古川通泰のこと(他二篇)  


                                           
(04/05/30 up)



1.古川通泰のこと  

2.雄山神社の遷宮のこと  
3.斎藤真一のこと  





1.古川通泰のこと  






『とやま裏方反省記』(奥野達夫編著、柏書房刊)を捲っていたら、「きつね火 まつりと七匹のきつね」と題された一文が目を引いた。というより、「古川通泰 氏の絵を飾った、町の中心部を「きつね火まつり」の行列が進む。この夜、町が 立体ギャラリーに化ける」とキャプションの入った写真に目が行ったというべき かもしれない。
 きつねを想わせる化粧を施す様子や、化粧し終え、実際に町中を花嫁・花婿ら の一行が歩く様子を写した写真が掲載されている。どうやら、平成二年から始め られた「きつね火まつり」が、「飛騨古川・秋の風物詩」として、定着してきた という内容の記事のようである。
 このイベントにも、アイデア作りなどの上で、福光美術館長であり、デザイン や広告の世界でも有名な奥野達夫氏が関わっているようだ。
 ここで小生の気を一番、惹いたのは、古川通泰氏の絵という一点。
 小生、絵のことになると、好奇心が湧く。早く、古川通泰氏の絵を見たいと、 早速、ネット検索。
 幸い、彼を扱うサイトをヒットした:
 http://www.success21.com/furukawa/
 このサイトを見ると、古川通泰氏と古川歩(あゆみ)氏の連名のサイトとなっ ている。どうやら、二人は父子のようである。父・古川通泰氏は絵画(油彩)、 古川歩(あゆみ)氏は、陶作品で活躍されているらしい。
 まず、古川通泰氏は絵画(屏風)作品を見てみる:
 http://www.success21.com/furukawa/michiyasu/work/michiyasu1.htm 
 あるいは、油彩作品を:
 http://www.success21.com/furukawa/michiyasu/work/michiyasu2.htm

 なんだか、強烈な個性を感じる。興味が湧いたので、彼等のことをネット上に て調べてみることにした。
 二人は、富山県八尾町の山奥にある旧桐谷小学校をアトリエ(歩は校舎、通泰 は講堂)にして創作活動をされている:
 http://www.success21.com/furukawa/atolie/atolie.htm
 小生は、二人の名前を初めて知ったほどで、何も知らない。とりあえず、どの ように紹介されているかをネットで調べてみた。
 下記サイトによると、雪国北陸の風土性豊かな懐かしい世界が彼の作品の世界 を現すキーワードのようだ。
 また、童画風のもの、装飾画、半抽象画と、手法もさまざまのようである。
 さらに、同サイトによると、「古川の絵画世界のもう一つの魅力は、太陽や山、 木々を図案化し、赤,青、金色などの明快な色彩で構成した作品。大胆華麗さを 集大成の形で、屏風2点を披露した。別に、数点のモノクロに近い半抽象画は、北 陸の暗い風土を思わせる作者の心象風景をかいま見せる」とある:
 http://21st.c-art-city.com/gallery/back01.html

 古川歩氏の「Clay World」を:
 http://www.success21.com/furukawa/ayumi/work/ayumi3.htm
 http://www.success21.com/furukawa/ayumi/work/ayumi1.htm
 下記サイトによると、古川歩氏の作品に付された、「織部風の緑の色彩と、力 感のある独特の造形が魅力的で、「釉薬は"うなぎ屋のタレ"みたいなもの、基本 となるベースを造って、それに色、鉱物を足していく」。その"うなぎ屋のタレ" がミソで、植物の灰やら何やら、企業秘密も少々。」というコメントが面白い:
 http://21st.c-art-city.com/gallery/back17.html

