薔薇の園にて

                                           (04/01/29 up)





 雨の夜、赤坂のとある隠れ家を訪れた。
 曲がりくねった緩やかな坂道を登り切る途中に、苔むしたブロックの壁を穿つ 小さな穴がある。
   それは単なる穴ではなく、通路だということは、界隈を歩き慣れた奴なら知ら ないわけもない。しょぼくれた街灯の光など、差し込むはずもなく、そんな穴の 中を夜中に覗き込む奴などいない。オレくらいのものか。
 穴蔵のようなトンネルを抜けるとマンションに囲まれた小さな公園がある。ほ んの数分も歩けば、上を高速道路も走る幹線道があるとはとても信じられない閑 静な一角だ。昼間はサラリーマンや近所に住む連中の格好の休憩所になっている。
 が、オレの向うのは、そんなしみったれた公園ではない。通路の途中にさらに 別の穴が開いている。が、錆び切った鉄柵で行く手を阻まれているので、昼間で もさすがにそこまで入り込む奴はいない。仰々しいような錠前が降りているので、 関係者以外は立ち入れないような印象を与えているのだ。
 が、その錠前は飾りだけの鍵に過ぎないことをオレは知っている。鉄柵の後ろ に手を伸ばして楔となっている金棒を横に引けば、あとは柵を押せばいい。注意 深い奴なら、この作が時折は開けられている跡がコンクリートの床に刻まれてい ることを見逃さないだろう。
 シトシトと冷たい雨が降り続く。時折、通路の天井から雨の雫が垂れ落ち、小 さな音を立てて砕け散る。あとは何も聞えない。まるで音という音が闇の口に吸 い込まれてしまったようだ。そうだ、闇は、夜の禍禍しささえも剥き出しにする。 黒雲に遮られたはずの月の影さえもオレの瞳に浮かべてしまう。オレの暗い海を さえ、韜晦してしまう。
 その静寂も、やがては破られる時が来る。破るのはオレの手によって。ああ、 爛れた心臓のようなお前の紅の肌に触れたい。
 柵の向こうに入り込む。通路は公園の真下を抜けて、ある腐って誰も住まない ようなマンションに導く。闇の世界へ通じる小道。真っ暗闇だ。慣れているオレ も、時折はライターの火で足元を照らさないと足取りが覚束なくなる。
 そのマンションの一角に薔薇の園があるのだ。
 オレが何年も掛けて丹精込めて作り上げた愛の園。オレが近付くだけで、期待 に胸が弾むのか、もう、たおやかな香りが漂い始めている。特に今日のような日 は、雨に濡れて薔薇の花弁から滴る雫がまるで香水のように香るのだ。薔薇の香 りは、神代の昔から人類を魅了し、不安や怒りの念を蕩かし、和ませ、別世界へ と誘ってきた。
 そのように、今夜もオレを紅い闇の世界で躍らせておくれ。
 冷たい霧のような雨の露が肌に触れるたびに、ぴくっぴくっと細かく震える。 切ないほどにひめやかな、怯えと見紛うような震え。
 そんなに緊張することはないんだよ。いつもと同じことをするだけなのだから、 お前。
 オレは心の中でそう囁いてやった。
 閉じ込められている? それはお前の勘違いだよ。お前を薔薇の園に招待して やっただけじゃないか。その証拠に青褪めたお前の肌が、無数の薔薇の花弁の色 に変幻しているじゃないか。もう、お前は、この世界に馴染み切ってしまってい る、何よりの証拠さ。
 猿轡のような白いシルクの布を外してやる。絶え絶えの息。喘ぎ。幾分、脹れ 上がったようなその唇をちょっとめくり上げてやる。白い歯が零れる。洩れる吐 息が冷たい空気を溶かすようだ。
 ああ、その頬。紅潮した肌のような花弁の輝き。
 オレは慌てない。決して逃げない薔薇の園に咲き誇る花たちではないか。
 柱に縛り付けられている? そんなことはない。お前は大地に根付いているの だよ。この世の滋養分を誰より貪欲に吸い上げているじゃないか。オレはただ、 そのエキスをほんの一滴、舐めさせてもらえればそれでいいのだよ。
 オレは、薔薇の花を覆っていたベールを剥いだ。すると、砂糖菓子のように甘 く淡いピンクの花弁が、あるいは白くふっくらとした絹のような花弁が目に飛び 込んでくるのだった。
 オレは、指先でふっと息を吹きかけるように花弁に触れてみた。そう、蝶の羽 で擦るように。すると、蝶の燐粉にも似た小刻みな震えでお前は応えてくれる。 こんなにかすかなタッチだけでお前はそんなに悦んでくれる。この先は、一体、 どうなってしまうのか。
 オレは、指先を花弁から花芯へと滑らせていった。そのためには幾重もの花弁 を押し分けていく必要があった。鍔を押しのけ、のけぞる茎を押さえつけ、撓る 茎を撫で回し、無数の花弁の園を分け入った。
 初めのやや白っぽい花弁が、興奮に上気したかのように淡いピンクになり、や がては大地の亀裂を思わせる底知れない深紅へとグラデーションを描く。
 オレの指先は蜜を追い求める蜂の口先。それとも燐粉を払う羽箒。透明な黄金 色の蜜がじんわりと、そしてやがては止めどなく満ち溢れてくる。もう、飲み尽 くせないほどだ。オレの口元から蜜が垂れ零れる。お前の白い肌がねっとりと濡 れそぼつ。
 オレの切っ先が花芯を何処までも抉っていく。湧き上がる熱い泉の精がオレを 真っ赤に染め上げる。
 ああ、花芯の色は、お前の心臓の色だったんだね。だからこんなにも懐かしい のだ。涙より熱い真っ赤な液体が噴き上げる。ああ、薔薇の酒だ。血の味のする 蜜の酒だ。オレの切っ先がさらにお前を切り刻む。すると出来上がるのは、肉厚 の花弁を浮かべた醍醐の酒だ。蜜と血とオレの情熱とが捏ねられて、この世のも のとは思えない濃密な苺ジャムになる。身がタップリだ。
 末期の喘ぎは至上の音楽だ。断末魔の叫びほどに神への祈りに近い音楽があり えようか。そう、この肉の奥の白鳥の歌にも似た妙なる震えにこそ、静寂を破る 資格があろうというものだ。
 オレの饗宴は終わった。たっぷりと残った今はゼリーと化した薔薇の花弁ども は、薔薇の園に埋めた。
 そう、またの日の饗宴の豪奢な寝床となるために。



                                   04/01/19