真夏の夜の雨


   この世に信じられるものがあるとして、それは一体、何だろうか。
 それは愛する心。それ以外に何があろう。
 どうせ、いつかは朽ち果てて死ぬ。そうでなければ、ボケて何がなんだか 分からなくなってしまう。社会だなんて、訳の分からぬもののために生きる 気などあるはずもない。カネは欲しいがカネのためにあくせくはしたくない。
 愛する心。それだけが死ぬまで己を責めつづけるだろう…、武治はそう密 かに思っていた。何故なら、愛の存在を信じているからだ。

 そうだ、武治には武治の秘密があるのだった。死ぬまで守り通す秘密だっ た。澄子にであろうと、打ち明けるわけにはいかないのだ。
 澄子の白い体をまさぐりながら、武治は、脳髄の痺れるような快感を味わ っていた。
 それは、どれほどに快感の極を彷徨おうと、決して溺れきることはないと いう矛盾に満ちた、何処か責め苦にも似た悦びなのだった。

 武治は、実は一度として澄子の体で行き果てたことがないのだ。いよいよ、 今にも行きそうになる寸前に、武治の脳裏にあの女の末期の姿が浮かぶのだ。 すると、一気に武治の一物は萎え果ててしまうのである。
 が、澄子は、武治が超人的な自制心で己を制しているのだと思っていた。 何故なら、一物が萎えるのは、いつも澄子の中でだったから。しかも、散々、 澄子の腸(はらわた)を捏ねまわした挙げ句なのだから、不平を言う筋合い もなかった。
 同時に粘液状の熱い吐息を我が身に浴びることのない寂しさを澄子は、行 為の後にいつも、つくづくと感じていた。

「ねえ、あなた、あの時、何を見てるの?」
 そう、澄子が問い掛けたことがあった。
「あの時って?」
「だから、絶頂の時よ。男の人って、我慢できるはずないって言うし」
 武治には答えようのない問いだった。強靭な意志の力で、思いとどまって いると言いたいところだが、まさかそんなわけもあるはずがない。
「絶頂の時か…」
「あなた、あの時…」
 そう言い掛けて澄子は口を噤んだ。武治が、あの一瞬、怯えたような、絶 望感としかいいようのない表情を浮かべているとは、澄子には言えなかった。 
 しかも、実は一瞬ではなく、時にはあまりに長い沈黙に感じられることが あった。
(この人は何かを隠している!)
 悲しいけれど、澄子は、そう確信するしかなかった。
(もしかしたら、信心ぶる私への面当て?)
 それもまた、違うようだった。

 武治には、永劫に隠し通さねばならない秘密があった。彼は、高校一年の 夏、ある女を手にかけたことがあったのだ。
 あの日、悶々とした情欲の夜毎の責め苦に耐え兼ねて、真夜中になって家 を抜け出し、町外れの一軒家に向かった。何故か胸騒ぎがしてならなかった。
 その家の浴室が、駐車場の脇のプレハブの物置に上ると、中が丸見えにな る。特に夏になると、磨りガラスの窓が大きく開け放たれることを、中学の 頃から武治は知っていた。
 しかも、夜のほぼ同じ時間帯に憧れの彼女が入浴することを知っていたの だ。
 無論、真夜中過ぎに入浴する彼女が望めるはずもない。けれど、せめて匂 いか雰囲気だけでも味わいたいと思ったのだった。

 武治はプレハブの倉庫の上に上り、風呂場を伺った。
 真っ暗…のはずだった。それが何故か灯りがついている。しかも湯気まで が窓から溢れ出している。
(まさか、こんな時間に)
 高鳴る胸に苦しいほどだった。心臓の音が震撼とした闇の海に轟き渡りそ うだった。
(一体、今ごろ、誰が)
 武治は息を潜めて中を覗き込んだ。後ろ姿の裸身が仄見えた。
(あの肌、あの肩、あの髪、間違いなく由真だ!)
 湯気に篭る由真の肌の匂いを懸命に吸い込もうとした。湯煙の向こうの由 真の白く細い体を武治は掻き抱こうとした、できるはずもないのに。