   古川通泰氏の世界は、どうやら、郷土色というか風土性が濃厚の世界のようだ。 解像度の低いパソコン画面での印象しか語れないが、油彩作品についていうと、 画面からは、例えば、古川歩氏の陶作品に油絵具を塗り、画布に転写したような、 あるザラザラ感、手触り感を覚える。
 それは、古川氏が創作活動をされている、おわら風の盆で有名な越中八尾の風 土が土台にあるからなのだろうか。実際には、富山県は高岡市で生まれた方なの だが。生まれ育った町(村?)の風土などを知りたいものだ。
 例えば、古川通泰氏の「桐谷日記U」などを見ると、小生の好きな「人質」シ リーズで有名なアンフォルメルの画家ジャン・フォートリエ(1898〜1964)をす ぐさま連想した:
 http://kmma.jp/collect/artists/fautrier_j.html
 あるいは、大袈裟かもしれないが、ジャン・デュビュッフェを想ったりもする。 恐らく、こんな連想を聞くと、もっと地に足の着いた作風なのだと言って、古川 通泰氏自身は笑うかもしれない。
「村の祭りT」を見れば、昔日の村祭りの思い出が、何十年も経て、不意に或る 日夢の中に蘇ってしまったような、闇の濃さと夕焼けの紅さと、ぽっかり浮かぶ 月影の非現実感とが印象的である。脳裏に刻まれた世界が時間的隔たりなどを無 視して直截に今、現出したかのようだ。
「村の祭りU」も鮮烈な世界だが、それでも、<理解>は可能かもしれない。
 しかし、「僕の里」や「里」「僕の里U」となると、一体、どういう世界なの だろう。グローバリゼーションとか、インターナショナルなんて言葉が軽く感じ られてしまう土臭さがある。昭和が遠くなり、21世紀の今日に我々があることを 忘れさせてしまう。江戸や平安の時代も一気に飛んで、縄文時代の思い出が陶器 の肌触りの感覚もさながらに蘇ったかのようである。
 村の民の生きていた日々が時の経過に風化することなく生き延びる。そのため には溶けることのない深い雪に降り込められ、凍て付く大地に凍え、思い出の命 が一度は封印される必要があった。そうして初めて思い出は陶器の肌と見紛うよ うな永遠へと固着される。
 土を裸足で踏む懐かしい感覚。
 北陸の暗い風土というのは、見当違いも甚だしい。北国の風土に沁みる風景と は、時の風化に擦り切れることのない日の光への意志に裏打ちされた世界なので はなかろうか。人が集い合い、寄り添い合う、そんな懐かしい世界が現出してい る永遠の今の掛け替えのなさを愛でる意志に満ちた世界なのではないか。
 そんな思いに駆られてしまう作品世界なのだった。
04/05/20 記





2.雄山神社の遷宮のこと  





 古来より幾つかの(多くの?)神社で遷宮の儀が行われている。例えば、住吉 大社の式年遷宮は、興福寺略年代記に住吉社遷宮の初見があり(749年)、786年 第2回以降も多少の中断はありつつも、20年毎の間隔で今日まで続いている:
 http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/history.html
 遷宮が行われる目的は、本殿の建て替えが目的だとか、建築などの技術を伝承 していくためだと言われているようである。住吉大社の「本殿の改修では、特に 丹塗りや桧皮葺が重要で、ヒノキの樹皮を加工した桧皮 (ひはだ) で屋根を葺」 くのだとか。
 建て替えが目的だという説に、建築に素人の小生が口を挟むのもおこがましい が、素直には受け取れない。建物の耐用年数がそんなに短いとは俄かには信じら れないからだ。やはり、建築技術の伝承が目的なのかと思われる。
 尤も、台風や火事などの自然災害の影響などは別儀だが。
 念のために断っておくと、遷宮というのは、意味的に、神殿の造営に伴い、御 神体を遷す事を言うわけで、直接には建物の移動を指すわけではない。
 式年遷宮というと、伊勢神宮の遷宮も知られている:
 http://www.ne.jp/asahi/takeyama/a.a/woodf/kohama/kohama1.html

 「伊勢神宮では、平成5年10月に第61回の式年遷宮が行われました」が、 その用材は、加子母村などの森林を伐採するのだとか。
 また、「1回の遷宮に必要なヒノキ材は約1万m3で、本数にして約1万3千本 程度です。最大のものは樹齢450年以上を経た直径130cmの巨木が用いられ」 るとか:
   http://www.vill.kashimo.gifu.jp/fureai/sanrin/jingu.htm

