輪廻について  



(04/10/22 up)
 



1.輪廻について(1)  

2.輪廻について(2)  





1.輪廻について(1)





 
 『広辞苑』によると、「輪廻」とは、「(1)[仏](梵語…流れる意)車輪 が回転してきわまりないように、衆生が三界六道に迷いの生死を重ねてとどまる ことのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること。流転。輪転。(2) 同じことを繰り返すこと。どうどうめぐり。(3)執着心の深いこと。
 ついでに「転生」を調べたら、「生まれ変わること。輪廻」とあった。
 いつだったか、自分の祖先というのは、一体、誰なのだろう。何処から来たの だろう、などと考えているうちに、では一体、自分の先祖というのはどれほどの 数、いるのだろうかと、計算してみたことがある。
 といっても、別に家系図なるご大層なものがあるはずもない。単純に、血筋の 上での<親>の数を計算してみただけである。
 まず、小生には両親がいる(実の父と母だと思うが、机上の計算なので、とに かく血筋の上でのつながりのある父と母ということで話を進める)。当然、二人 である。その父と母にもそれぞれ父母が(つまり祖父母が)いる。つまり2掛け る2で、祖父母が四人である。その祖父母にもその父母がいる(曽祖父母)で、 4掛ける2で曽祖父母は八人である。
 ということは、曽祖父母まで辿っただけで、2プラス4プラス8で、14人の直 系のご先祖様がいることになる。まあ、単純に25歳で結婚し子どもが生まれ(か つ、父親あるいは母親が息子や娘に手を出したりなど、近親相姦などをしなかっ たことを願っての計算だし、親には多くは兄弟姉妹がいるはずがが、それも度外 視している…)るものとして、小生が仮に今、25歳だとしたら、明治元年から でも、130年以上を経過しているので、少なくとも明治以降だけでも、5代は 遡れる。
 となると、2プラス4プラス8プラス16プラス32で、62人の直系のご先 祖様がいることになる。幕末から明治維新の頃、我が先祖が30人以上、日本の どこかをうろついていたわけである(繰り返すが兄弟姉妹は除いているし、まし て不倫で密かに作ったかもしれない血縁のある方も計算に入れていない。品行方 正を願うが、難しい過大な期待はしないほうがイイのかもしれない…)。
 単純に、百年だと4世代。千年だと40世代。計算は簡単なのだろうが、小生 の能力を超えるのでしないが、累積したら、あっという間に億の数に到達してし まう。いずれにしても、千年、二千年の昔を辿ると、我が日本という国土か、朝 鮮半島か、シベリアか中国の辺境か、はたまた東南アジアの島々のいずれかか、 それとも、一人くらいは遥か西南アジアかインドから流れ着いた商人も混じって いるかもしれないが、ことによると白人だって紛れ込んでいることも否定はでき ないし、とにかく世界のかなり広い範囲に優に億を超える数の我が御先祖さまが、 飯の種を求めて、あるいは配偶者を求めて、あるいは地平線の彼方を目指して、 流浪しては定着、という生活を繰り広げていたものと思っていいのだろう。
 さて、では、今度は、逆に考えてみる。例えば、二千年前のアジアのどこかに 一人の人間様がいる。その方は、或る日何処かで誰かと出会い、望んでか衝動で なのかは分からないが、夜はすることも特にないし、ついついHに励んでしまっ て、お子様などが出来ちゃったりする。年子になったりして、一組のカップルが 一人の子供を産むだけとは限らないが、成人しないで亡くなる子供も多いだろう から、単純な計算という都合上、二人だけ子供を作り育て無事成人に達するのだ として、その子供たちも、親に似て夜は特にすることもなく、日中の労働で疲れ 果てているのに、夜はそれだけは何故か元気で子作り作業に精励して、また、そ れぞれの配偶者との間に二人の子どもを持って、と、蜿蜒と計算していくと、任 意の二千年前のあるカップルの子孫は、今日、アジアを中心にした世界各国に億 の数に膨れ上がって活躍していることになる。
