今は東京でも大田区の工場町に住んでいる。
その前は港区の高輪のマンションに住んでいた。もう、この地名とマンションに
居住するというだけで事情を知らない人は何か豪奢な感じを受けるらしい。しかも、
その高輪に住んで間もなく会社の必要もあって、車の免許を取り、会社の同僚の紹
介で安く車を入手することさえできた。
買ったのは中古ではあるが、スカイライン2000GT-Xである。
GT-Rでないところに、車通の方は多少の落胆の念を覚えるかもしれない。そのス
カイラインは、ハンドルがミニハンドルで、まさに暴走族仕様だった。気の弱い小
生は、すぐにハンドルをノーマルに換えてもらったものだ。
高輪のマンションに住み、スカイラインを乗り回しているという噂がどう伝わっ
たものか、数年来、音信普通だった友人連とも再会した。彼らは共に既に結婚して
いた。
彼らがやってきた小生の部屋は、狭っ苦しいワンルーム(1K)に過ぎず、スカ
Gも相当の中古に過ぎず、会社でも倉庫番というウダツの上がらぬ仕事をしている
のだと知れるのに、数時間も要するわけもない。
小生はその八階建ての中古のマンションの八階に住んでいた。最上階であり、冬
は寒く夏は暑い。屋上からの熱気がコンクリート越しに容赦なく伝わってくる。冬
は冬で、どんなに暖めても、熱は呆気ないほどに逃げ去っていく。
(この小文では夏の思い出に絡めて書いて行きたい。)
さて、というわけで、夏場はひたすら暑い。エアコンなど効いているのか分から
ないほどだ。 それだからだろうか、ただでさえオートバイでのツーリングが趣味
の小生は、週末は必ずといっていいほど、オートバイで遠出したものだ。夏場での
外出の動悸の半分は、部屋の暑さだったのかもしれないと、今にして思ったりする。
ただ、助かるのは、日中の酷暑が去った夕方以降のことだ。
それは、八階という高い場所にあるため、ベランダ側の窓を開け、廊下側(玄関
側)のドアを少し開けておくと、風が小気味いいように吹き抜けていく。
だから、夏場でも夕方を過ぎると、クーラーを使ったためしがない。しかも、小
生は夏場は部屋では裸でいる。無論、トランクスだけは穿いている。めったに客が
来ないし、たまに来ても新聞代の集金人か小包の配達人かで、何も困ることはない。
ま、たまに気になるのは、目の前にある巨大な都営の団地の住人の目くらいなも
のか。カーテンはあったが、しっかり閉めると風が通りにくいので、あけたドアの
分はカーテンも開放しておく。その気になれば、トランクス姿の男が垣間見られる
わけだ。
しかし、あまり視線が気になったことはない。逆にトランクス一丁の男が窓越し
に都営団地を観察しているとでも思う人がいたかどうか。
エアコンの冷気が嫌いな小生は、夏場は扇風機だけで過ごす事にしていた。玄関
やベランダの窓を開けるといっても、一晩中というわけにもいかない。虫だって入
るし。それに机や箪笥などがあって、外から吹き込む風の恩恵を受けられない死角
もある。
で、特に寝る時など、扇風機を天井や壁などに向けて風をぶつけ、その反射の風
を体に受けるようにして安逸なる就寝の時を持とうとしていたものだ。
そんなある日、ベランダに何か生き物の気配を感じた。まさか、こんな八階のベ
ランダに動物が? 我が部屋のベランダは洗濯機も置けないほどに狭いのだ。しか
も両隣りのベランダからも、それぞれに分離している。
しかし、見ると間違いなく猫なのだ。
やはり、分離しているベランダを越えて、我がベランダヘやってきていると思う
しかない。
しばらく観察していると、その猫の主が分かった。都営団地に向かって右側の部
屋の猫だ。その部屋は、小生の部屋より広めのワンルームで、そこには恐らくは水
商売風の女が住んでいる。
洗濯物を干す彼女に遭遇することがあったのだ。というか、ベランダのドアを思
い切りよく開けるので、その気配で小生が気付く。で、つい、どんな女かと伺って
みようとするわけだ。
しかしながら、一度として彼女の顔を見ることはできなかった。一年以上は、彼
女が居住していたはずなのに。男が時折やってくることも知っているのに。
その女の飼い猫が我がベランダに遊びにやってくるのだ。
しかし、何故、隣りの猫がわざわざやってくるんだろうか。ただの猫らしい気ま
ぐれ?
