水族館のこと/清正公のこと  

 
(04/06/12 up)



1.水族館のこと ヒトのこと  

2.清正公のこと  





1.水族館のこと ヒトのこと

                                          




 過日、車中で暇の徒然にラジオのお喋りを聞いていたら、水族館の話になった。 たまたまその前日、ある方が水槽の画像を小生のサイトに載せてくれたので、つ いつい聴き入ってしまった。
 最近、日本では水族館がブームなのだとか。世界にある400余り水族館のう ち、3分の1が日本にあるという。
 ラジオでは、水族館に纏わるミニ知識をあれこれ話していたが、走行中という こともあり、聞いているつもりでも、例によって断片的に聞きかじることになっ てしまう。聞いたことをメモするゆとりもない。
 なので、改めてネットの力を借りて、水族館に纏わるあれこれを書き綴ってみ たい。
 日本で近年、何故に水族館ブームが生じているのか。しかも、どれも大型の施 設である:
「沖縄美ら海水族館」
 http://www.kaiyouhaku.com/index.html
 ここは、「最大のアクリルパネルでギネスに申請へ」だとか。「申請するのは 新水族館で最も大きい「黒潮の海」正面のパネルで、幅22・5メートル、高さ 8・2メートル、厚さが60センチメートル」で、厚さ、面積ともに世界一だと いう:
 http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2002/2002_08/020811e.html
「男鹿水族館GAO」は2004年7月に開館の予定だとか(※「GAO」(がお)は 「Globe(地球)」「Aqua(水)」「Ocean (大海)」の頭文字):
 http://www.pref.akita.jp/kanko/oga/suizokukan/suizokukannwes.html
 岐阜県でも、世界淡水魚園水族館が2004年7月に開館の予定だとか。日本最大 級の淡水魚水族館という触れ込みで、愛称は、「アクア トト ぎふ」だとか:
 http://www.kajima.co.jp/news/digest/nov_2003/site/site.htm
 まあ、切りがないので、新しい水族館の紹介は、これくらいで。他にも新装な った水族館など枚挙に遑がない。
 ただ、日本海側で最も歴史の古い水族館(初代は大正2年(1913年)9月!)で ある魚津水族館だけは紹介しておきたい。二代目は昭和29年(1954年)4月、現 在の水族館は昭和56年(1981年)4月に三代目として誕生したのだとか。この時、 『トンネル水槽』が初めてお目見えしたという。ここの「海中トンネルでは女性 ダイバーによる「魚の餌付けショー」が見られる」という:
  http://www.city.uozu.toyama.jp/suizoku/
『トンネル水槽』の画像については、「都内で唯一イルカショーを見られる水族 館」と銘打たれた、「しながわ水族館」で観て貰おう:
 http://asobiba.jp/asobiba/contents/asobiba109_shinagawa_suizokukan.htm

 では、何故、水族館新設ブームなのか。ラジオの話では、バブルの崩壊で既存 の大型施設の経営が成り立たなくなり、土地が余っている中、新しい施設が求め られていたとか、いろいろ言っていたが、要は、四囲が海に囲まれる日本という 国土環境に住むものとして、日本人が魚(海)が好きだということに尽きる、と いう結論になっていた。  こんな結論でいいのだろうか。あまり目くじらを立てる必要もないだろうが。