 その他、香取神社、鹿島神宮、賀茂社の式年遷宮なども有名である。過年、巨 大な本殿跡の見つかった出雲大社の遷宮もマスコミで採り上げられる。過去、本 殿造営に当っては、出雲国造が知恵を絞ったと言う:
 http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/taisya/nazo4.html

 さて柄にもなく小生が式年遷宮という話題に言及するのは、富山は立山にある 雄山神社にて、約十年前、136年ぶりに遷宮式が復活したことを、我が富山のこ とながら、迂闊にもこの程、初めて知ったからである。
 調べてみると、どうやら、「月刊 富山写真館 万華鏡」という小冊子の記事 が発端となっていたらしい:
 http://toyama.shiminjuku.com/general/00000302/0/mangekyo.html
 つまり、『万華鏡・創刊号「立山神殿」』にて、「山岳信仰の象徴である立山 神殿(雄山神社峰本社)が、かつて約20年ごとに遷宮されていたことが紹介さ れ、読者から遷宮待望論が起こり、平成7年9月136年ぶりに遷宮が行われた」 というわけである。
 この冊子を創刊した富山市在住の写真家・風間耕司氏と編集者・岡田順一氏が 設立した「ふるさと開発研究所」は、1997年にサントリー文化財団によりサ ントリー地域文化賞を受けている:
 http://www.suntory.co.jp/sfnd/chiikibunka/chubu0026.html

   日本三霊山の一つ立山の頂上に立つ雄山神社の峰本社が、岩頭に鎮座する光景 は、なかなかのものがある:
 http://www.oyamajinja.org/chojo_001.htm
 もっと近くからの光景は下記を(このサイトでは、落差日本一の称名滝の画像 も見ることが出来る):
 http://www3.justnet.ne.jp/~n.ohta/ALPEN.htm
「冬季の間、参拝が困難なことから山麓に祈願殿、登山口に前立社檀を設け年中 の諸祭礼が行われてきた」という:
 http://freetime.zive.net/kami/area04/oyama.html
 下記サイトで、「雄山神社峰本社遷宮祭」の様子をビデオで見ることができる:
 http://www5.tkc.pref.toyama.jp/MMDB/mda/000/000/078/53000.asx
04/05/20 記





3.斎藤真一のこと  





 古川通泰の油彩を見て、ある画家の絵をふと思い浮かべたのだが、すぐには名 前を思い出せなかった。昨日一日、仕事をしながら、誰だったろうと、折に触れ て脳裏を巡らしていた。そして、やっと分かった。
 そうだ、斎藤真一だ。但し、連想であって、世界が似ているかどうかは、朧な 記憶のせいもあり、定かではなかった。
 ここ久しく彼の作品に触れていない。というか、そもそも直接、彼の絵画作品 を目にしたこともない。脳裏に残っているのは、実は、ある小説作品の挿画や本 の表紙に使われていた彼の作品の数々…、と、ここまで書いて、そうだ、小冊子 の形の彼の画集を遠い昔、入手したことがあったことをやや朧気にだが思い出さ れてきた…。
 今となっては知る人ぞ知るなのだろうか。それとも根強いファンがいるのだろ うか。早速、ネット検索。
 まず、斎藤真一の作品の幾つかを見てもらいたい:
 http://www.oida-art.com/saito_sin/
『ラマンチャの陽』を見れば、あるいは『紅い陽の村』を見れば、(絵画に疎い) 小生が、微かな記憶を頼りにだとして、古川通泰の油彩を見て、ふと、斎藤真一 の作品を連想しても、無理からぬものがあると思ってもらえると思う。
 が、さすがに、『赤い舞台』となると、まして、『西頸城の旅』や『赤い道』 となると、似て非なる世界を斎藤真一が追求し描き続けたことが分かってくる。  初見の人も、彼の画を見て分かるように、暗い画風が漂っている。その世界と はどんな世界か。
 次に下記のサイトを見てもらいたい:
「財団法人出羽桜美術館分館 斎藤真一心の美術館」
 http://www.dewazakura.co.jp/saito.htm
「二本木の雪」という素晴らしい作品に出逢えたことだろう。
 また、以下のような斎藤真一自身の言葉にも出会える:

 人間は、哀しみを抱えて生きている。
 素朴にものを見つめると、この世に存在するということすら涙するほど  愛しいものです。
 花は傷つき散って行くが故に美しいのだと想います。
 私は絵かきだが、表面だけの奇麗事より、生命の哀しさと喜び、そして、  尊さを一歩でも掘り下げて内なるものを見たいと何時も思っています。

 彼は、1922(大正11)年、岡山県に生まれた。「尺八の大師範を父にもち、幼少 の頃より芝居、浄瑠璃、浪曲といった日本古来の芸能に興味をもつ」というプロ フィール冒頭の記事が目を引く。「岸田劉生の作風に惹かれてデッサンの勉強に 励」み、「1959年、パリ留学」。留学中に藤田嗣治に知遇を得たことが転機の一 つになったようだ。
 下記のサイトを見ると、それを実感できる:
「没後10年 特別展斎藤真一 初期名作展<第11回遺作展>」
 http://www.shinobazu.com/exhib/0309-02.htm
 「風車(オランダ)」(1959)、あるいは)「巴里の窓」(1959)などは、如 実に藤田嗣治風に思える。が、その前の「公園風景」(1958)を見ると、後の斎 藤真一の画風の面影を読み取るのは、必ずしも深読みとは言えないと感じる。
 彼も揺れていた、迷っていたのだろう。
 それにしても、「河畔に佇む乙女」(1963)は不思議な画風だ。アンリ・ルソ ーのような、しかし、自分の行末を見出しかねているような、一度見ると印象に 残る作品だと感じる。
 やがて彼は「帰国後、津軽三味線の音色にひかれ、東北地方を旅するうち瞽女 (ごぜ)を知る」ようになり、「1960年代から70年代にかけて津軽、北陸を旅して、 盲目の旅芸人「瞽女」(ごぜ)に出会い、その後の彼の大きなテーマの一つとなっ た《瞽女》シリーズを手掛ける」わけである。
 あるいは、瞽女を知ったというより、女を知ったのかもしれない。
 まさに、斎藤真一が斎藤真一たる世界を見出し表現していくわけである:
 http://www.shinobazu.com/webten2003/1-02saito.htm
 これは、あくまで小生の憶測に過ぎないのだが、斎藤真一は、パリ留学の際に 出会った藤田嗣治の強烈な個性と才能に圧倒されるものを感じたのではなかろう か。藤田嗣治の画風に影響を被るしかない自分に愕然としたのではなかろうか。
 帰国が、悄然たるものだったのかどうかは分からないが、やがて東北や北陸地 方を旅して回るというのも、まさに自分探しの旅だったのだろうか。その際に、 彼は己の出自を考えたのではないかと思う。同時に、プロフィール冒頭の記事に あるように、日本古来の芸能を改めて<発見>したのではないかと思う。
 画家・斎藤真一を知らなくても、映画好きならば、彼の『吉原炎上』『明治吉 原細見記』を原作にした映画『吉原炎上』(五社英雄監督作品)を見たことがあ る人はいるかもしれない。小生も観ている。但し、その際、原作が斎藤真一だと 認識していたかどうかは記憶に定かではない。情ないことである:
 http://www.movie-circus.jp/contents/00001564.html

 さて、翻って古川通泰のことである。もう一度、彼の油彩作品の数々を観ても らおう:
 http://www.success21.com/furukawa/michiyasu/work/michiyasu2.htm
 確固とした個性を感得する。敢えて、何かしら物足りないものを言うなら、テ ーマ性ということになるのだろうか。斎藤真一の見出した盲目の旅芸人「瞽女」 (ごぜ)に相当するような、風土(郷土)の風景の先に(あるいは後に)ある敢え て見出し描かなければ消えゆくしかない世界を象徴する具体的な何かをもう一歩 踏み込んで描いていってほしいと思ってしまう。
 絵を見る者、特に小生のような、審美眼よりテーマ性といった類いへの好奇心 が先に立つものは我が侭なのである。
04/05/22 記