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田舎の我が家の前には地蔵堂があり、その中には記憶では33体のお地蔵様が 祀られてある。33体という数は曖昧である。子供の頃に父か母に、それだけの 数の地蔵さんが安置されてあると聞いただけで、その頃は、ふん、そう、で終わ っていた。 お地蔵さんの数がこれだけ揃っているのは珍しいのだ、とも、その時に聞いた ような気がするが、関心のないガキの耳は素通りするばかりだった。 もう、十年以上の昔、古い木造の地蔵堂は改築されてコンクリート製の立派な ものになった。その際、地蔵堂の向きも、それまでは我が家に直面していたのが K家に正対する向きに変わった。 老朽化の故に改築するのは分かるとして、何故、向きまで変わったのだろうか。 地元の富豪で、蔵が三つあるK家の威光なのだろうか。それとも、単に、我が家 と地蔵堂の間の道が狭く(車は擦れ違えない)、それに対し、K家と現行の地蔵 堂の間の道のほうが、やや広く、車の通行量も人通りも多いからなのだろうか。 恐らくは後者の理由によるものなのだろう。堂の立派さより、向きが変わった ことに、なんとなく我が家の没落(小生のような不肖の息子が出たため?!)を 象徴するようで、改築なった地蔵堂を帰省した際に眺めて、訳もなく僻んでみた りしたものだった。 理由はどうあれ、そんなに安易に向きを変えていいものなのだろうか。我が家 (西)に向いて地蔵堂が建てられてあったのにも、謂れがあったのではないのか。 西方浄土とも言うではないか。当初の地蔵堂の設置の事情の知らない小生には、 何も言えないのが歯痒い。 それにしても、(33体かどうかは別にして)あれだけ多数の地蔵さんが祀ら れてあるというのは、やはり凄い、とは思う。何かの事情(洪水、道路の改修そ の他)があって、地元に散在していたお地蔵さんが集められ祀られたのだろうか。 お地蔵さんではなく、地蔵と称した場合は、地蔵菩薩の略だという。広辞苑で の説明の一部を引用すると、「釈尊の入滅後、弥勒仏の出生するまでの間、無仏 の世界に住して六道の衆生を教化・救済するという菩薩。(略)日本では平安時 代より盛んに尊信される」とある。 広辞苑で「お地蔵さん」ないし「お地蔵様」で引いても、該当項目なしである。 やはり、お地蔵さんというのは地蔵であり、地蔵菩薩の略と考えるしかないのか。 けれど、単なる略ではなく、簡略化されると同時に、庶民性が高まったとは言 えるような気がする。 多くのお地蔵さんは、道端にあり、風雨に晒されたままであり、よくても、簡 易な木の屋根が施されているだけである。石に彫られた顔も、優しげであり、子 供の表情を思わせる。 あるいは、本当に子供を模しているのかもしれない。 小生は田舎を離れて久しい。もう、三十年になる。子供の頃の風習がどのよう だったかは、大概、朧である。 小生が田舎にいた頃、すでに朽ち始めていた地蔵堂で、年に一度は祭りのよう なものが開かれていたような気がするが、あるいは夏祭りと混同しているのかも しれない。 京都では、「地蔵盆」が盛んだと聞く: http://www50.tok2.com/home/myunclek/jizo.htm 富山にも「地蔵盆」のような風習があったものかどうか、小生は知らない。 富山の地蔵さん、ということで、例えば下記のサイトを見てみると、やはり富 山の一部にも地蔵盆の風習があったようである: http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/tomiyama/HISTORY/book/intro_ojizou. htm 但し、地蔵盆というと、やはり京都やその周辺をメインにするようだ。下記の サイトの説明を引用させてもらうと、 「道祖神と地蔵」(大島建彦著・三弥井書店刊)によると、「関西方面の 事例としては、京都の市中やその周辺で、八月二十三日の前後に、いわゆ る地蔵盆の行事をおこなうことが思いおこされる。」とあります。