あるサイトで、懐かしいお菓子のことが話題に上り、小生は、「肝油をやたら
と食べたい! クジラの竜田揚げ、食べたい。中学校の近くにあったパン屋さん
のコッペパンを食べたい。マーブルチョコレートを食べたい。中学校の帰りに買
い食いしたコロッケ、懐かしい。ああ、切りがないね」などと書き込んだ。
端緒は、マーマレードをどう作るかとかが話題になっていた。小生、ふと、マ
ドレーヌ(プルースト)を連想してしまう。そして、「マドレーヌに限らず、何
かの食べ物(お菓子)を食べると思い出が蘇ることがありますね。それから懐か
しいお菓子とか」ということで、冒頭の発言に繋がっていったのである。
さらにその前に、小生は、「今もあるけど、懐かしい食べ物というと、落雁が
あるな。仏様のお下がりで、ガキの頃、食べた感激が忘れられない。近所の家へ
遊びに行くと、大概、お菓子があった。中でも、饅頭が御馳走だった。勿論、今
もあるけど、当時だったからこそ、贅沢な味だったのだ。
煎り菓子とか。そういえば、大きな大砲の形の金網みたいな容器に米を入れ、
グルグル回して、紐(?)を引くと、ドンという大きな音がして、ポップコーン
モドキのお菓子になった奴。これは食べるのも楽しみだったけど、見物するのが
楽しかった。今時、見たことないけど。」とも書いている。
懐かしいお菓子、懐かしい食べ物、懐かしい味には、あれこれ数え上げ始める
と、切りがないし、語るべき多くのことが浮かんでくる。
肝油のこと、コッペパンのこと、竜田揚げのこと、「ポン菓子」のこと、それ
ぞれに固有に纏わる思い出話があるが、とりあえず、今回は、落雁を中心に。
極端に貧しかったわけではないが、食生活が豊かというわけでもなかった。け
れど、今ほどの多彩さがないからこそ、一つ一つの食べ物、お菓子、駄菓子の類
いへの拘りや思い出が深い。
落雁について言うと、まさに、仏様のお下がりで、子供の頃は、お八つの時間
に出てくるようなことはなかった。贅沢品だったのだろうか。
ネット検索して落雁のことを調べたら、下記のサイトを幸運にもヒットした:
「第5回 饅頭と落雁」「〜富山の和菓子職人〜 陶 智子(すえ ともこ)」
http://www.tkc.pref.toyama.jp/furusato/teshigoto/t99-5.html
テーマが「富山の和菓子職人」と絡めて展開されているし、語り手は、富山女
子短期大学文学科国文専攻専任講師(平成12年当時)である。生まれ育ちが富山
の小生には、うってつけのサイトにめぐり合ったという感じだ。
(睡眠と休憩をしっかり取ると、何故かネット検索でもヒットの確率がいい。不
思議だ)
その文中、「富山県は呉羽山を境にして多くの点で差異が見られるということ
は周知の事実である。菓子においても、同様のことがいえるのではないかと考え
られる。主に加賀藩前田家の領地であった呉西地域においては、京風の茶席など
で用いられるような菓子店の数が多く、富山藩前田家の領地であった富山市を中
心とする地域では、饅頭、羊羹といった個別の菓子を主に商うような店が、古い
伝統を受け継いでいる」という記述がある。
「富山県は呉羽山を境にして多くの点で差異が見られるということ」については、
小生も、富山のことを話題に出すたび、しばしば指摘してきたことである。
その上で、「金沢では前田家が藩主であった時代から茶道が盛んであったため、
茶会で供される和菓子が発達した。加賀藩の領地であった高岡でも同様のことが
考えられるのである」のであり、「富山藩前田家の領地であった富山市を中心と
する地域では、饅頭、羊羹といった個別の菓子を主に商うような店が、古い伝統
を受け継いでいる」のだが、富山市の外れの農地だった我が家は、そうした文化
圏からは、やや(相当に?)洩れ零れていて、小生が幼少の頃は、特に落雁につ
いては、そうそう目にできるものではなかった。
このサイトには、「ポン菓子」のことについても記述がある。
「祭りのときのものとばかり思っていたが、富山県の漁村では、漁師たちが間食
として日常に食していたことがわかった。たいへんな労働であるから、間食とし
て「ポン菓子」を日常的に食べることはエネルギーの補給という意味でも理に叶
っているのではなかろうか。」とあり、「びっくりするような大きな音とともに
