(03/09/06 up)
あれはもう十年以上も昔のこと。俺たちが出会って間もない夏の夕方のこと
だった。
突然、遠くに雷鳴が轟いた。と思う間もなく、沛然たる驟雨が続いた。日中
から湿気がひどくて、夕立がいつ来るとも限らないとは思っていたけれど、ま
さかこんなに突然やってくるとは思わなかった。しかも雷さえ伴うとは。
夏の終わりを告げるかのような雷雨だった。俺は佑子と近くの駐車場の庇の
下に飛び込んだ。佑子は折り畳みの傘を持っているけど、差すより、とにかく
何処かに逃げ場を確保するほうがいいと思ったのだ。
「あーあ、お気に入りのバッグが濡れちゃった…」そう言いながら、バッグか
らピンク色の折り傘を取り出そうとしている。でも、何故かすぐに戻した。
五時過ぎまでは明るかったのが、一気に暗くなっている。車が水を跳ね上げ
ながら通り過ぎていく。傘を差した人が早足で行き過ぎていく。通りの向こう
では、新聞紙を傘代わりにして茶髪の男が駆け抜けていく。
不意に何処か近くからほとんど悲鳴に近い唸り声が聞こえてきた。犬の鳴き
声だ。二人して声のするほうを伺い見る。しかし、生垣の庭の縁側らしきとこ
ろに犬らしき姿が伺えるけれど、はっきり分からない。
すると、また、稲光が一閃し、やがて雷鳴が轟く。その稲光で竹垣の庭に柴
犬みたいな犬がいて、クィーン、キュイーン、と鳴いているのが見えた。しか
も、犬はブルブル震えている。明らかに雷鳴を怖がっている。
「犬って雷が苦手だったっけ。」
「さあ、分かんない。」
庭の中の犬を眺めながら、そんな会話を交わしていると、また、稲妻が周囲
を照らし出した。その時、犬の脇には猫がいることが分かった。
「猫よ。」
「ああ、猫だね。黒っぽい、それとも灰色なのかな、とにかく猫がいるね。」
今度は俺たちは、猫の様子を伺った。猫は雨を避けてか、縁側の下に潜り込
んだ。が、何故かすぐに出てくる。雨が気にならないのか、土砂降りの雨の中、
庭をゆっくりと歩いて通って、小さな小屋の中へ入っていった。
それは、どう見ても、犬小屋だった。理屈からして、あの犬の小屋のはずだ
った。
「ねえ、猫って雷が怖くないのかしら。」
「さあ、どうだろ。俺、猫に詳しくないから。」
「雨はともかく、雷鳴が轟いても稲光で真昼間みたいに明るくなっても、平然
って感じね。」
佑子も俺もペットの類いは飼ったことがない。でも、二人とも動物は好きな
のだ。ただ、こうして一種の極限状況の犬猫を見ると、俺も佑子も彼らの習性
を何も知らないことを痛感する。
「猫は、他の動物とかには敏感だけど、自然現象には鈍感というか、我関せず、
なんじゃないか。その点、犬は嗅覚も鋭いけど、耳もいいとか。」
「どうかしらね、猫だって音には敏感なはずよ。人には聞えないような音だっ
て、ビクッと反応して、耳なんかヒクヒク動くじゃない。」
俺は返事のしようがなかった。動物は何でも感覚が敏感なのだ。ただ、敏感
ということと、その音に対し怖がるということとは別だ、などと反論しようと
思った。しかし、一旦、議論が始まると、佑子の話は延々と続く。今はそんな
機会じゃない。
すると、佑子は話を続けた。
「でも、あの犬は、怯えすぎよね。あれじゃ、番犬には失格だわ。大体、犬小
屋があるんだから、怖いんだったら、小屋に潜り込んで、目でも耳でも塞いで
いればいいのに、どうして、縁側なのかしら。それとも縁側から身動きが取れ
ないってことかしら。」
「うーん、そうかもしれないけど、もしかしたら、飼い主に少しでも近いほう
って、本能で縁側に来てしまったんじゃないか…。」
「飼い主に近いほうに? じゃ、中に飼い主がいるってこと。灯りは点いてな
いみたいだけど。」
「いや、主が居ようが居まいが、とにかく飼い主の臭いの濃いほうに寄ってく
んだよ。」
そう言いながらも、俺にしても当て推量を言っているに過ぎない。
それより俺は、佑子のことが不思議だった。佑子は雷鳴が大嫌いのはずだっ
た。大概は、柱か何かにぴったり寄り添って、雷雨の通り過ぎるまで、目を閉
じながらじっとしている。少なくとも、いつかの話では、佑子はそう言ってい
た。
なのに、今日の佑子は、一向に怖がる気配がない。佑子の作り話? でも、
そんなことで嘘を吐くだろうか。
が、考えてみたら、佑子との付き合いは未だ日にちが浅いのだ。佑子のこと
を俺は何も知らないのかもしれない。それに、二人して居る時に雷雨に見舞わ
れたのは、今日が最初だったかもしれない。
「なあ、佑子、聞いていいか。」
「えっ、何? 改まっちゃって。こんなところでプロポーズ?」
「何、言ってんだよ。」
反発しながらも、プロポーズしたっていいかな、いいっていうサインなのか