 血筋をたかだか数世代だけの血縁に限るのではなく、千年、二千年の単位で考 えると、自分の御先祖さまは二千年前には億の数がいる。あるいは、二千年前の ある一人の人間の子孫が今や億を超える数、生きているということになる。
 そんな計算をしてみたことがある。
 さて、冒頭で輪廻という概念についての説明を紹介したが、一読して分かるよ うに、輪廻というのは、歴史という概念と相対立する概念である。なんといって も、同じことを繰り返す、というのだから、歴史の積み重ねなど、論外なのであ る。そもそも、輪廻というのは、仏教(だけとは限らないだろうが)上の概念で あり、この世を汚辱に塗れた世界、苦しみに満ちた世界、解脱すべき不浄の世界、 一刻も早く悟りを得て浄土かあの世か天国か極楽か何か分からない来世に移るべ きなのであり、この世とはあの世へのほんのしばしの止り木の世界、煮え湯ばか りを呑まされる唾棄すべき世界なのである。せいぜい、この世に関して意味があ るとすれば、あの世に至るための修行の場なのであり、この世の苦しみや辛酸を 味わい尽くすことで、来世の神々しさを一層、感得する負の場なのである。
 それだから、歴史などというものに意味などあるはずがない。歴史というのは、 あくまで石か木か竹かパピルスか紙かは別として、何かしらの物体にこれこれの 世にこんなことを王か誰かが行いましたという事績を書き記すもので、なぜ、わ ざわざ事績を書き連ねるかというと、先祖の事績を顕彰する意味もあるのだろう が、過去の知恵を形に残す、文書の形で残して、経験の積み重ねの形で子孫に伝 えるという意味があるのだと思う。
 では、なぜ、経験を伝えるかというと、その経験や知恵を生かすことで、より よい人生を子孫が送れるようにと願ってのことであろう。また、よりよい人生が 可能だと信じていたということでもある。
 が、生きることとは、つまりは生・老・病・死に尽きるのだとしたら、また、 実際に、目先を誤魔化すような楽しみの種類は増えては来たのだろうけれど、所 詮は死を免れることはできず、その死を意識した時に、しかも、寝たきりの生活 を余儀なくされた時に、パソコンも高度な医療機器も、介護さえも届かなく成っ た時に、ああ、結局は、生・老・病・死のほかに何もこの世にはないのだと思い 詰めたりして、逃げ場などなく、出口もない暗闇が続き、その永遠のトンネルを 一人、トボトボと歩いていくしかなく、だとしたら、先人の知恵も経験も、そう した生活の現実の工夫も、最後の土壇場では意味をなさなくなり、この世はあの 世への準備期間、助走のためのトラックに過ぎないと悟るしかなくなってしまう、 つまりは、生きるとは、諦めということになりかねないのである。
 歴史。過去の経験や知恵の積み重ね。過去の間違いに学ぶこと。そのわりにわ れわれは学ぶことには慣れていない。なぜ、慣れないのかというと、誰もが一度 限りの人生を生きており、その都度の現実がその人にとって初めてのものであり、 つまりは、常に誰もが初めての人生を戸惑いながら迷いながら無数にあるかもし れない選択の可能性の中の、たった一つを選ぶしかない(選ぶことに躊躇したな ら、その躊躇という選択そのものに押し流される)わけで、その選択が命取りに なったりしてしまうのである。
 結局のところ、歴史の積み重ねと言いながらも、詰まるところ、ギリギリの選 択を迫られる場面においては、その都度の現実の場面では誰もが輪廻さながらの、 迷いに満ち逡巡に苦しみ過去の誰彼と似たり寄ったりの六道の闇夜に一層、深く 足を踏み入れてしまうわけである。  


