松 川 に て
 
(04/04/25 up)
 




                                         家にいる気になれず、あてもなく外に飛び出した。
 仕事にあぶれている俺。みんな優しくて、労わりの目で俺を見る。それが尚の こと、居たたまれない気分にさせる。年老いた父が畑で草むしりをしていた。そ の痩せ細った背中が、俺を責めているように感じられてならなかった。手伝えば いい。それだけのこと。でも、俺は逃げるように消えるしかなかった。
 春四月も五日となっていた。子供や学生たちなら、そろそろ学校が始まる頃か。 時折、行き交う零れんばかりの笑顔の女の子たちの様子を見ていると、何となく 憂鬱になってくる。いつの頃からか、春というと、新陳代謝という言葉を思い浮 かべてしまうようになっていた。新鮮な細胞がドンドン芽吹き、圧倒するような 速さで増殖し成長する。その勢いに押し出されるようにして、俺のような無能な 人間は、隅っこへ、枠の外へと追い詰められていく。
 土の匂いが鼻を突く。草木はムンとするほどの生命力を溢れさせている。冬の 間は姿を見せなかった虫たちが、あちこちで蠢きだす。
 なのに、俺の唇は乾き、腰は痛み出し、足取りは重くなる。
 気がついたら、小学校の近くの公園に来ていた。月曜日の昼間。でも、食事時 に近いせいか、人影は少ない。たまに見かけるのは、老人か、さもなければ春休 みの子供たち、あるいは子連れの奥さん。俺のような中年男の姿は、まず、いな い。なんとなく居たたまれない。(日差しがタップリなのに、こんなヨレヨレの コートなど、羽織ってくるんじゃなかった)と思ってみたり。(なんだか、失業 中のうらぶれた男じゃないか…。ああ、そうだった。今の俺は、まさに文字通り の失業男なのだ)。ここには居たくない。といって、何処へ行くアイデアも浮か んでこない。逢う相手もこの世にはいない。
 不意に、ボールか何かが壁にぶつかるような音がした。そちらに目をやると、 何故か学生服姿の高校生が、テニスボールを駐車場のコンクリート壁に向って投 げては跳ね返るボールを拾い、を繰り返していた。遠い昔、俺が小学校の頃だっ たかに、校庭のプールのブロック塀相手にやっていた遊びを連想させた。遊び相 手がいない俺は、壁や塀だけが俺の投げかけに木霊する存在だったのだ。
 見ているうちに息苦しくなった。あれから三十年も経ったのに、俺は結局、同 じことをやっている。唯一、違うのは今の壁は目には見えないという点だけ。そ れだけに、厄介だった。周囲が不可視の壁。
 何が悪いのか、自分では分からない。分からないなりに、まともな神経という 奴を持ち合わせていないことだけは、直感している。痛いほどに自覚させられて いる。
 公園を立ち去って、さらに行くと、そこには松川があった。
 ここだけには来たくなかった。目に眩しいほどに桜が咲き誇っているのだ。そ ういえば、昨日の夕方、テレビで富山の桜の満開宣言が出た、なんてやっていた のだった。今の俺が一番、似合わない場所じゃないか。なんだって、そんな日に 帰省してしまったのだろう。
 遠くには、青空を背景に立山連峰が輪郭も鮮やかに輝いていた。目一杯に雪化 粧した山々が深く刻まれる峰々のままに刃のような鋭い影を描いている。純白の 巨大な屏風に描かれる切っ先の鋭すぎる水墨画。天気さえよければ、富山という 町のどこを歩いても、そんな天然の衝立が俺を囲繞する。今の俺には、それが苦 しくてならない。逃げ場がない。出口なしを如実に現している。
 俺を覆い隠す屏風を背に、松川の桜並木の花弁がタップリの陽光に映えて、俺 を幻想的な世界へ誘い込もうとする。
 そうだ! どうせなら、俺を何処とも知れない世界へ導いていって欲しい。醍 醐の花見なんていう気分ではない俺を噎せるほどの生命の横溢する世界へ誘い込 んで欲しい。松川の川面に映る青い空の深みに呑み込んでいって欲しい。
 橋の欄干から光を千々に照り返す水面を眺めているうちに、何か思いがけない 観念の塊が浮かび上がってくるのを感じた。それは川底から浮かんでくるのか、 それとも俺の脳裏の奥底から湧き上がって来るのか分からなかった。
 そうだ! あの水底にはあの人がいる。あの人が身を投げた場所なのだ。俺は あの人に逢いたい。八方塞(はっぽうふさがり)となった俺の唯一の逢瀬の時は 今なのだ。俺の魂が迷子になったのは、あの日以来のことなのだ。
 俺は、橋の脇にある石段を降りていった。すると、偶然、遊覧船に遭遇してし まった。「滝廉太郎号」なんて、名づけられている。まるで、舟に向って俺も乗 せてってくれよと叫ぶようなタイミングだった。思わず転んでしまって、草の生 い茂る斜面を滑り落ちてしまった。バツが悪かった。惨めだった。それ以上に、 滑稽だった。
 でも、内心、必死だった。何かを俺は思い出そうとしていたのだ。恐る恐る頭 を水面上に出しかけていた何かは、俺にとっては運命の赤い糸にさえ思えていた。
 なのに川面は船に波立ち掻き乱され、浮かび上がるはずだった思いの丈も水面 下に頭を押し込まれてしまった。
 何だ。一体、何なのだ。何をお前は訴えようとしたのだ。どうして何一つ応え てくれないのだ。俺をここに呼んだのはお前なんだろう? だったら!
 気がつくと、船の影は曲がりくねる土手の陰に消えていた。川面も、もとの穏 やかな鏡の落ち着きを取り戻している。元に戻れないのは俺の心だけだった。


04/04/06 作