最初はそのように思ってもみた。しかし、どうやらそうじゃない。その猫は、
どうやら小生が不在の折に小生の部屋に入っているらしいのである。何処から?
無論、ベランダのドアから以外にありえない。小生が不在の時にベランダのドア
が開いているのか? 実はそうなのだ。一応は閉めているのだが、シッカリは閉め
ない。というか、帰った時に部屋が蒸すのが厭で、掌が通る程度には開けて外出す
ることも(しばしば)あったのだ。
それで、猫君は、隣りのベランダから我がベランダに渡り、さらに我が部屋のド
アをこじ開けて我が部屋に入り、さらには…。
そう、小生の推測だが、この猫君は我が部屋の玄関が往々にして開いていること
を知っているのだ。しかも、我輩が部屋に居る時でも、かって知ったる我が家とい
うわけで、こっそり入り込み、開いている玄関から廊下に出ていたらしいのだ。
つまり、猫君は自由を欲していたのだ!
しかし、どうも猫君の様子からすると、それだけでもないようだった。猫君は、
飼い主である女の主人の帰りを首を長くして待っていたのじゃなかろうかと、鈍感
な小生も、ようやく気付いてきたのである。
いくら鈍感な小生でも、他人の家の猫が勝手に部屋を通路代わりに使われるのは
釈然としなかった。それに夜半になって、部屋の中に不意に猫の気配を感じるのは、
少々気味が悪い。トランクス一丁で扇風機の風だけを頼りに暑さを凌いでいた小生
は、ついにある日、決心をした。ベランダのドアは、せめて不在のときは締め切ろ
う、と。
そうすると、今度はわざわざ開けるのが面倒になる。吹き抜ける風という楽しみ
もなくなってしまう。
しかし、気が付くと残暑の時季も過ぎ去っていた。暑さもシャワーを浴びて、裸
のまま扇風機の風を浴びていれば、もう、それで十分な頃になっていたのだ。
時折、ベランダの窓をコリコリする音が聞こえる。猫だ。
でも、小生は、もう、開けてやらない。
何故か。下手に開けると、小生の部屋に入る。入ったはいいけど、さて、入った
ままなのか、それとも出て行ったのか小生には分からないのだ。で、寝るし、ドア
を閉めてしまうのだが、真夜中になって猫の鳴き声がする。猫がベランダの窓ガラ
スをカリカリやっているのだ。
仕方なく起きてドアを開けてやるのだが、いい加減、そんな手間が面倒になる。
ここまで書いて、小生が猫嫌いだと思っている人もいるかもしれない。それが自
分でもよく分からない。小生が田舎に居た頃、隣りの家には三毛猫がいたのだが、
その猫に小生はガキの頃、思いを寄せていた。
でも、その猫は小生を見ると必ず威嚇するような怖い顔をしてフーと小生を牽制
する。ああ、こんなに好きなのに、猫君は小生のこと嫌いなんだ、と、悲しい思い
をしていたことを思い出す。
でも、やっぱり猫が好きなのだ。でも、その隣りからの猫は、何だか不気味に思
われてきた。小生のことなど眼中になく、女の御主人を待って勝手に部屋に侵入し、
通過していく猫。せめて小生に挨拶の一つもあっていいじゃないか、なんて、思っ
たり。
気が付くと秋の気配も濃厚になっていた。ベランダのドアを開ける習慣もすっか
り廃れた。扇風機も、ちょっと邪魔に感じられてきた。
けれど、窓の外に猫が相変わらずやってきているのだけは、知っていた。
でも、もう、開けてやらない。猫の、こんな時だけ示す、懇願するような顔。今
まではすぐに開けてくれたのに、何故、急に開けてくれなくなったの、心変わりで
もしたのという、あどけなさそうな表情。
そんなものには、もう、惑わせられないぞ!
それに、その頃には、小生は猫のことなど構っていられないほど、仕事のことで
悩んでいた。そのストレスが猫にぶつかっていた。といって、何かをするわけじゃ
ない。そう、窓を開けてやらないという、ささやかな意地悪をしてしまったのだ。
それから何ヶ月か経って、久しぶりにベランダの窓を開けた。隣りの住人も引っ
越していったし、もう、猫に悩まされることもないだろうと思ったのだ。
開けて、びっくりだった。なんと、ベランダの床には猫の糞が一杯だったのだ。
小生もストレス一杯だったけど、猫君も辛かったのだなと、少々の感傷を抱いたも
のだった。
02/07/22

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