野原のことなど  

                                             (03/06/15 up)




 もう三十年以上も昔のことになった。我が家を囲む道が砂利道だったり、農道 だったりしていた。まして我が家の庭に車を駐車させるためのコンクリートの敷 地などあるはずもなかった。
 まだ変わらずにあるのは、田圃に面した一角だけだろうか。確かに昔はなかっ た農機具を入れる小屋があったり、敷地の一部が切り取られて人の家の建物が建 っていたりするが、畦道に囲まれた狭い田圃を居間の窓からも望むことができる。
 昔は、田圃が飛び地状態で方々にあったが、今では裏庭に面するこの猫の額も ないような僅かな田圃だけが残っている。それさえも、既に売却されていて我が 家は管理を名目に、細々と田植えの真似を続けているのである。
 そういえば、田圃と裏庭に挟まれるようにして小さな池があった。鯉か何かが 泳いでいた気がするが、記憶違いなのかもしれない。
 裏庭には小生が幼い頃、当時は何処の農家にもあったものだが、ニワトリ小屋 があって、庭先から取ってきたナスやキュウリ、玉葱などと一緒に小屋から卵も 失敬してきて食卓に並んだものだった。
 これは小生がつい先年、知ったことだが、我が家には昔、馬が飼われていたそ うな。表の地蔵堂に面した庭の角に納屋があり、その中には稲藁などが積まれて いるのだけは覚えている。小生は、そうした農作業用の小屋に過ぎないと思い込 んでいたのだが、実はそれは馬小屋だったというわけである。
 その馬に荷車を引かせて、富山(のほぼ真ん中辺り)から高岡にあるお袋の里 まで何度も往復したのだという。そんなことは、全くの初耳で、記憶をどう遡っ てみても、馬の鬣(たてがみ)の毛一本も脳裏に描けない。一度くらいは物心付 くか付かない前に見ているはずなのだが。
 地蔵堂(この地蔵堂も結構、珍しいものだという。今はコンクリート製に建て 替えられているが、当時は雨漏りのしそうな正に古びた小屋だった。何が珍しい かというと、地蔵さんが30体以上も収められていることである。建て替えの前 は、その木造の地蔵堂は我が家の庭に向っていたが、新装なった時には、何故か 向きが変わり、我が家の対面にある地元で一番のお金持ちの家に面するようにな った。その時は、我が家の家運が傾いたような気がして、ちょっと悲しかったこ とを覚えている)からそれほど離れない一角には農道に面して肥溜めがあったの は、何故か鮮明に覚えている。
 家の北の角にあるトイレの肥溜めから汲み取って、その一坪ほどの肥溜めに移 し替える。そして、必要に応じて肥桶に汲み、畑などに撒くお袋の姿を、これは 辛うじて覚えている。
 やがて農道に面した肥溜めは潰され、今は松や椰子などが植えられ大きく育っ ている。といって、トイレが水洗に変わったわけではなく、定期的に汲み取り屋 さんが肥溜めのなにをトラックで汲み取りに来る。
 その時ばかりは、芳しい臭いが辺り一面に漂うのだ。トイレが水洗に変わった のは小生が学生時代のことだったか。その頃までには、土間も使われなくなり、 やがてさらに土間もなくなって今では父と母の寝室となっている。その土間で、 脱穀やら、大晦日の前には近所の知り合いが集まって石臼で餅つきをしたり、祝 い事があると、赤飯をたっぷりと炊いたり、若き日の父と母が汗水を垂らし、様 々な作業に精を出した場所だったのだ。
 表の庭には農道に面して蔵があった。その中には幾度となく入った記憶がある。 遠い昔、ほとんど初めて入った頃、めったに登らない蔵の二階を覗く機会があっ た。そこには長持やら御膳やら箪笥やら、恐らくは父の父の代からの残り物が収 められていたようだ。
 悲しいことに、富山の大空襲で我が家も燃えたので、古くからの伝わりものは 父はほとんど受け継ぐことができなかったのである。
 その蔵の壁は、当然、藁の茎の混じった土壁で、よく見ると、壁が何箇所も抉 れている。聞くと、それはアメリカ軍の飛行機による機銃掃射の弾痕の跡だとい う。父も掃射の雨のちょうど谷間になって、命からがら助かったと聞いた。戦火 の中、なんとか田圃の外れに持ち出した什器類も、やはり戦火を免れることはで きなかったとか。
 その蔵も小生が学生時代だったか壁だけは綺麗に生まれ変わって、弾痕の跡も 見られるはずもない。

