アウトサイダー・アートのその先に(付:続編)  

 
[ 最近、続編で紹介している服部正著の『アウトサイダー・アート』をダブって買ってしまった。僅か半年前に購入し読了していたのに。題材が小生の関心のある世界でもあるし、昨年の10月に読了した上掲書を再読したのである。掲示板にて最近、アール・ブリュットとは何かと問われたという事情もあり、メルマガにて公表したアウトサイダー・アートに関連する本稿をHPにアップすることにしたのである。(04/02/08 up) ]





アウトサイダー・アートのその先に  







 今更、アウトサイダー・アートについての説明を小生などが行う必要もないだ ろう。少しでも関心のある人なら、相当程度に知っているだろうし、興味のない 方には、一瞥もしないでその世界の前を通り過ぎていくだけだろうし。
 念のため、アウトサイダー・アートを扱っているサイトを紹介しておく:
 http://www.infoseek.livedoor.com/~outsiderart/
 その中で、まさに「アウトサイダーアートとは何か?」が説明されている。
 一言で言うと、フランスの画家ジャン・デュビュッフェにより作られた「フラ ンス語「アール・ブリュット(Art Brut)」を、イギリスの著述家ロジャー・カ ーディナルが英語に置き換えたもの」ということになろうか。

(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。
(2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であ ること。(他者への公開を目的としなければ、さらに望ましい)
  (3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受け ていないこと。

 ところで、微妙なのは、同サイトでも触れられているように、背景には、知的 障害者による<創造>の世界が深く関わっている。
 但し、大急ぎで断っておかなければならないのは、アウトサイダーアート=ア ール・ブリュットは、決して知的障害者の創造した世界とイコールではないとい うことだ。
 そうではなく、多くの画家等がジャン・デュビュッフェ等により収集された知 的障害者等の作品に驚倒されたのだが、それは、印象派であろうと何だろうと、 既成の価値観からは外れた世界を生き生きと示されたからだ。
 これまで数多くの芸術家等により、あるいは世界のさまざまな地域や伝統を背 景にして、多様な芸術の世界が切り拓かれてきた。その全貌を知るのは無理なの だろうし、当然、その既成の作品の中にも専門家でも未知の作品が、美術館など に、あるいは私蔵(死蔵)の形で存在していることは否定できない。
 が、そうした当たり前のことを考慮に入れて、尚、既成の芸術作品の世界の枠 組みや型には到底、嵌りそうにない表現世界がありうることを、しかも、実際に あるのだということを、多くは知的障害者等が、一切の過去の知識などの柵(し がらみ)に左右されない形で、示してきたのだし、恐らくは現に今も示しつつあ るのに違いないのである。
 パウル・クレーもジョアン・ミロも、フォートリエもジャン・デュビュッフェ も、フランシス・ベーコンもヴォルスも、ピカソさえも、想像しえなかった世界 が<創造>されている。
 世界はいかに豊穣なるものなのかと、彼ら知的障害者等の作品を見ると、つく づくと感じさせられる。逆に言うと、いかに狭苦しい価値観の中に閉じ篭ってい るかをまざまざと思い知らされるのだ。
 知的障害者等らの描く絵画に底知れない可能性を感じると共に、幼い子どもの 描く絵画の世界も、時に驚くものがあったりする。幼い子どもというのは、技術 的に拙劣、だから、描かれるのも幼稚な世界に過ぎない…と、言い切っていいも のなのか。
 もしからした、幼児達は案外と彼等が現に見たり感じたりする、まさに彼等が 生きている世界をリアルに描いているのかもしれない。
 ただ、あまりにリアルなことと、その突飛もない表現に、既成の価値観や視点 や教養や常識の虜になってしまっている大人には、その真の価値が分からないだ けなのかもしれない。
 あるいは、その想像を絶する現実世界の豊穣さと奥の深さにまともに立ち向か ったりしたら、大人として常識を以って生きていけなくなるという懸念を結構、 真剣に予感するが故に、臭いものに蓋(ふた)というわけではないだろうが、少 なくとも危険なものを大慌てで覆い隠すのではないかと思われてくる。