 湯煙にはレモンの香りが混じっていた。由真の大好きな果物だ。学校が違 うとはいえ、武治は由真のことを知り尽くしている。由真は地元では評判の 女の子だった。彼女のことなら、本人が知る以上に詳細な噂がしばしば流れ ていたのだ。
 目を凝らして湯船を覗くと、たくさんのレモンが浮かんでいる。
(いつもはハーブの入浴剤を使うだけなのに、今日はレモンか。贅沢してる んだな…)
 武治は、不意に、クラスメイトの誰かから聞いた話を思い出した。由真の 両親が事情があって、出かける、だから今日は一人きり…。由真は一人っ子 なのだ。そうか、今日が、彼女が一人で留守番をする日だったんだ。
 その時になって、やっと武治は胸騒ぎの原因を悟ったのだった。

 武治は由真を抱きしめたいという欲望で頭も一物もパンパンだった。ズボ ンの中でチンポがカチンカチンで、今にも張り裂けそうだった。
(ああ、由真を刺し貫きたい!)
 想いはそれだけだった。今にも暴発しそうだった。このまま、飛び込んで、 やってしまいたい。後のことは後で考えればいい。そう思いながらも、彼に はズボンに手を突っ込んで、チンポを激しく擦るしか能がなかった。
 が、あまりに欲情に駆られ過ぎて、体勢を崩してしまった。プレハブの屋 根から落っこちそうになり、慌ててスチールの屋根の角にしがみついた。爪 が剥げ始めたペンキを引っ掻く、キキーという音がしたような気がした。
 その瞬間、目が合った。武治の体は硬直した。後は、何がなんだか分から なかった。

 気が付いたら、由真の首を絞めている自分がいた。絞めながら武治は行き 果てた。体の中の全てが沸騰し精気が飛散していった。女の首を締めること が、こんなにも快感に満ちた行為だと、知ってしまった。
 由真の目は虚ろだった。由真の瞳に映る自分が怖かった。由真の白いはず の体がピンクに染まっているのは、入浴のせいではなく、彼女が末期に味わ った死ぬほどの快感のせいだと信じられた。
 由真のベロが、あどけなく垂れていた。ベロの愛くるしさに、一層、由真 が愛しくなった。
(由真のすべては、今こそ、俺のものだ。永遠に!)

   どれほどの時間、その場で由真の裸身を眺めていたのか分からなかった。 その間、幾度も幾度も精気の奔流する絶望的なまでの愉悦を味わっていたこ とだけは覚えていた。
 やがて、湯気も立つことはなくなっていた。湯船の中の由真の体も元の白 さを取り戻しつつあった。けれど目だけは武治を見つめ続けていた。見開か れた血走った目には、懇願するような切なさがあった。
 武治は誰にも語ることの出来ない秘密をその日、知ったのだった。それは、 男が女を抱くどんな愛撫の行為より、首を絞めることで得られる快感は優る ということだった。
 未明になって、不意に雨が降り始めた。雨は火照りを優しく癒してくれる ようだった。真夏の夜の雨の中、武治は愛の屍となって帰っていった。

                                              02/09/08


[「真夏の夜の雨」という掌編を書いた。AYAさんの詩「あの日」の中の「あの人は  きっと今頃 どこまでも白い 花の海の中だろう 溺れるほどに 花を握りしめ ているのだろう」という詩句に引っ掛けて掌編を書こうと思っているうちに、ふ と、シェイクスピアの『ハムレット』の中のオフィーリアや、 ジョン・エヴァレ ット・ミレーの「オフィーリア」(1852)を連想してしまった。
 さらに、ネットで「オフィーリア」を検索したら、弓田純大(ゆみたすみお) という方の素敵な作品が見つかった。これは一見の価値があると思う:  特に、弓田さんの作品の印象を元に、実際に書いているうちに、更にまたまた 違った世界になってしまった。]