一方で、 「群馬県の前橋・高崎両市から、榛名の山麓の一帯にかけて、月遅れの盆 の八月の間に、こどもや若者の仲間が、堤燈や万燈などをつらね、鉦や太 鼓などではやして、和讃や念仏をとなえながら、地蔵の像をかついで、村 中の家々をまわりあるくことが知られている」と、関東でも盆時期に地蔵 に関する祭事が行われている(以下、略) http://www2g.biglobe.ne.jp/~gomma/tayori.html それにしても、富山は文化圏としては、関西のような関東のような曖昧な領域 である。富山平野の真ん中に呉羽山(小高い山の連なり)があり、その西側が関 西圏であり、東側は関東圏(少なくとも関西圏からは外れがち。というより見放 されがち)だったりすることが多い。 小生の住むのは呉羽の東側(これを呉東=ごとう、と称する)であり、関西圏 には入らない(但しお袋は高岡の出身で関西圏。父は生粋の呉東の人間である)。 呉羽山を境に文化圏が富山でも分かれるのは、呉羽山の西側は加賀・前田家の領 地であり、東側は前田家でも支流の家の領地で、文化的にも経済的にも困窮し、 そもそも文化的な僻地だった。それゆえに実利的な気風が育まれた(なのに小生 が能天気なのは、何故なのだ!) それでも、呉東(ごとう)が時に、関西圏の文化の余沢を受けているのは、余 沢というより、大きくは、富山(の東部であっても)が糸魚川の西側に入るから に過ぎないのかもしれない。 つまり、日本の文化圏は、糸魚川ー静岡構造線で大きく東西に二分されると古 来より言われてきたが、その意味で、富山の東側という富山の中でも文化的に僻 地であっても、大まかには、関西圏にかろうじて入るということなのだろう。 なかなか事情は複雑である。 ついでながら、糸魚川ー静岡構造線を辿ると、 糸魚川(新潟県)から松本盆 地、諏訪盆地、甲府盆地を通り、富士山の西側を経て相模湾へ達する。天下分け 目の戦いのあった関が原も、この構造線に近いのは偶然ではないのだろう。 小生のアテにならない記憶を辿ると、小生も、ガキの頃、今はなき木造の地蔵 堂の前で近所の人たちが集まっていたような気がする。 で、お地蔵さんたちに供えられた砂糖菓子の類い(主に落雁だったと思う)を お下がりとして貰ったような気がするのだ。さすがに子供として参加できたのは 小学校の頃までだったような。中学や高校の頃には、その風習が廃れたのか、そ れとも、自分が生意気になって無視していたのか、ハッキリしない。 上掲のサイトの説明にあるように、「目を半眼に開いているのは、生きている 人だけでなく、死んだ人の悩みまでも聞いてくださるためということです。子供 が死ぬと、その子が使っていたよだれ掛けをお地蔵様にかけ「この子に代わって 地獄の苦しみに耐えてください。」とお願い」するのが地蔵盆の趣旨のようだが、 地蔵盆の有無の記憶さえ朧な小生には、当時、ただ御菓子目当てに参加していた ような意識しかなかったのだろうし、だから、記憶も曖昧になるのも無理はない のだ。 お地蔵様は、どのような機会に刻まれ路傍に安置されるのだろうか。 お地蔵さんの多い場所は、きっと理由はともかく、非業の死を遂げる人の数が 多かったことを意味するのかもしれない。 小生の郷里である富山(の東部)も、昔は、土地が荒れて貧しかったようだ。 常願寺川や神通川など暴れ川が多かったせいもある。今、富山が米どころと見な されているのが夢のようだ(治水がされるまでの度々の洪水で土壌が豊かになっ たとも考えられるわけで、誠に皮肉な話である)。しかも、やっと取れた米など の収穫も、豊かな県の西部や前田家の本家(加賀とか金沢とか)に、みすみす持 ち去られていく。 子供ならずとも、貧しさの故に悲しい死を遂げることが多かったのも当然の話 である。 お地蔵様の表情は優しい。それは初めから優しい表情を石に刻まれるからなの だろうか。それとも、最初は悟りめいた厳かな表情を刻まれていても、風雨に晒 され穿たれて歳月を経るうちに、表情の稜線の輪郭も柔らかになり、結果として 幼児めいた、何処か悲しい表情を示すようになったのだろうか。 地蔵様については、語るべきことがあまりに多い。既に地蔵という場合、地蔵 菩薩の略だと説明したが、しかしお気づきのように、お地蔵様と親しみを篭めて 呼ぶ場合は、地蔵菩薩の略そのものかどうかに関しては、曖昧なままに通過した。 一説によると、地蔵の地は、大地であり、蔵というのは、母胎を意味するとか: http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/2338/020318.htm やはり、お地蔵様というのは、上記のサイトにもあるように、「水子供養に深 く関わる」ものなのだ。