雑文集<8>

 
詩という祝福(余談)          02/03/16

 過日、ネットでホームページをあれこれ検索していたら、あるホムペの中に素敵 な詩を発見した。誰が書いたものかと作者を見ると、AUTHOR UNKNOWNとある。読 み人知らずの歌なのである:

 大きな事を成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに
 謙虚を学ぶようにと弱さを授かった
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
 より良きことができるようにと病弱をあたえられた
 幸せになろうとして富を求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった
 世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
 得意にならないようにと失敗を授かった

 求めた物は一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた
 神の意に添わぬ物であるにかかわらず
 心の中で言い表せないものは全て叶えられた
 私はあらゆる人の中で
 最も豊かに祝福されていたのだ

(ニューヨーク州立大学病院の壁に書き残された詩)

[ 小生が見つけたサイトは:「Angel Talk」
 http://www.bh.wakwak.com/~pinocco-chan/index.html 
表紙のAngel Talkというロゴをクリックすると、詩が現れてくる ]

 以下は、その原詩。

 A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

 I asked God for strength, that I might achieve
 I was made weak, that I might learn humbly to obey...

 I asked for health, that I might do greater things
 I was given infirmity, that I might do better things...

 I asked for riches, that I might be happy
 I was given poverty, that I might be wise...

 I asked for power, that I might have the praise of men
 I was given weakness, that I might feel the need of God...

 I asked for all things, that I might enjoy life
 I was given life, I might enjoy all things...

 I got nothing that I asked for - but everything I had hoped for

 Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
 I am among all men, most richly blessed!

                         AUTHOR UNKNOWN

 日本語訳については、いろいろ試みられている。大概は、宗教的色彩を帯びた訳 になっているといえそうだ。内容からして、そう解釈したくなるのも、無理はない だろう。
 しかし、詩が発見され広く普及する契機となったのは、場所が病院ということも あってか、健康への願いというメッセージをも読み手は見逃さないだろう。
 念のため、代表例ということではなく、一つの典型例ということで示しておく:
 http://www.hi-ho.ne.jp/luke_tokita/tearoom/uta.html

 この詩の発見された場所である病院は、「ニューヨーク市立大学」であり、その リハビリテーションルームの壁に書かれてあったと言われている(そういう説明と 共に広まったことは事実のようだ)。
 では、その壁に書いたのは誰か。諸説があるようだが、「ベトナム戦争で心身と もに深く傷つきながら、立ち直っていった若者」が書いたとも、言われている。
 が、この説が正しいとして、書いたのがその某若者なのだとしても、作者は誰な のかは、依然として不明である。
 原詩のタイトルである「A Creed For Those Who Have Suffered」は、直訳す ると、「苦難にある者たちの信条」ということになる。あるサイトではcreedを信 条ではなく告白と訳しているが…。  しかし、どうも、小生の感じでは、このタイトルは、後世になって誰かが一定の 解釈や予断を持って付したのだという気がしてならない。内容の切実さ、切迫さに 比して、タイトルが説教臭く思われるのである。
 サイトを広く検索してみると、作者は「Written by an unknown Confederate soldier 」とある:
 http://www.sanpedro.com/jbd/creed.htm

 さらに別のサイトを当たってみると、作者は「This poem was written by an unknown Confederate soldier during the American Civil war」とある。つ まりアメリカの南北戦争当時、南軍兵士によって書かれたものだ、というわけであ る。
 尤も、あるサイトを覗くと、作者の名と誤認されそうな形で、Roy Campanella という署名がされているが:
 http://www.afn.org/~afn48651/creed.html

 いずれにしても、少なくともアメリカでは、この詩はかなり有名なものであるよ うだ。日本でも結構、知られているのかもしれない。小生の「発見」が、遅きに失 しているのかもしれない。
 ま、詮索は、これまでにして、改めて、じっくり読まれてみては、いかがだろう。



