果てることが出来なくなった…) 「…花言葉は、悲しい思い出。」 (俺には、あれは悲しい思い出なのだろうか。それとも悪夢なのだろうか。違 う! あれは、男としての至上の悦楽だった。由真は一生、俺のものなのだ。 俺のペニスに抉られながら命を蜻蛉に変えた由真の末期は、俺だけの祈りの刻 まれた絵馬。記憶の海の底の蜃気楼。由真の命と引き替えの真実。俺だけの現 実…) 「でもね、葬式花とか、死人花とか、それから幽霊花とかって別名もあるら しい。正式な別名なんかじゃなくて、ほら、曼珠沙華って、ちゃんとした別名 が彼岸花じゃない。その、やっぱり死に無縁じゃないのよね。」 武治は段々、今日の散歩は澄子が言い出したように思われ始めていた。 (金木犀の芳香も澄子の計算付くだったのではないか…) (でも、曼珠沙華の話題は…、あれは間違いなく、俺が出した…) にもかかわらず、武治は曼珠沙華の話さえも澄子の罠に嵌って持ち出したよ うに思われてならないのだった。[曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこすぎ てゐるしづかなる徑]という高校時代に現代国語の教科書に出てきたはずの木 下利玄の歌を思い出さずにいられなかった。 武治は、生きているとは感じられなくなっている自分を持て余しているのだ った。曼珠沙華の燃えて咲く秋の強い日差しの道を澄子と今、現に歩いている にも関わらず、まるでフワフワした夢の中を漂っているようだった。一切が抽 象的な記号どもの無意味な飛沫だった。 そして夜毎に見る夢の中では、皮肉なことに凶暴なまでの現実感に苛まれて いる…。悪夢の闇の海から生還する度に、 (俺は、このままだと澄子を…。)と考えている自分に驚愕するのだった。 (俺は、そんなでもしないと生きている現実感を得られない人間になったのか。 それとも、生まれつき、そうだったのか…) 静かな、静か過ぎる道を武治は歩いていた。そして、その傍で澄子が悲しみ の底に沈んでいることに、気付かないのだった。 曼珠沙華草むらの中ゆ千も万も咲き 彼岸仏の供養をするか 木下利玄 02/10/07 |