   しかし、そうはいっても、幼児が成長するとは、大人の社会への仲間入りを果 たすということであり、人間社会のルールや決まりごとや杓子定規であっても、 型通りの見方や伝統や教養などを身に付けていくことに他ならない。
 強くなければ生きられない。が、優しくなければ生きている甲斐がない。とい う発想があるとして、それを援用するなら、常識豊かでなければ生きられない。 が、常識の虜になったなら生きているとは呼べない、ということになるのか、ど うか。
 以前にも、ここで書いたことがあるが、近くの市役所跡地の工事現場で見た幼 児の絵に、小生は心底、感動したことがあった。現場を覆うフェンスの表、通り 沿いの壁面に、幼稚園(保育所)ほどの年代の子どもの絵(の複製)が展示され ていた。それらの絵の素晴らしさに圧倒されたのだった。
 どこかミロやシャガールのような、しかし、もっとフワフワした、半熟卵のよ うにブヨブヨの感性が、そのままに壁面に、あるいは四角い額の中という陋屋に、 生の、形にならない未熟な、生傷から膿が滲み出すのも構わずに漂っているよう な気がしたのだ。
 生きるためにはタフになる必要がある。感性を、理想を言えば柔軟にというか、 鞭のように撓るように養い育てられているのが、好ましいが、実際には、麻痺さ せたりすり減らせたり、現実から目を背けてしまったりして、やっとのことで生 きているのが大概である。
 というか、感性を鈍らせていることに気づくことさえ、ない。
 実際、世界は豊穣なのだというのは、構わないが、しかし、豊穣すぎて、消化 し吸収するどころか、その前に際限のない、豊穣さというのは、生きるには危険 すぎるのだろう。子どものままの感性があったりしたら、日常を生きることはで きない。それが許されるのは芸術家など、ほんの一部の人間の特権なのだろう。
 大人になって子どもの感性を持つとは、日々、傷付くということ、生傷が絶え ないということ、傷口が開きっぱなしだというkとに他ならない。不可能に近い 生き方だ。それでも、バカの壁ではないが、既成の価値と感性という壁をほんの 一時くらいは、無理矢理にでも開いてみる必要があるのかもしれない。
 胸の奥の価値の海を豊かにするためにも。
03/10/15作





 

アウトサイダー・アートのその先に(続)  