何故か駄洒落が浮かんでならない          02/03/08

 このところ、仕事が暇である。開店休業状態といっていい。
 だからというわけではないのだが、久しく途絶えていた駄洒落熱が再発している。
 この熱は発散しないことには、醒めないようなので、人様には迷惑なことながら、 ここに落書きさせてもらう。
 凡そ、文学とは縁遠い話で申し訳ないと恐縮しつつも、でも、出物腫れ物はとこ ろ嫌わずというし。

 昨日は何故か宇多田ヒカルに絡む駄洒落を考えていた:

   ヒカルちゃんがブラブラしている         ブララ ヒカル
 ヒカルちゃんには敵わない            無駄だ ヒカル
 ヒカルちゃんが太ってしまって          豚だ ヒカル
 ヒカルちゃんが韓国の百済(くだら)に行くって  百済 ヒカル
 ヒカルちゃん、服が裏返しだよ          裏だ ヒカル
 ヒカルちゃん、何を口に銜えてるの?       管だ ヒカル

   すると、何故か鬼束ちひろの曲が流れてきたので:

 丑三つ時のチヒロちゃん            お、二時か チヒロ
 チヒロちゃんが、爺(じじい)と歩いてる    お、じじか チヒロ
 チヒロちゃんが、乳(ちち)を弄ってる     お、乳か チヒロ
 チヒロちゃん、何を見てるの?         お、地図か チヒロ
 チヒロちゃん、何を見てるの?         お、虹か チヒロ
 チヒロちゃん、手に何をはめてるの?      お、数珠か チヒロ
 チヒロちゃん、何、飲んでるの?        お、水か、チヒロ
 チヒロちゃん、何、そわそわしてるの?     落ち着か(ない) チヒロ

 以上が昨日の勤務中の成果です。
 論評に耐えないのは明らかなので、コメントはしないで下さい。
 次回は、安室なみえちゃんの特集をします。


「安室なみえ」に絡む全くのお遊びです          02/03/09

 入浴している安室ちゃんを見て          あ 風呂、なみえ
 お歯黒をした安室ちゃんを見て          お歯黒 なみえ 
 頭から墨を被った安室ちゃんを見て        真っ黒 なみえ
 禿(はげ、かむろ、とも言う)の鬘を被った安室ちゃんを見て  
                                かむろ なみえ
 鏡に映った安室ちゃんを見て           あ、安室 なみえ
 あれっ? 最後の当たり前じゃん?!

 マグロの刺身を食べているなみえちゃん…     まぐろ なみえ
 なみえちゃんはアマチュアじゃない        あ、プロ なみえ
 アフロヘアーにした安室ちゃん          あふろ なみえ

 やたらとおおきくなった安室なみえちゃん…    マクロ なみえ
 安室なみえちゃんは、どんな果物が好きなの…   ザクロ なみえ
 安室なみえちゃん、他に好きな果物はあるの…   アップル なみえ
 安室なみえちゃんが、何人も揃っている…     たむろ なみえ

 馬の轡を取って…                博労 なみえ
 スキャンダルが発覚!              暴露 なみえ

 安室なみえちゃんが、かの有名な画家パブロ・ピカソと結婚!
                              パブロ なみえ
 安室なみえちゃんが帽子をかぶろうとしている   かぶろ なみえ
 安室なみえちゃんが蕪と並んで写真を撮っている  蕪と なみえ
 安室なみえちゃんが虻(あぶ)と並んで写真を撮っている 
                               虻と なみえ
 安室なみえちゃんが頭に兜をかぶっている     兜 なみえ 
 安室なみえちゃんが糞(くそ)をしている     あ くそ なみえ
 これは、失礼。御免。

 おなかをすかしたなみえちゃん          あ、食お! なみえ
 カラス(crow クロウ)を見て        あ、クロウ なみえ
 ちょっと太ってしまって             あ、太! なみえ
 生活苦のなみえちゃん              あ、苦労 なみえ
 寄せ鍋の灰汁を掬ってるなみえちゃん       あくを なみえ
 イカを炙っているなみえちゃん          あぶろ なみえ
 風呂でもただの風呂じゃない           泡風呂  なみえ