 さて、小生は別に我が家の思い出を語ろうというわけではなかった。語りたか ったのは、野原に生えるススキのことだった。小生がガキの頃は、まだ空き地が 方々にあり、我が家からちょっと歩けば防空壕もあり、戦火による残骸が散らば ったままの場所もあった。我が家から十分ほど離れた場所には大学の薬学部(薬 学専門部=略して薬専=ヤクセンと呼ばれていた)の跡地があった。ここは子ど もには謎の一角、秘密に満ちた不気味な領域でもあった。敷地は既に雑草が茫々 と生えているばかりだったが、実は未だヤクセンの建物が朽ちたままに残ってい たのである。
 小生は臆病者でその中にはとうとう、足を踏み入れることができなかった。学 校でも、その敷地へは勝手に入り込むんじゃないと指導されていた。小生はその 指導に素直に従っていたのである。
 ところが、或る日、学校の同じクラスのNという奴が、朽ち果てた建物に残っ ていた窓ガラスを全て石で割ってしまったと聞いた。なんて豪傑がいるんだと驚 いたものだ。
 別の機会に同じ学年の子どもが全員、体育館に集められ、縄跳びを連続して一 番長く誰が飛び続けられるかを競われたことがある。その時、一人一人と脱落し て、体育館の床に坐るのだが、最後にとうとう二人だけ残った形になった。その 話題の奴と、もう一人は誰だったか覚えていない。
 Nも、とうとう力尽き、座り込んだ。もう一人の奴もNの奴が座り込んだのを 横目で見て、縄跳びを止め、座り込んだ。すると、Nは、もう一度立ち上がって、 ビュンビュンと数回跳んで、それから座り直したのである。
 なんて野郎だと、子ども心に、Nが英雄に見えたものだった。



 
                                 キンエノコロ   by kei



 そのヤクセンの敷地は結構、広くて、ススキだったかの野原になっていた。他 にも方々に空き地や野原があって、そこには決まったようにタンポポかススキが 咲き誇っているのだった。
 しかし、今、思い起こしてみると、ススキだと思っていたのは、実は、何か別 の種類の植物だったように思える。というのは、たまたまネットで稲穂などの画 像を検索していたら、イネ科の仲間の植物で、キンエノコロとかムラサキエノコ ログサ、アキノエノコログサなどと、小生が見ていたような植物がいろいろ見つ かったのである:
 http://zu.pro.tok2.com/yasou/tya/kinenokoro.htm
(上記のサイトの中の「「エノコログサ」のお話」は面白いので、チラッと覗い てみてもいいかも)
 下記のサイトによると、キンエノコロとは、「金色の穂のエノコログサの意味」 だとか:
 http://www.tcp-ip.or.jp/~jswc3242/064.html
 何処か猫じゃらしに似た(キン)エノコロなどを小生は勝手にススキと呼んで いたのだと今になって気が付いた。
 ススキ(薄)というのは、下記のような植物を言う。みんな、知っているんだ ろうけど、植物に(も)疎い、小生は、似たような植物を一緒くたにしてススキ と呼んでいたのである:
 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/susuki.html
 http://tabinosora.sunnyday.jp/season/susuki/
 ススキやキンエノコロというのは雑草なのだろうか。野原に咲く植物は、野草 とは呼ぶけれど雑草とは思われていないような気がする。タンポポは雑草なのか。  野草と雑草はどう違うのだろう。野原に咲くから野草で、道路の周辺、畑や庭 に望まれないのに咲くのが雑草なのか。つまり生活圏の外の野原などに咲くと野 草で、人の生活圏を侵害する植物が雑草なのだろうか。だとしたら、たまにブロ ック塀の脇などにススキなどが生えていることがあるが、その場合は野草ではな く雑草の扱いになるのだろうか。
 まあ、そんなことは今はいい。我が家の周りも農道も含め、コンクリート舗装 され土の部分が田圃や僅かな庭以外にはほとんどなくなった。狭い畑があるから、 その敷地には雑草が生えて家の者を困らせる。
 ただ、田圃に農薬を撒く如く、庭や畑にも雑草の駆除剤が散布されたりする。 たくましいと勝手に思われている雑草は、蝶やトンボも昆虫もホタルもいない、 生命感の欠落した、死の気配が漂うような厳しい環境下に懸命に生き延びている のだ。
 いずれにしても、我が家の近所にススキの原も何も残ってはいない。近所のガ キ連中で遊び回った土の世界が消えてしまった。健気な雑草がなんとか余命をつ ないでいるだけなのである。ちょっと寂しい気がするが、これも時代ということ なのだろうか。


                                          03/06/14 05:52


[文中の挿絵は、小生がネットでたまたま見つけたHT Nature's Paradiseの土田さんのサイト所収のキンエノコロの写真を元に kei さん描いてもらったものです。土田さん、そして kei さん、ありがとう! (03/06/15 記)]