あの、赤い涎掛けを見るだけでも、察するのが当然なの である。昔は、心ならずも水子となった赤子が如何に多かったことか。親は泣く 泣く子供を見送ったのだ。 だからこそ、地蔵様が日本各地の路傍に無数に佇んでいるのだ。 現実には、現代においても水子は多い。若い人にも中絶するケースが多いとい う。また、結婚していても、育てるのは困難だとかの理由で闇に流されることが 多いとも言う。 けれど現代においては、水子地蔵を殊更に作り祀ることなどない(のだろう)。 あるいは密かに心の中で地蔵さんを作って一人参っているのかもしれないが、そ の点、昔は、石に刻んでまで気持ちを示したのだ。 どちらがどうと言う必要もない。ただ、哀れである。合掌するしかないのだ。 03/01/12 05:40 お地蔵さん(レス1)仲江太陽さん、こんにちは。 コメントをありがとう。 早速、地蔵盆に纏わるエッセイも読ませてもらいました。小生は高校を卒業し て田舎を出てしまい、田舎の風習には縁が薄くなりました。盆や正月には必ず帰 るのですが、夏の祭りの時期にも5月の祭りの時期にも遭わないので、地元の集 まりに無縁な帰省でしかないのです。 きっと、我が家の前の地蔵堂でも、8月の終わりには何かやっているのでしょ うが、何も知らない…。「お地蔵さん」という一文も、ほとんど田舎にご無沙汰 していることのお詫びのつもりで書いているような。 スローフードの時代だとか。生活のほうも、スローライフとなるのでしょうか。 技術の進展や街の発展は結構なのですが、身の丈に合ったスピードが大切のよう な。 余談ですが、近いうちに小生のホムペに「お地蔵さん」を載せるので、その際、 仲江太陽さんのエッセイも紹介させてもらいたいのですが、って、こんな願い事 はここに書くことじゃなかったかな。 では、また。 03/01/12 18:24 以下は仲江太陽さんの地蔵盆を巡る素敵なエッセイです。題して、 「夏の終わりは地蔵盆」 これはWeb Magazine である 『GAJIN』にて掲載された文章です。 季刊Web Magazine『GAJIN』のホームサイトアドレスは ここです。 (03/01/14追記) お地蔵さん(レス2)Kさん、こんにちは。 コメントをありがとう。 またまた、知見をいろいろ与えてもらいました。というより、戴いたコメント のほとんどが勉強になることばかり。 特に、「水子地蔵の石像をお寺に納めることは、現代においても、かなり盛ん に行われており、それを専門の商売のようにやっているお寺や石材店などが」あ るというのは、複雑な気持ちにさせます。時代に関係なく、水子地蔵の風習が続 いている、そしてそれが商売として行われているのですね。 それにしても、何故、地蔵菩薩だけが、このように突出した形で、しかも「質 素で親しみやすい」土俗的な形で民間の間に広まったのでしょうか。円空上人が 彫った木彫りの地蔵などが影響しているのでしょうか。 ところで、小生は、あるサイトの一文を引用して、「地蔵の地は、大地であり、 蔵というのは、母胎を意味する」と書きましたが、この点のしっかりした確認が できていません。 何か御存知でしたら、お教え願いたいと思います。 最後に、Kさんは、ご自身を「どちらかと言えば唯物主義的な人間」と評さ れていますが、だとしたら小生は、自分を規定するなら、どちらかといえば即物 的な人間ということになるかもしれません。 信心が深ければ、長々とお地蔵さんのことを調べて書いたりせず、お祈りの一 つもするのでしょうから。 では、また。 03/01/12 18:10 ところで、表題のエッセイを書いたあと、「地蔵の地は、大地であり、蔵という のは、母胎を意味する」という点の確認がしたくて、ネットを検索したところ、 下記のようなサイトが見つかった。さすがに専門家の手になるもので懇切丁寧で あり、しかも分かりやすい: お地蔵さまのお話 この文章を最初から読んでいたら、「お地蔵さん」なんてエッセイは書かなか っただろう。比較されると技量や素養の差が明らかで、小生としては辛いものがあ る。ま、仕方ないか。 (03/01/14追記) |