 あの…、断っておきますが、大切なことは(?!)、常に「安室」ちゃんに掛けていることを意識して、声に出して発音することです。

 なみえちゃんが風邪薬を飲んでる         パブロン なみえ
 なみえちゃんが袋をかぶっている         あ、袋 なみえ

   家具の前でポーズを取るなみえちゃん       家具と なみえ
 においで分かるなみえちゃん           嗅ぐと なみえ
 髪をアップにして                アップの なみえ
 飴を舐めて                   飴を なみえ
 雨に降られて                  雨の なみえ
 あ、服が破れてる                あ、ボロ なみえ
 そこからオッパイが               あ、ポロッ なみえ
 で、見えすぎて                 あ、モロ なみえ

[「飴を なみえ」は、「飴を なめえ」にしようかと、考えたけど、でも、「な みえ」を弄らないという禁欲的な制限を課して遊ぶから面白いんだと、止めた。だ から、「なみえ」を例えば、(磯野)波平などと遊ぶのも、やらない]

 顔を真っ黒に焼いて               ガングロ なみえ
 おもちゃ(玩具)と遊ぶ             玩具と なみえ
 なみえちゃんと会った              会うと なみえ
 なみえちゃん、失敗               アウト! なみえ
 ふと、なみえちゃんを思い出した         あ ふと なみえ
 なみえちゃんが髪を三つ編みに          編むと なみえ

 レ・ミゼラブルを読んでいる           あ 無情 なみえ
 霧と氷の世界の中のなみえちゃん         あ 霧氷 なみえ
 フランスの車に乗ってるなみえちゃん       あ プジョー なみえ
 なみえちゃんは婦女子なのだ           あ 婦女 なみえ

 ここまで来ると、どんな遊びをしているか、忘れそうである。繰り返すが、 大切なことは(?!)、常に「安室」ちゃんに掛けていることを意識して、大きく声 に出して発音することである。
 さらに蛇足を:

 ダムで写真を撮るなみえちゃん          ダムと なみえ
 織田無道と写真を撮るなみえちゃん        あ 無道 なみえ
 ちょっと怒ってるなみえちゃん          あ むっと なみえ
 竹刀を振り回してるなみえちゃん         あ 武道 なみえ
 葡萄を食べてるなみえちゃん           あ 葡萄 なみえ

 声に出して遊んでくれた方、どうもありがとう。お疲れ様でした。



駄洒落についての初歩的考察(続)          02/03/17

 小生は詩を書いたことがない。また、書けそうだという予感も霊感めいたものも 感じたことがない。
 ところが、詩作したり音楽を作曲できる人からすると、多少の苦労はあっても、 何か詩想や楽想が天から舞い降りるのだそうである。我輩には、そんなことは、神 秘以外の何物でもない。
 その小生は、それでも詩を鑑賞できる感性が自分にあるか否かに相当程度の懸念 を抱きつつも、詩を読むことがある。あるいは声に出さずに歌ってみることもある。 が、小生が詩に関して為すことは、せいぜい、そこまでである。自分で詩作をなそ うという気がまるで起きないのである。
 そんな小生に、わざわざ詩を送ってくれる方もいる。自分に、戴いた詩について 的確な批評は出来かねるのだが、しかし、読むと自分には到底、思い浮かぶことの ない表現や視点や感覚が厳然としてあることを感じる。
 技術の稚拙は人によってあるのかもしれないが、通常の文章で技術をどう凝らし てみても、表現の及ぶことはないだろう世界が広がっていることを感じる。
 そもそも詩と所謂、こうした文章や、あるいは小説などとの違いは何処にあるの だろう。
 それは、小生には、簡単には、形式上の制約だと思われる。
 つまり、詩にはある程度の形式の上での縛りがあると思われるのだ。
 通俗的には歌謡曲などの歌詞を見れば、覿面に分かる。一連から二連、三連等々 と歌詞が続いていくが、その歌詞の文字数や並び方だけは共通する。
 詩のように、本来、発想の自由さこそが命のように思える典型の表現領域で、何 故、形式上の縛りをわざわざ効かせるのだろうか。自由詩じゃないが、もっと、文 字数も行数も変化に富むもので構わないはずじゃないか…。下手すると、その縛り の故に、文字数を削ったり増やしたり、あるいは形式に嵌めこむために、無理矢理 言葉を捜したり、なんだか、本末転倒しているようにさえ、見受けられそうではな いか。
 やはり、そこに何か秘密がありそうだ。
 というより、実は、ある種の制約を課すことで、逆に自由なるイメージの探求や、 イメージの広がりが得られるらしいのである。
 今、小生は、ダニエル・デネットの『ダーウィンの危険な思想』を読んでいる。 実は、この稿は、本書の中に引用されている短い文章に啓発される形で書いている のである。その一文を引用する。書き手は数学者のスタニスラウ・ウラムである。 彼は、「詩の制約が、創造力の障碍になるどころか、創造力の源になることを見抜 いていた」:

"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
 私は子供の頃、詩における韻の役割は、韻を踏んだ語を見つける必要性から、 自明ではないものを探させる点にあると感じていた。これによって、新奇な連想 が無理矢理に引き出されて、ありきたりの思考の連鎖やつながりから逸脱するこ とが、ほぼ保障される。逆説的だが、それはオリジナリティーを生む一種の自動 メカニズムとなるのだ。

  """""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
 本書(ダーウィンの危険な思想)では、このある種の制約が、創造力の制約にな るどころか、実は逆に創造力の源になっており、「この考え方は、全く同様の理由 から、進化の創造力にも当てはまるだろう」とつながるわけである。
 小生自身にも分かる卑近な例であれこれ考えてみよう。
『ふるさと』という童謡がある:

   うさぎおいし かのやま
   こぶなつりし かのかわ
   ゆめはいまもめぐりて
   わすれがたきふるさと

[詩の全体は以下などを参照:
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/youji/doyo_mein.html#ふるさと ]

 この冒頭の一節「うさぎおいし」だが、もしかしたらかなりの方は、一度は「ウ サギはおいしい」という意味だと誤解していた記憶があるのではなかろうか。それ とも初めからすんなり「うさぎを追いかけた」という意味を理解できたのだろうか。
 ま、それは人それぞれとして、歌詞を勝手に読み込むと「うさぎを食べたら、お いしいよ」「どこでうさぎを食べたのかな」すると、すぐに「かのやま」という言 葉が「鴨川」と自動的に変化する。
 いかにも「かのやま」と「かもがわ」は音韻的に近い(!?)。
 そうか、鴨川でうさぎの肉を食べたんだなと、意味のない解釈を頭が勝手に行う。 そうなると、もう、連想という遊戯の輪は止まらない。
 昔、そう、江戸時代の頃、少なくとも庶民はケモノの肉を食べることが禁じられ ていた。が、鳥は構わなかったらしい。そこで、どうしてもウサギ(ケモノ=四足 の動物)の肉を食べたい人は、ウサギを「う」と「さぎ」という二羽の鳥だと強引 に解釈して、ウサギを食べたという俗説を思ったりする。そこからウサギの数の数 え方が一羽、二羽となったというのだ…。
 尤も、その数え方に関しては、ウサギの 耳が羽に見えたからだという説もある。それに止まって辺りをキョロキョロ見回し ているウサギ君の姿は、鳥とは言い難いとしても、四足動物と二足の鳥類との中間 種という解釈も不可能とは言い難い! 嘘だろ! なんて、言わないこと。冗談な んだから。
 そうか、だからウサギの肉を食べる場所として作者は「かのかわ」という歌詞で 「鴨川」を暗示したのだな…。そんな連想が成り立つわけである(筆者注:あの、 冗談ですよ。真に受けちゃ、ダメです)。
このようにして歌詞を音韻的に誤読することで、ある意味で(あるいは完全に)無 意味なる連想の大海へ迷い出すことができるのである(迷い出す必要など、全くな いのだが)。

 もう一つ、例をあげよう。同じく同様の、もとい、童謡の『赤とんぼ』である。 知らない方のために、念のため、歌詞を少しだけ示しておく:

1. ゆうやけこやけの
   あかとんぼ
   おわれてみたのは いつのひか

2. やまのはたけの 
   くわのみを
   こかごにつんだは
   まぼろしか

[詩の全体は以下などを参照:
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/youji/doyo_mein.html#あかとんぼ ]

 察しのいい方、そして身に覚えのある方は、もう、小生が何を言い出すか分かっ ておられるだろう。が、小生は臆面もなく、書き綴る。
 問題は第一連の「おわれてみたのは いつのひか」である。きっと読者のうちの ほんの一部の方だけのことだろうが(実は大半だと小生は内心、確信している)、 「おわれて」を「追われて」つまり「村から追放されて」と解釈した人がいるに違 いない。赤とんぼに追われるとは、実は村人に追われることを詩的に美しく表現し たのだ…。
 とすることで、第二連が理解しやすくなる。「くわのみをこがごにつんだ」のは、 村を出るに際して、何か食料になるものをとりあえず籠に積んだという意味か、そ うでなければ、彼(彼女)が村を追われる理由となったのも、実は、彼(彼女)が、 村の誰かの家の庭から勝手にくわのみを摘み取ったから、だから村を追い出される 羽目になってしまったのだ。
 極めて論理的で明瞭な解釈ではなかろうか。
 となると、三連めも引用して解釈しておきたくなる。:

3. じゅうごでねえやは
   よめにゆき
   おさとのたよりも
   たえはてた

 きっと、読者は、そうか、分かった!と、膝を叩いているに違いない。
 そうなのだ。くわのみを盗んだのは十五の姉や(ねえや)だったのだ。犯人はこ いつだ。で、村人は追放するだけではかわいそうなので、どこか隣村にでも嫁にと いうことで送り出された…、あるいは、本当は村から締め出されただけなのだが、 建前上、世間体もあり、嫁に出したという名目を立てたのだ…。
 きっと、小生の解釈は筋が通っていると感動されている方もいるのではなかろう か(ここまで書いてきて、ふと、不安になった。まさか、読者の中にはこの期に及 んで、「おわれて」が「追われて」でいいと思っているんじゃないか、と。あの、 「負われて」ですからね。もし、今、初めて知ったという人がいたらと思うと、背 筋が寒くなってくる)。
 尤も「おわれて」が「ぼわれて」の転訛(てんか)だという可能性もないわけで はない(これも冗談だからね、分かってるね)。

 いい加減にしろと、石を投げられそうなので、(できれば石より匙を投げて欲し いものだが)本筋に戻る。
 さて、こうした意味的に輻湊した遊びをふんだんに取り入れた詩人というと、な んといってもシェークスピアがいる。彼の戯曲などは、もう、駄洒落や言葉遊びの 宝庫なのだ。
 日本だって負けてない。少なくとも昔の歌は、掛詞に限らず、言葉で奔放なくら いに遊んでいたものだった。今、ちょっとその例が浮かばない。たまたま思いつい た最適とはいえない歌を示しておこう。:

 足引きの 山鳥の尾の しだりおの ながながし夜を ひとりかもねん(柿本人丸)

 これまた余談で余計な脇道だが、今、たまたま「もじり百人一首」なるサイトを 発見した: http://www.honjo.ne.jp/hp2/shinozaki/mojiri3.htm

 その中では、上記の歌をもじって以下のように歌われている:

 逢引の 山のふもとの 安宿の ながながし夜を ふたりかも寝ん

 「ふたりかも」という言葉に滋味を感じる。「かも」は、もちろん、鴨という鳥 なのだろう?
 それがいつしか、真面目一方のものは、和歌とか短歌とか俳句となり、不真面目な ものは川柳とか呼ばれて貶められていってしまった(きっと、形式的縛りが俳句に 比して川柳が緩いから、芸術的に低く見られてしまうのだろう)。
 もっと、両者の合一した世界を、誰か志しある方に実現して欲しいと思う。
 で、本筋だが、語彙的、あるいは形式的制約を殊更に受ける中で、それだからこ そ、表現の上で、あるいは発想の上で自由度を増すという逆説は、もう少し、考え る余地がありそうである。
 以下、機会があったら、考えてみよう。