 小生が久しぶりにアウトサイダー・アートのことを話題に採り上げたのは、今、 車中でだが、服部正著の『アウトサイダー・アート』(光文社新書刊)を読んで いるからである:
 http://www.webdokusho.com/38/0310/kobun.html
 このアウトサイダー・アートへの関心は、93年だったか、世田谷美術館で開催 された『パラレル・ヴィジョン展』を見て一気に深まった。この展覧会で見た作 品の数々には衝撃を受けた。
 その後、『芸術新潮1993年12月号特集現代美術をぶっ飛ばす!病める天 才たち』(新潮社)を入手し、この世界の奥の深さを今更ながらに思い知ったの だった:
 http://www.infoseek.livedoor.com/~outsiderart/Bunken-index.html
 抽象絵画などへの関心は、1985年に大岡信の著した『抽象絵画への招待』(岩 波新書刊)が出て、それを読んで、その世界へ浸っていくようになった:
 http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/oooka-wols.htm
「ポロックなどの抽象表現主義に惹かれ始め、あるいはデ・クーニングやハンス・ アルトゥングや、フォートリエ、デュヴュッフェ、A・タピエス、堂本尚郎、元 永定正、麻生三郎、加納光於、難波田龍起らの世界に親しみ始めた」のだった。  そして、遅まきながらではあるが、『パラレル・ヴィジョン展』で、いわゆる 芸術家の作品の背後には、多くは闇に息を潜めるようにして、とんでもなく深い 世界のあることを知ったわけである。
 さて、服部正著の『アウトサイダー・アート』を読んでいて、懐かしい名前に 出会った。それは、精神科医の式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう、1898〜1965) だった。
『パラレル・ヴィジョン展』の開催された93年に、相前後するようにして、式 場隆三郎ら著の『定本 二笑亭綺譚=にしょうていきたん』(ちくま文庫)が刊行 された(その前に単行本は出されていたのだが、小生は気が付いていない)。
 この本は、奇妙奇天烈な本だった:
 http://www1.odn.ne.jp/~aac65140/books/nisyotei.htm 
 http://www.city.ichikawa.chiba.jp/shisetsu/tosyo/kyo/sikiba/sikiba.htm
 http://homepage1.nifty.com/Tanu/bookworm-j/2laugh.htm
 というより、深川門前仲町の一角に狂人が造ったという屋敷が奇々怪々ななの である。昇れない梯子、使えない部屋、節穴にガラスを嵌めた覗き穴などなど。 この屋敷・二笑亭主人の主人の名は渡辺金蔵。
 この家のことは、建築の専門家でもない小生には、なんとも説明のしようがな い。
 この『二笑亭綺譚』を読んでいた93年の頃は、小生も会社で窓際族の典型の状 態にあり、実際、翌年の春には首を切られるに至るのだが、精神的にかなり追い 詰められていた。
 アウトサイダー・アートに親近感を持ち、二笑亭にもしも住み込んだら、一体、 自分はどうなるのだろうと思いを巡らしたりしていた。下手すると居着いてしま って、離れられなくなるのではと思ったりした。
 一体、二笑亭は芸術作品なのだろうか。アウトサイダー・アートは? 路上の 壁面にスプレーなどで悪戯書きされる変てこなオブジェは? 
 いずれにしても、一旦は、デ・クーニングやハンス・アルトゥングや、フォー トリエ、デュヴュッフェ、A・タピエスらを知り、さらには、芸術の枠組みにな ど収まりきらないアウトサイダーたちの世界の深淵を覗き込んだ以上は、美術館 (展覧会)で見るアート作品には、とても、満足などできない。
 一時期は、彼の作品を糸口に変てこな作品を綴る日々を送らせてくれたポロッ クの作品でさえ、他愛無く感じられたりする。
 この世界の中にあって、ひとりの人間がとことん何かの世界、自分の世界を追 求し始めたなら、きっと<この世>へは戻れないのだろう。後戻りの利かない泥 沼のような世界が、口をぱっくり開けて、そこにも、ここにも、ある。
 しかし、理解不能な絵や記号を蜿蜒と描く行為にしろ、常人には窺い知れない 動機によるだろう、飽くことのない何かの仕草にしろ、当人たちには、決して止 められない営為なのだろう。その営為があるからこそ、他人には狂気の淵に陥っ てしまったと思われつつも、しかし、その崖っ淵の何処かで片手で、あるいは指 一本で、<この世>に繋がっていると感じているのに、違いない。
 あるいは、単に、<そう>すること自体が快感なのか。快楽の営為なのか。絵 画…、といっても、現実の画布に向ってなのか、それとも妄想の世界にしかない 画面や壁面に我が身を削るようにして描いているのかは、別にして、それは生き ることそのものを示す営為なのだ。
 世界が抽象化していく。人間が記号化される。切れば血の出る我が身よりも、 DNAのデータのほうこそが、リアリティを持つ世界。自分のなかの欲望が、あ るいは本能が見えない世界。自分が欲する、だから、そうするのだと思いつつも、 その欲動が実は、巨大なマーケットの手によって煽られた、怒涛の波に呑まれた なかでの足掻きに過ぎないのではないか。
 自分が心底欲するものは何かが分かる人は幸いなのかもしれない。自分が欲す ることを行っている、行いえるし、そのことに満足もしている、そう感じている 人は幸せなのかもしれない。
 抽象化された世界。記号化された世界。生身の身体や揺れてやまない心よりも、 バーチャルに映し出され演出された描像のほうが圧倒的な存在感を誇る。私とは、 符号化された情報がディスクから読み取られただけの、仮初の夢。たまさかの幻。
 日本では、精神の病を極端に恐れるし、根強い偏見を持つ人が多い。部落差別 に精神の病への差別。では、どうあることがまともなのだろう。誰だって狂気へ の通路や落とし穴を抱えているのではないのか。 
 そうはいっても、ミラーボールのような超高層ビル群の谷間では、どんな声も 掻き消されていくのだろうが。
03/10/20作