 ここには技術的な背景も要因としてあるのかもしれない。というのは、水族館 というのは、水槽が命。大きければ大きいほどいい。しかし、なんといっても、 とにかく観客が水槽を眺めることができなければいけない。巨大な水槽の中にい る魚さんたちが水面に現れるのを待っているのでは、つまらない。
 それだったら、ホエールウオッチングとかイルカと一緒に遊ぶという趣向に敵 うはずもない。
 要は、水槽の中の魚たちを存分に眺められるための、窓、その大きさと透明度 が大切なのだ。
 水槽の窓に使われる素材は、アクリルだという。このアクリル板の製造、のみ ならず板同士の接合の技術で世界一を誇るのが日プラ株式会社で、四国が誇る世 界一の企業なのだとか。世界の水族館のアクリルのシェアー50%以上を誇ると いう:
 http://www.nippura.com/
 ラジオでは、日本人に限らず海や魚や、とにかく水が好きなのは、そもそも人 間と水との関わりが深いからだという話もしていた。
 この関わりというのは、人間がサルから<進化>し人類となったのは、実は、 ヒトの創生からして水と縁が深いということなのである。
 アフリカのある地域に棲み付いたサルが、環境の激変(火山の噴火など)によ り、一定地域に閉じ込められ、他のサルとの交流が途切れる中、特殊な環境の中 で育ったことにより、サルが人類に進化したのだという説があるのだ。
「ヒトはいかにして類人猿から分かれてヒトとなったのか」という「この進化論 上の問いに対して」ては、従来よりサバンナ説(草原進化説)という滑稽な説が あることは知られている。この説が馬鹿げていることは、人類学への造詣がなく ても、すぐに気が付いてしまう。
 これに対し、まだ、異端の説扱いなのだが、小生には説得力を持つ説が唱えら れている。それが、「アクア説」である。
 その簡潔な紹介が、下記のサイトで読める:
「ヒトは海辺で進化したのか」(永井俊哉講義録 第147号)
 http://www.nagaitosiya.com/lecture/0147.htm
 この「アクア説」を著作活動を通して広めようとしたのがエレイン・モーガン で、小生も過去、何度か紹介している。上掲のサイトにもあるように、一時は、 水棲説では致命的な欠陥もあったが、海水の水辺ではなく、淡水の水辺だったら、 「アクア説」には、まだ可能性があると永井俊哉氏は考えているわけである。
「アクア説」の参考文献として、下記がある:
『進化の傷あと―身体が語る人類の起源』『人は海辺で進化した―人類進化の新 理論』『子宮の中のエイリアン―母と子の関係はどう進化してきたか』『人類の 起源論争―アクア説はなぜ異端なのか?』
 いずれも、著者はエレイン・モーガンであり、訳者は望月 弘子氏、どうぶつ 社刊である。
 尚、下記のサイトでは、エレイン・モーガンの広めた説や彼女の学会(学界) での扱いなどを、より広範な見地から教えてくれる:
「衝突と気候変動、及び、絶滅と文明盛衰(その5)恐竜絶滅以後、氷河期まで の、小惑星衝突の痕」 古宇田亮一(地質調査所):
 http://www.spaceguard.or.jp/asute/a27/KOUDA/kouda.html
 サバンナ説が生き延びているのも、水生人類説が唱えられるのも、「鮮新世前 半(530〜340万年前)は、人類のあけぼのであるにもかかわらず、又、人 類のアジア起源説、アフリカ起源説にとって最重要であるにもかかわらず、実は、 必ずしも調査情報に恵まれているわけではない。それは地質学的な大事件が起き た場所だからである。つまり、ちょうどアフリカの大地溝帯が広がり、海が侵入 してきた時代、陸上の生物の記録が乏しくなった時期」だからなのである。
 永井俊哉氏のサイトと併せて上掲のサイトを読むと、興味深いだろう。

 余談になったようだが、要は、ヒトがヒトになったのは、そもそもが海辺(水 辺)だったからなのであり、その水辺での数百万年の生活が、人類の記憶の深い ところに刻まれており、だからこそ、水に触れること、水をみること、水に生き る動物を眺め触れることは、心の深いところからの癒しと感動をヒトたる人間が 覚えるのだ、という考え方もあるわけである。
 しかるがゆえに、水へ水へと、水族館建設ラッシュが続くというのが、結論というわけだが、まあ、そんなことより、水槽を我が家に置くのは無理な小生は、せめて水族館へ行って、人類創生神話を想ってみたいのである。
04/05/05 記





2.清正公のこと





 5月4日そして5日と、港区白金にある覚林寺で清正公五月大祭があった。 たまたま人だかりのする祭りの脇を通りかかったので、そういえば祭りの季節 なのだと気付かされた:
 http://www.tcvb.or.jp/jp/omaturi/05maturi/10.html
 4日の夜、白金を地元する方をお客さんとして乗せた。話が祭りのことに及 び、いろいろ教えていただいた。たとえば、清正公というと、加藤清正である ことくらいは小生は知っていたが、覚林寺に祀られているのは、加藤清正では なく、朝鮮出兵した時に捉えてきた王族の誰かなのだということ、あるいは、 八方園が大久保彦左衛門の別邸だったということ、などは初耳だった。
 さすがに四代目として地元に暮らす方だけのことはある。
 小生、実は、清正公覚林寺から徒歩数分、大久保彦左衛門の菩提寺・立行寺 (一心太助の墓もある)からは一分余りのところに9年ほど住んでいたことが ある。なのに、その頃はそれらの存在に気が付いていながら、折をみて訪ねて みるような酔狂な気持を起こすことはなかった。
 実に、怠慢だし勿体無いことをしたと今更ながらに悔いている。
 さて、上掲のサイトには、清正公五月大祭は、「加藤清正公を祀る大祭」と されている。実際はどうなのだろう。あるいは、物語では一心太助との関わり でも有名な大久保彦左衛門(1560-1639)は、立行寺の近くに住んでいたのだろ うか。
 大久保彦左衛門
 http://www.ffortune.net/social/people/nihon-edo/hikoza.htm
 今では天下のご意見番というと、水戸黄門ということになっているが、元祖 は大久保彦左衛門ということに(物語では)なっていた。彼自身が子孫のため に書いたと言われる『三河物語』は有名:
 http://www.hamajima.co.jp/aichi_bungaku/koten/39.shtml
 ところで、ネットで調べると、大久保彦左衛門は岡崎市(三河)にある長福 寺に葬られたとある:
 http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/ookubo/b-ookubo-hiko.html
 下記のサイトによると、「寛永十六年(一六三九)、八十 歳でこの世を去っ た彦左衛門の墓は、岡崎市の長福寺と東京芝白金(しろがね)の立行寺(りゅ うぎょうじ)にあ」るという:
 http://www.town.kota.aichi.jp/1gaiyo/hikoza/hikoza5.htm
 八方園は、大久保彦左衛門が余生を送った地といわれ、明治の頃は洪沢栄一 が所有していたという:
 http://www.anox.net/minato/other/takasi.html