04/03/04 記





2.輪廻について(2)






 過去の失敗に学べない、その都度、迫ってくる現実の場面では、誰もが自分に とってのはじめての体験を生きるしかないのだとしたら、では、だったら、歴史 などに意味があるのかということになる。
 歴史書を紐解き、先人の失敗を、あるいは成功の事例の物語を読み、そうした 先人の労苦の果てに己がある。つまり、今を生きる己を際立たせ、特別な存在だ として自分を物語の主人公に思わせてくれる長所くらいはあるのだろうか。歴史 とは物語だ、とまで断定するのは行き過ぎなのだろうが、しかし、凡人たる小生 など、自分を自分で盛り立てたり励ましたりするのに、ある種の物語、人様の前 では到底口に出来ないような妄想で己を酔わせ誤魔化して、その日その日を遣り 過している面がないとはいえない(いや、ある!)。
 物語なくして、もっと端的にこの世に意味がなくして、生きられないのではな かろうか。己の人生を些少でも意味あるものにするためには、昨日よりは今日、 今日よりは明日、というドラマが不可欠なのではないか。
 しかし、それでも、繰り返しになるが、結局は、年をとり体が衰え、病だけが 友達となり、死を意識しない日など、時などないようになってしまうと、生・老・ 病・死に尽きる、それ以外に何がある? と問い詰めたりしたくなるが、問い詰 める相手がいないので、ただの自問になり、愚かな自分の自問とは、つまりは堂 々巡りであり、空回りするだけのことになる。
 で、最後の最後には、輪廻ということになってしまう。つまり、なんだよ、所 詮は、ジタバタしても同じことを繰り返しているだけじゃないか、同じことを壁 の色やデザインなどを塗り替えて表面だけは新しいように見せかけているだけじ ゃないかと思ってしまったりするわけである。
 しかし、同じこととは一体、どういうことなのだろう。今やっていることが、 過去の自分がやっていることと同じことだとは、一体、どうやって知れるのだろ うか。比較するためには記憶が必要だし、それはある意味、自分という一個の人 間の中のささやかな歴史(物語)があり、その物語を密やかに述懐して、ああ、 今のオレもずっと若かった頃のオレと同じことを繰り返している、一体、どこに 成長があるのか、過去の痛い失敗に懲りて同じ過ちを犯さないと誓ったはずの自 分は何処に行ったのか、などと思ったりするわけである。
 同じこと。が、考えてみたら、同じ事などできないのではとも、思ったりする。 同じようなことをやっていると思った瞬間、既に過去の記憶が蘇っているのであ り、その過去の恥に今、上塗りをしているのだということが分かるのだから。デ ジャ・ヴュという概念がある。既視感と訳されているのだろうか。初めて来た場 所、初めて見る光景、初めて立ち会う場面であるはずなのに、自分が遠い過去、 事によると生まれいずる以前の自分が遭遇したことがあったような懐かしい風景 を今、自分が目にしていると思われてならない、そんな感覚である。
 その感覚の奥底に、輪廻という神秘への鍵が隠されているのかもしれない。が、 今は、その鍵はそっとしておこう。
 ただ、思うのは、繰り返すという発想自体が、その自覚そのものが、何かを示 唆しているのではという、もどかしい感覚の去来である。この懐かしいという感 じ、いつか何処かで立ち会ったに違いないと思えてならない、不可思議な感覚。  この感覚の地平には、輪廻を理解する糸口があるに違いない。
 ところで、前稿で、自分という一個の平凡なる人間にも、親類縁者(法的な意 味ではなく、あくまで単純に血筋を辿っただけでの血縁者)が計算上は億の数に 上ると書いた。が、さて、その上で、例えば我が肉体を顧みてみると、一個の成 人を成り立たせている細胞の数は、60兆だという。その細胞も無数の分子が絡 まりあい、結び合い、離合集散し、新陳代謝を繰り返している。また、どの分子 も、これまた無数の原子が固く、あるいは緩く結びついたものである。己が肉体 を構成する分子も原子も、辿ってみたら、過去の誰彼の肉体の一部だったはずで ある。否、誰彼を人間を意味すると思うなら、間違い、すくなくとも料簡が狭す ぎる。
 分子も、まして原子は、地球上の大小を問わない生物の肉体の一部を構成して いたのだし、それどころか、生物に限るのさえも、料簡が狭すぎる。そう、マグ ネシウムやらカルシウムやら、何十種類という微量元素だって我が肉体を構成し ている、それらは自然界の鉱物資源だったり、海水に溶けて漂っていたり、海底 深い鉱床の罅割れた噴出口から地底深くより噴出してきたものだったのである。
 それらの分子や原子に歴史があるのかどうか。己に歴史や物語や幻想を帯びた り意識したりしているのかどうか、小生には分からない。しかし、意識とか幻想 という人間的こだわりなど、どうでもいいのだろう。分子も原子も地球表面を巡 っている。地殻の裏側のマグマの流れに乗っている。あるいは大気圏の彼方から、 はるかな時を越えて我が地球に、たまさか、舞い降りたのかもしれない。
 つまりは、この世に輪廻していないものなど何一つないのではないか。己にと って我が肉体(や心が)が格別であるように、あるいは、それ以上に原子や分子 の数々も我が地球にとって太陽系にとって、我が宇宙にとって掛け替えのないも のなのではないか。物質とは光の究極の姿であること、物質と光とが姿を交換し えることを前世紀の偉大な物理学者が発見した。
 今は鉱物として眠っている、海の水に溶けて漂っている、魚の腸に取り込まれ ている、緑の木々の幹の年輪の奥深くに封印されている、煤け汚れた高速道路の 壁の中で息を潜めている、微細過ぎて、地上に舞い降りることなく漂い続けてい る、そうした一切の微粒子の数々も、輪廻している。昨日とは変わらない今日を 綾なしている。今日に変わらぬ明日を織り成しつづける。時と所を変え姿を変幻 し続ける。
 そう、宇宙の一切が輪廻しているのだ。
 輪廻といえば、ニーチェを多くの人が思い浮かべるに違いない。つまり、永劫 回帰の思想である。小生などが解説するのはおこがましい。思いっきり単純に言 うと、己の人生を全く同じあり方で繰り返すということだ。輪廻転生という発想 は、昔の誰かの生まれ変わりが自分だということだが、永劫回帰の発想では、永 遠に自分が過去世でも現世でも来世でも同じ内容の自分の人生を自分が繰り返す ということを意味する。
 そこまで問い詰めて、さて、お前の生き方はそれでいいのかと問い掛けている のだろう、多分。
 小生自身は、原子や分子の輪廻は信じるが、己の転生も誰彼の転生も信じては いない。一度限りの人生なのだと思っている。自分にとってはとりあえず自分の 人生は大切であり責任を持つのだが、さりとて来世でまで繰り返したいとは思わ ない。
 それよりも、今、自分という形で結実しているという一個の在り難き有り難き 僥倖を思うだけである。無数の原子や分子や記憶や体験や失敗や悔恨の集積であ る自分に過ぎないのだけれど、せっかく可能性として感じる心がそこにある以上 は、可能性の限りを尽くしたいと思う。この世のどんなことも、過去世にも来世 にも、ない。常に一回限り、一期一会、乏しい能力の限りを尽くして、ささやか なりとも表現の可能性という宇宙を旅してみたいのである。


04/03/04 記