なと一瞬、思った。
「お前さ、雷が嫌いだって言ってたよな。雷が来ると、怖くて、ブルブル震え
るんだって。でも、お前を見てると、そんな様子がちっとも見えないんだけど
…。」
「ああ、あの話ね。嘘じゃないわよ。わたし、雷が嫌い。というか、稲光がダ
メなのね。雷の音は、稲光がピカッと来てから、ゴロゴロって鳴るし、間があ
るから、なんと言うか、身構える猶予があるけど、稲光はいきなりじゃない。
いきなりってのがダメなのよ。」
車のエンジンの音が高くなった。アスファルトを踏むタイヤの音。駐車場に
車が入ってくる。やばい! 車の入り口が即ち出口で、俺たちが抜け出る場所
は一箇所しかないのだった。
俺たち二人は急いで竹垣の一角に身を潜めた。傘を差すわけにはいかない。
格好良く、俺のシャツを佑子の背中に着せ掛けてやりたくても、そんな時間的
な余裕などなかった。俺たちは、ただ濡れるがままになっているしかなかった。
俺は佑子の肩を抱き締めた。佑子の髪が俺の頬を嬲る。佑子の髪は黒い。そ
して柔らかい。俺は佑子の黒い、それでいてキラキラ輝く瞳と黒い髪に惚れた
ような気がする。佑子は性格が明るい。付き合いも広くて、俺は佑子にはワン・
オブ・ゼムなのだと思っていた。ただ、それにしては、佑子が俺のそばにいる
時間が長い。嬉しいけれど、鈍臭い俺には眩しい現実だった。どう理解してい
いのか、分からない。何処か持て余してもいる。
俺は濡れた佑子の背中をしっかりと抱いていた。
バム! ビクッとした。ドアが閉められたのだ。ワイシャツ姿の男が車から
離れて行く。俺は、男の行方を固唾を飲んで追っていた。しかし、すぐに彼の
姿が電信柱に消えた。何処に行ったのか、分からなかった。しばらくして立と
うとしたら、また、ドアの開く音がした。今度は女だった。手にバッグを持っ
ている。女もドアを閉めて、キーを車に向ける。一瞬、ウインカーが光った。
そして小さく、音が鳴る。ドアロックの音と思われる。ベージュのタンクトッ
プ姿の女の姿もやがて消えた。
二人が完全に消えてからも、俺は佑子の体をしっかり抱き締めていた。
気がつくと、雨は小降りになっている。雷鳴もすっかり遠ざかっている。例
の犬が依然として鳴いている。ただ、心なしか、最初に気づいた時よりは、鳴
き声が弾んでいるように感じる。周囲には誰もいない。体を起こして、とりあ
えず駐車場の隅っこか車の陰にでも場所を移動すべきだと頭の中では思った。
しかし、動く気になれない。今の状況を壊したくなかった。
不意に竹垣の家の明かりが灯った。竹垣を透かして庭の中を伺うと、犬が縁
側に前足を掛けて、体をピンと張り、尻尾をバタバタ振っている。猫は…。猫
の姿は見当たらない。相変わらず犬小屋の中なのだろうか。
やがて縁側の明かりも灯り、ドアが開けられて、男が犬に声をかける。犬の
尻尾は一層、激しく振られた。
俺は、依然として身動きが取れないでいた。佑子の濡れた髪や頬や背中を感
じつづけて居たかった。佑子もピクリともしない。俺に体を任せている? そ
れとも、やっぱり雷が怖くて、今ごろになって、体が硬直しているのだろうか。
一体、どれほどの時が流れたのだろう。さすがに、俺は動くことにした。た
っぷりと佑子のあったかな体を抱いたことだし。それに、今日のこの出来事で、
俺たちの仲はグッと縮まったはずだ。さすがにそれだけは鈍い俺も実感してい
た。
「ユッコ。もう、大丈夫だよ。怖がらなくていいよ。もう、雷も行っちゃった
し、雨も上がったみたいだし。」
佑子は足元が危うかった。まるでふらついているようにさえ感じられた。ど
うしちゃったんだ、佑子は?!
「大丈夫か、ユッコ」
「ううん、ちょっと濡れちゃって、動き辛いだけ。」
「そうだな、雨宿りのはずが濡れちゃったな。何処かで、服、乾かさないとな。」
俺たちは立ち上がって、雨宿りの場所を後にした。
駅への道の途中、ずっと黙っていた佑子がしばらくして話し始めた。
「ねえ、わたし、雷が嫌いって言ってたでしょ。あれ、嘘じゃないのよ。」
「なんだよ、そんなこと気にしてたのか。ユッコがそう言うんなら、そうだと
思うよ。別に気にしてないよ。」
「ううん、そうじゃないの。わたし、雷って嫌い。柱にしがみ付いたり、ベッ
ドに頭から潜り込んで枕とか頭に被せたりして、ブルブル震えてるの。」
「ふーん。」
「でも、それは一人の時のこと。誰か信頼できる人が傍にいる時は、違うのよ。」
そんなしおらしかった佑子が懐かしい……。
03/09/04 01:42

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