 さて、加藤清正である:
 http://ww7.tiki.ne.jp/~saki/kiyomasa.htm
 清正公ゆかりの覚林寺は、工事中だということは、その前をよく来るまで通 りかかるので、知っている:
 http://www.obayashi.co.jp/news/newsrelease/news200311/news20031128.html
 この文中にもあるように、覚林寺は、「1631年(寛永8年)に日延上人が開 いた由緒ある寺で、熊本藩主であった加藤清正がまつられています」と、微妙 な表現がされている。他のサイトでは、「加藤清正の位牌」が置いてあると書 かれている。やはり、菩提寺ではないということのようだ。
 どうも、今一つ、加藤清正と覚林寺との関連がはっきりしないと思っていた ら、下記のサイトを発見。「清正公は、朝鮮出兵時(文禄・慶長の役)に、朝鮮 国の王子を連れ帰り養育した。清正公は熱心な法華経の信者で、その影響を受 け成長した王子は、やがて出家し、小湊の誕生寺住職となった。この日延上人 が、後に覚林寺を開き、清正公を祀った。」と書いてある:
 http://www1.big.or.jp/~temple21/teramode/13/2kakurinji.htm
 さらに下記サイトによると、「加藤清正公は、朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役) に、朝鮮国の王子を連れ帰り養育した。清正公は熱心な法華経の信者で、その 影響を受け成長した王子は、やがて出家し、小湊の日蓮宗誕生寺に入門し,や がて最高位の十八代貫主の可観院日延上人となりました。貫主を退きのいた後, 寛永8年(1631)、熊本藩の中屋敷だった現在地に、清正公の随身仏であ る釈迦牟尼仏を本尊にして覚林寺を開き、寺の境内を花畑にしたりして、静か に30年ほどの余生を過ごしていた言われています。」とある:
 http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/teien/kumamoto-n2.html
 つまり、加藤清正により朝鮮国から連れてこられた王子が、貫主を退いたの ち、清正公の随身仏である釈迦牟尼仏を本尊にして熊本藩の中屋敷だった現在 地に覚林寺を開いたということなのだ。
 もっとも、加藤清正上屋敷跡は、憲政記念館内にあるという:
 http://www.kumamotokan.or.jp/NewFiles/tekuteku.html
 憲政記念館について:
 http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/kensei/kensei.htm
 江戸城に近い場所に加藤清正が屋敷を持ったというのも、下記サイトにある ように、「関が原においては家康を支持して東軍に属し、九州にあって西軍の 将、小西行長の各城を落す。戦功により、肥後51万5千石。従五位上、肥後守 に就任」ということがあるからだろうか。
 それにしても、何か物足りない。そう、朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役)に連 れてこられた朝鮮国の王子のことだ。いろいろネット検索してみると、朝鮮国 の王子二人を捕らえたという記述に出会う:
 http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/itiran/itiran/kato.htm
 下記のサイトを読むと、「去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す」「朝 鮮より王子・大臣一両人を人質とする」とある。この後者が加藤清正により朝 鮮国から連れてこられた王子なのだろうか。はっきりしない:
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm
 またまた中途半端な探索に終わった。いずれにしても、由緒あるお寺などの 近くに住んでいたのだから、その時に、もう少し、詳しく調べておけばよかっ たと、つくづく思ったものである。
04/05/06 記