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(03/03/28up)
雨の夜でなければ会えない人がいる。 見知らぬ町の、誰が住むとも知れない家の屋根を、庇を、表に置き去りの小 さな自転車を雨が叩く。 雨音は私を孤独にしてくれる。一人っきりにしてくれる。雨に佇むと、世界 に一人ぼっちなのだと、しみじみと感じさせてくれる。 その痛いほどの悲しみの底で、初めてあの人の声が聞こえてくる。いつしか 雨音も消え去り、霧の中に風景も没し、私と空っぽの世界とが対峙する。 眩暈がしそうなほどの淋しさ。いつもは忘れているはずのあの人のこと。あ の人を失ってからは、私はただ、ひたすらに机を見つめ、書類の細かな文字を 追い、数字の帳尻を合わせることに専念してきた。誰もが引き受けない用事も 率先して引き受けて、にっちもさっちも行かないほどに忙しくしてきた。 私は私を限りなくゼロへと縮めようとしてきたのだ。 そしてそれはうまくいった。うまくいっていると信じられた。 でも、雨が降ると、全ては水の泡となる。私の頑なな心は雨にほだされて、 雨の夜に咲く花のように天空に開かれていく。あの空にはあの人がいる。遠い、 高い空の上にあの人の面影が浮かぶ。心からは抉り出したはずのあの人が、憎 いほどの笑みを浮かべて私を手招きする。 いっそのこと…。 それができたならば。 不意に雨音が強くなった。道端に佇む私の脇を、相合傘の二人が通り過ぎて いったのだ。街灯にピンクの傘が燃えるように一瞬、咲き、やがて闇に溶けて いった。 私があの人に恋心を打ち明けられたのも、雨の日曜日だった。傷心の私への 同情を恋心と錯覚したに違いない彼。でも、私にはどうでもいいことだった。 私の伽藍堂の心を埋めてくれるなら、誰でも良かったのだ。 私は、私のピンクの傘を閉じ、彼の蝙蝠傘に入った。彼は私を赤い世界へと 導いてくれた。私を不器用極まる旅へと誘ってくれた。 そう、彼を相談相手に選んだのは私だったのだ。彼の友人を介して、彼に相 談を持ちかけたのだ。彼はクラスで一番、もてなさそうな男の子だったし、真 面目だけが取柄だったし、間違いなく私に夢中になると思ったのだ。 案の定だった。彼は、私の悩みを真正面から受け止めようとした。彼を戯れ の相手として選んだに過ぎないのに、彼ったら、私を悲劇のヒロインに仕立て てしまった。何だか、億劫で窮屈なほど、私は真剣にヒロインを演じるしかな くなってしまった。 私は、彼の真面目さの裏に憂鬱さが潜むことを見逃してはいなかった。若い 男の憂鬱とは、性欲と勉学との相克、その軋轢なのだ。そのことを私は中学の 時から、さんざんに経験で学んできたのだ。 彼が自宅で、私を想って、自慰している姿が髣髴とする。だからって私は彼 を軽蔑していたわけじゃない。そうじゃなくって、その塞ぎの虫を私にぶつけ ないことに苛立っていたのだ。 何故、私を抱かないの。こんなにサインを出しているのに。彼が行くところ は、どこへでもついていったし、ついていくつもりだったのに。私は彼をホテ ル街へも導いてあげたじゃない。 それなのに、彼は、生真面目な顔で私の悩みを聞きだそうとし、受け止めよ うとする。そして悶々とした自分の欲情を夜毎日毎にドブに捨てている。 (あたいを抱いたらどうなの!) 幾度、口を突いて出そうになったことか。今まで知り合った男たちはみんな その日のうちにホテルか学校の体育館の裏手の資材置き場か、彼らの得意な場 所に連れて行ったのに。これではこちらが参ってしまう。 とうとう私は彼を切り捨てることにした。私が今、欲しいのは、熱い心なん かじゃなく、熱い体なのだ。全てを忘れて汗と吐息と真っ赤な太陽だけの世界 への没入なのだ。そんなことが分からない男など、男の屑だ! 私は若かったのかもしれない。彼が若すぎたように。彼を棄てたのは、ちょ っと甘かったのかもしれない。 でも、あの頃の私は、私を窒息させるほどに分厚い男の胸板が欲しかったの だ。男の大きな胸で思いっきり泳ぎ回りたかったのだ。私の脳味噌を掻き回す ような熱くて固いチンポが欲しかったのだ。そのキンキンに漲ったチンポを嘗 め回し、しゃぶり、呑み込んで、息も絶え絶えになりたかったのだ。寝台の上 での私の喉チンコとチンポとの交合は、解剖台の上の蝙蝠傘とミシンの出会い のように気絶するほどに美しい。父が初めて教え導いてくれたその喜び以上の ものを与えることのできない奴は、私には無用の長物だったのだ。 若い私を癒し宥めるのに、百万言の言葉など要らない、欲しいのは熱い肉体 だけなのだ。なのに、彼ったら…。 そんな私の疾風怒濤の劣情の時も、ようやく凪の時を迎えてきた。きっと人 生で男と女とが交わり合う時間(それとも回数?)って、決まっているのだと 思う。私はそのノルマを二十歳過ぎで使い果たしたのだと思う。今だったら、 そう、今だったら、彼と形而上の関わりを持てるかもしれない。もう、身にも 心にも、たっぷり男の体液と呻き声とを浴びてきた。憑き物が落ちたみたいに、 今は晴れやかだ。 (さあ、あなた、こちらに来て!) 私は、さっき、闇に没した二人の後を追った。私はやっと昔の彼を見つけた のだ。懸命の追跡の日々の挙げ句、彼の家を見つけた。でも、同時に、彼が今 ごろになって女に夢中になっていることを知った。家庭に小さな子どもまでい るのに、奥さんに全てを任せて、どうして外出するの? 相変わらず意中の人 が相手じゃ、本能を剥き出しにできないの? ショックかって? そんなことはない。彼がいじらしいと思うだけだ。今ま での憤懣やら鬱憤やらを彼は今ごろになって辺り構わず撒き散らしている。今 までの遅れを取り戻そうとするかのように。そんなに焦らないでもいいのよっ て、言ってあげたい。なんなら私が玩具になってあげてもいいのよ。 (今日も、あなたはいつものホテルへしこけむの? あたいのことを放っとい て。あなたのことを愛しても呉れない女と) そして、あの雨の降り頻る冬の夜、私はホテルの一室へ忍び込むことに成功 した。植木鋏のようにクロスすることに夢中の二人の腰に、永遠に二人が離れ ずに済むよう、捩子を深く突き刺してあげた。 豪奢な薔薇の花が部屋一面に咲き誇った。 あの日からあの人は私のもの。 なのに、あの人は、私の中にはいない。あの頃、彼が私の中に一度もいなか ったように、今も彼は不在なのだ。 雨は降り止まない。 ただ、深紅の薔薇の花が夜の雨に咲いている。 03/03/16 21:37 |