出来上がる、ほんのり甘い米であってもはや米ではなくなった菓子は、美味しい
お米がとれる富山に深く根付いた駄菓子である」だという。
せっかくなので、落雁を作る金沢の老舗の店を一つだけ、覗いて見たい:
「(株)落雁諸江屋」
http://www.kanazawa-ya.com/xrakugan.html
「落雁は落雁粉とよばれる糯米(もちごめ )の粉と砂糖、とくに四国の和三盆を
使う。口のなかで、すっと溶けるほどけの良さ 、あと味のさらりとした甘さ、
和三盆の味わいを引き出すには、落雁を打つ方法にコツがあ」り、「表面は硬く、
中はふんわり、表面が溶けた時に口のなかで一気にふっと広がるように木型に叩
き込む」のだとか。
あの、食感が思い出される。
お菓子の種類の豊富ではなかった当時にあって、饅頭、羊羹とは違う、蕩ける
ような、でも、さらっとした甘さの味わい、食感は貴重なモノだった。
文中、「和三盆」という言葉が出てくる。「和三盆は白下糖を盆のうえで3度
練ったことからその名がある」とか。
和菓子のいいのは、お茶との相性の良さに尽きるような気がする。その和菓子、
和菓子というと、やはり京都というイメージがある。上掲の金沢の店も、京都の
流れを汲むようである。
さらに、京都の食べ物というと、薄味というイメージが小生ならずとも、ある
のではなかろうか。子どもの頃、事情があり、両親に連れられしばしば京都の宿
などに滞在したことがある。
宿の料理の細かなことは、すっかり忘れてしまった。ただ、覚えているのは、
何処かの蕎麦屋だったかに入って食べたうどんの味。味がしない! 農家の人間
であり、北陸の人間(東北もそうかもしれない)は、濃い味、塩味が大好きなの
である(言い訳すれば、重労働で汗をタップリ流すので、塩分の濃い食べ物が不
可欠だったのだ。でも、前提として塩の入手が容易だったという点を鑑みる必要
があるかもしれない。この点は後日、機会があったら触れてみたい)。薄い味、
微妙な味付けの食べ物は、てんで受け付けない。
ましてガキの小生は、うどんを食べて、何、これ? という思いしかなかった。
京都はどうして和菓子が発達したのだろうか。薄味の食べ物が発達したのだろ
うか。
薄味の食べ物。今でこそ、ヘルシーだとか、和菓子はカロリーが低くていい、
なんて言われて見直されたりしているけれど、古の京都の方たちがカロリーが低
いとか、ヘルシーだという認識があったのだろうか。
それとも、何かの理由があって、そのような、よく言えば洗練された食品を模
索せざるを得ず、結果として薄味だったり、カロリーが低かったりしたというこ
となのだろうか。
ここで、銘菓の老舗、銘菓・亀屋本店の現当主に登場願おう:
http://www.lonseal.co.jp/articles/004.html
文中、亀屋本店さんの歴史を語られているが、和菓子の歴史についても語られ
ている。
「もともと古代の日本では果物・木の実を総称して『くだもの』と呼んでおりま
して、漢字が導入されるとそれに『菓子』の字をあてたのです。ですからお菓子
というのは、自然界の果実や実のことだったのですね。そうした状況の中で、や
がて遣隋使・遣唐使の時代になり、中国大陸から、穀物を主原料として加工した
お菓子が伝わってきました。唐のお菓子と書いて、『からくだもの』と呼ばれた
ものがそれですね」
なるほど、「果実とは違うが、嗜好品である点が同じであるために『菓子(く
だもの)』の類とされたのではないかという」のである。
さらに、「唐菓子は仏教とともに伝わりました。それまでにも米や麦を粉にし
て水を加えた団子のようなものは日本にもあったようですが、唐菓子はもち米、
うるち米、麦、大豆、小豆などの粉に甘味料を加えて練り、餅としたり、さらに
油で揚げたりしたものだったのですね。たとえば羊羹の『羹』という字ですが、
あれはもともとは『あつもの』という意味なのです。『羊』という文字がその中
にありますが、元来仏教においては、肉食が禁じられていますから、穀類を餅状
にして焼いたり蒸したりすることによって、いかにも羊の肉のようにしたのです。
歯ごたえが肉に似ているというものが徐々に姿を変えて、唐菓子というものにな
ったのです」という発言は興味深い。
なんだか、「唐菓子の伝来当時は、多くは宮廷の節会や大寺、大社の供物とし
て用いられ、庶民にはまだ縁遠い存在だったという」以下の文章も、全文を引用
したくなる。
千利休や茶の湯との関わりが深いわけだ。この辺りの記述で、注目すべきは、
当時は、「その理由としては、まず、砂糖というものが日本では非常に高価な物
だった」、それゆえ、「千利休が茶会に用いた菓子を調べてみると、麩焼(ふや
き)がもっとも多く、栗、しいたけ、いりガヤ、昆布などがそれに次ぐという。
麩焼(ふやき)は小麦粉を水で溶いて焼き、味噌を塗って巻くという素朴なもの
で、千利休のころまではこういったものを手作りにして茶席に用いることが多か
ったようだ」という点だろう。
その砂糖、元禄の世になっても、庶民には高嶺の花だったようだ。
面白いのは、「甘ければ甘いほど良いお菓子という評価は、おそらく昭和40年
くらいまではそうだったのではないかと思います」という指摘だ。そうだ、確か
に小生がガキの頃だった、昭和40年前後までは、甘い物は、めったに手に入らな
い珍しいものだった。
さて、しかし、お菓子について、砂糖も高級で、代用品で甘味を出すしかなく、
ほんのりした甘味が和菓子の特徴になる必然性も、多少は分かった。しかし、そ
れは、あくまで、甘味の点で薄味になったことの説明である。
通常、薄味というと、単純には塩分の濃淡において薄い食べ物を指す。この点
の由来はどうなのだろうか。やはり仏教との絡みがあるのか。それとも、入手で
きる素材が自然のもの、天然のものだから、必然的に薄味になる…?
どうも、議論に隔靴掻痒の感が否めない。
やはり、文中で、軽く触れるだけに留めた塩の入手の難易度と無縁ではないと
考えるしかないようである。
以下は、小生が、昔、聞いた話であり、まだ、しっかりと裏付けが取れている
わけではない。
京都は、昔から戦乱の巷であり、幾たびもの戦乱で焼き払われたりしてきた。
当然、物流も途切れることがしばしばである。なにしろ盆地なのだし、交通の要
衝であり、権力の象徴の中心でもあり、どんな物資を持ち込むにしても、一度戦
乱の世となると、戦の中心地になり、入手が困難になる。時には数ヶ月、あるい
はそれ以上、物資が入ってこない。中でも、水と塩という不可欠のものが欠乏し
がちになる。
水については、盆地ということで山(森)から入手は可能である。食べ物も、
選り好みさえしなければ、山(森)などから植物や山菜、木の実、根っ子、その
他を得ることができなくはない。
しかし、塩となると、話は別である。こればかりは、京都においては自前で獲
得することはできない。外地から何らかのルートで確保するしかないのだが、し
かし、確保を保証するすべがあるわけではない。貯えもいつまでも、というわけ
にもいかない。
よって、いざという時に備えて、自然と、塩がなくても、塩分が薄くても大丈
夫な生活を送るしかなかったわけだし、料理をするにしても、塩分を極力控える
工夫が重ねられてきたのだ…、そんな説を聞いたことがある。
この話の前提としては、他にも触れるべき点がある。それは、やはり塩分の補
給の必要性という点に関わるのだが、そもそも京都に居住する大多数は、宮中の
人、寺社の人であって、農民など重労働の人間は、影の薄い町なのである。つま
り、汗水垂らして働く必要はないわけで、当然、塩分をたっぷり補給する必要も、
もともとそれほどなかったというわけである。
このことが、京都の薄味で洗練された料理や和菓子の発達を促進せしめたと言
えるのではないか(この見解は、別に小生独自のものではないと思う)。
しかし、現代、文中に出たように昭和の四十年をある程度過ぎてからは(我が
家の場合は昭和五十年前後の頃から)、重労働を余儀なくされる人も少なくなり、
結果として品の良い甘味、カロリーの低い食べ物が見直されるようになり、京都
で育まれた伝統が今に生きるようになったわけである。
落雁のことを調べようと思って、話があちこち飛んでしまった。でも、内容に
おいて、とんでもないわけではないと信じたい。
昔懐かしい落雁を、美味しいお茶と共に、心静かに喫して見たいものである。
ただ、表題が落雁だということもあるが、饅頭のことに触れられなかったのは、
心残りである。いつか、また、触れてみたいと思っている。
04/07/05 記
2.精進料理から宇宙を想う
(04/06/28 up)
植物性の材料で作る料理。肉食などの美食を避け、粗食に甘んじる。
精神修養のため。釈迦が修業の後、下山したとき、極度の疲労と栄養失
調で倒れたので、村娘が供養のために捧げたのが醍醐味で乳製品の一種
だったという。
日本においても精進料理の歴史は様々にあるが、鎌倉時代の禅、更に
は永平寺の開祖で曹洞宗の宗祖でもある道元禅師は、日常生活の中で厳
しい修行を行った。それが今日の日本の精進料理の原型をなしたと言わ
れている。
精進料理は味が淡白を旨とする。調味料としては(かつお節もあるが)
主に、シイタケ、昆布、ごま油、卵は用いてよいとされたという。その
上、酒(!)も大事な調味料とされたというのである。
江戸時代に入って、みりんも加わったという。江戸時代の料理書には、
かつお、塩、新酒、昆布、干しかぶら、干しだいこん、梅干なども味付
けに使われたようだ。
精進料理の成立には、やはり中国の影響が大きかったようだ。但し、
調理法における成立過程でなんといっても京都が中心地だった。その京
都では、地の利からして海から遠く魚介類が使いがたく、結果としてダ
イズ(豆腐)などの植物性の材料に依存するようになったとも考えられ
る。
ということは、日本の文化の中心地が海辺だったら、精進料理にも味
わいは淡白になるのだとしても、味付けに使われる材料としては魚介類
がもっと豊富に使われた可能性もあった…のかもしれない。
近世において中国渡来の精進料理が伝わったのは、江戸時代に黄檗宗
の開祖である隠元禅師によるものだった。彼は材料は植物性であっても、
味は、更に形さえも動物に似せたものを作ったという。それを擬製料理
と呼ぶらしい。
中国において、そもそも精進料理なるものがあるのかどうか、それ自
体を小生は知らない。日本独自のものか、あるいは世界にはそれぞれに
精進料理と称されるものがあり、我々が知るような、つまり、できるだ
け材料に植物性のものを使うという基本的発想に基づくような精進料理
が特殊なのか、識者の教えを請うものだ。
黄檗宗が材料は植物性だが、形や味において動物に似せるというのは、
もともと中国においては動物も平気で使われていたのだが、日本の禅宗
などの影響を受けてそうなったのか。それとも、中国においても、擬製
料理法が当たり前だったのか、疑問は尽きない。
[以上の情報は主に『NIPPONICA 2001』による ]
さて、小生が柄にもなく精進料理などを話題にしたのには、幾つか理
由がある。昨年末に友人たちと箱根の温泉地に集まって、様々に雑談に
花を咲かせたのだが、何かの話の流れで、宗教(仏教)において、精進
料理という時、植物に限るというのが気に食わないとか、あるいはベジ
タリアンが、肉食を忌避し、植物食だけだと自慢気というのか、さも高
尚らしく主張するのが気に食わないという話になったのである(ほとん
ど小生の主張だった)。
本当に命を大切に思い、食べ物を大切に思うなら、動物も植物も生命
体という点では同じではないか。どっちかを高尚だとか、どっちかを殺
して食べてもいいとか判別するのは、あまりに身勝手というか、ご都合
主義の主張に過ぎないのではないか、と述べたのである。
なるほど、生命の種という点では、動物は本来動物たる人間に近いわ
けだから近い主を避けるという意味で動物食を避け、植物食を旨とする
というのは当然といえば自然なのかもしれない。
が、宗教的観点に立つなら、動物も植物もないのではないか。どちら
にしても殺生に違いないのではないか。それとも仏教においては植物を
殺すことは殺生とは見做さないのか、その点は小生は知識がない。
が、たとえ仏教において植物を殺すことを殺生とは見做さないのだと
しても、小生は殺生と見做す。動物を殺すのはダメだが、植物を殺すの
は構わないというのは、ご都合主義の極なのだと考える。
そもそも、殺生をいけないというなら、この世の生きとし生けるもの
の総てについて、殺すことは殺生なのであり、そうせざるをえない人間
(生命体一般)の罪深さを思うべきなのである。
この観点からすると、命の尊さを思うなら、思い知るなら、仏教徒と
して修行を積むものほど、積極的に植物のみならず動物をその手で殺し
て食べるべきなのだ。食べるたびにそうした営為を行うなら、きっとや
っていることの残虐さに少しは気付き、修行の足しになるかもしれない。
そういえば、箱根の宿での談義で、ジャイナ教にまで話が及んだもの
だった。ジャイナ教は仏陀と同時代のマハービーラによって創設された
宗教で、インドでは今日でも命脈を保っているという。不殺生を誓う厳
格な禁欲主義の宗教として知られている。
マハービーラは、動植物は勿論のこと、地、水、火、大気をよりどこ
ろとする大小さまざまな生物の存在を認め、生命の尊厳を訴えたという。
そもそもジャイナ教というのは、この宗教が勃興した当時、「バラモ
ン教徒の間で行われていた犠牲祭を批判し、かつ、バラモン教徒の依拠
していたベーダ聖典の権威を否定」したところから始まったのだ。
ジャイナ教の教えでは、宇宙は世界と非世界からなり、世界は諸実体
からなり、非世界は虚空のみが充満する。ジャイナ教では、前述のよう
に、動植物は勿論のこと、地、水、火、大気に至るまで霊魂の存在を認
めている。従って、もっとも理想的な死とは(生き方とは)断食であり、
断食の果ての死なのである(もっとも現実的には、断食死は、飢饉の際
とか老齢、不治の病などに限って許されるものとされている)。
[ジャイナ教に関する情報は主に、『NIPPONICA 2001』による ]
このジャイナ教については、埴谷雄高の小説『死霊』において、究極
の対話の相手として想定されている人物の思想として描かれていること
は有名である。小説の中のこの人物は、飢餓に瀕しているわけでもなけ
れば不治の病に罹っているわけでもない(老齢になっているかもしれな
いし、頑固な思い込みという不治の病に罹患しているかもしれないが)。
小生は、これは小生の勝手な思い込みだが、遠い昔、仏教が日本に歴
史上、渡来するよりも前に、釈迦の教えはインド人の渡来と共に伝わっ
ていると考えている。その中の一つとして、ジャイナ教的思想も流入し
ているのではないかと思っている。生きとし生ける総ての存在に魂の、
神の存在を見る信仰(信仰というよりもっと土俗的なレベルでの情)が、
極東の日本において土着したのだと思っている。
湿気があり総てが黴や苔に覆われ、あるいは錆びていく。何もないは
ずの砂地や岩の隙間から草が生えてくる。やがて虫が湧き、花だって咲
き誇るようになる。そんな風土にはジャイナ教が明確な形ではないとし
ても、土着してもおかしくないような気がする。
ま、ジャイナ教はともかくとして、「動植物は勿論のこと、地、水、
火、大気に至るまで霊魂の存在を認める」発想法というのは、今日にお
いては、あるいは今日においてこそ、もっと喧伝されてしかるべき思想
のような気がする。息をするだけで無数の命を取り込み消化する(つま
り殺生する)…、そのようにしか生き物は生きて生けないのだという自
覚。
生命と物質とは確然と違うのだけれど、しかし、では敢えて境目をつ
けるとなるとウイルスという特殊な存在に至ってしまう。また、生命体
であっても、ウイルスと細胞との間にも無数の段階があるし、細胞と多
細胞生命体との間にも無数の変異体がある、多細胞生命体にもクラゲや
腔腸動物などと人間などとの間に際限のない階梯がある。
そもそも物質と生命とは、全く別の存在体なのだろうか。地球は一個
のダイナミックな活動体なのではないか。あるいは宇宙自体が、想像を
絶する規模と複雑さとを持つダイナミズムそのものなのではないか。
精神や論理は頭の一部やコンピューターに局在するのかもしれない。
しかし、心とか、もっと広く宇宙に共感する命というのは、生きとし生
けるものの総てが共有する大いなる宇宙の音楽のようなものなのではな
いか。
人間が何であれ、ものを食べるというのは、命を食べることである。
命はある意味で宇宙のエッセンスを体に取り込むことなのだと思う。ど
んなものを食べるにしろ、口にするものは精進料理なのだと思う。
宇宙や命や、ありとあらゆる存在を心に浮かべつつ口にするならば、
だけれど。
03/01/04 記
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