醜貌恐怖レス集

 
[小生が書いた冒頭のエッセイ「醜貌恐怖」に二人の方からコメントを戴きました。しかし、肝腎のお二方(SDさん、SYさん)のコメントは、残念ながら掲載の許可を戴いておりませんので、小生のエッセイと、彼らのコメントへのレスのみを以下に公表します。](02/09/08)



醜貌恐怖


                                            02/08/28

 徳永進『隔離』(岩波現代文庫)を読んだ感想をアップしたことがある。
 以下では、ライを離れて、もっと一般的に外貌コンプレックスについて簡単に 触れたい。
 近年、「ユニークフェイス」という名の団体の活動が、活発であり、それなり に世間においても知名度を得ているようである:
 http://www.jinken.ne.jp/problem3/face/

 小生は、こうした活動には一切、関わっていない。多分、関わることもないだ ろう。小生には、彼らのような勇気はないからである。
 しかし、ユニークフェイスとは、本来、奇妙な表現である。そもそも、誰だっ て自分の顔を自分だけのものと思っている。世の中に自分の顔に似た人が3人は いる、などという俗説があるが、仮にその説が正しいとしても、3人に過ぎない。
 それほどに、人それぞれ、自分の顔はユニークなのである。ぱっと見ると、時 に平凡なような顔が(この場合、平凡な顔とは、見た後に印象が何も残らない、 という意味合いにしておく)多いようだが、しかし、当人は勿論のこと、その当 人の家族や友人や知人がその人を見分けられないはずもない。
 また、顔には、誰にも特徴があるらしい。漫画家や似顔絵を描く人は、即座に 見分けて描いてみせてくれる。描かれ提示されると、ああ、似ている! 俺って こんな顔なんだと気付いたりする。
 とにかく誰だって自分の顔(知人の顔)はユニークなのである。代替は決して できない。多少、化粧や髪型や眼鏡etc.で印象を変えられる。しかし、知人(家 族)は、その人が誰かはすぐに分かる。
 にもかかわらず、「ユニークフェイス」の会が、敢えてユニークフェイスを事 挙げするというのは、きっと、理由があるのだろう。小生は会の関係者ではない ので、以下は小生の勝手な臆断に過ぎないとして、読んでもらいたい。
 つまり、どんな容貌、外貌をしていて、時に人に蔑まれたり、後ろ指を指され たりしても、そもそもその人の顔は、その人のものとして、固有のもの、己のも の、己の人間としての尊厳を示すもの、大切な掛け替えのない人間性の象徴なの だということだ。
 人間としての尊厳性、つまりは固有の人間としての尊厳、感情を持った普通の 人間としての尊厳、そうした考えを示す表現と主張として、ユニークフェイスと いう言葉が選ばれているものと思う(間違っていたら、あるいは誤解があるなら、 指摘して欲しい)。

 さて、人間は外見ではない、中身なのだ、人間性に尽きるのだという言い方が ある。
 小生は、この考え方を全く受け付けない。体験からしても、それなりの反省の 結果からしても。
 それは、外見が悪いと、損だし、そもそも普通の人と同じ土俵には乗れないと いうことに止まらない。
 人間性は、結局は外見に現れるのだということだ。
 人間が外見でないとは、一体、どういう意味だろう。外貌の下、肉体の中に隠 されているということなのか。胸の奥に、あるいは脳味噌の基幹の部分にでも人 間性が温存されているということなのか。
 きっと、そうではないはずだ。いかつい顔をしていても実は優しい人なのだ、 とか、無愛想に見えるけど、付き合ってみるとコマメに気遣いをしてくれる人な のだ…、ということを言わんとしているのだろう。
 ということは、要するに、付き合うという外的な現象(行動)の場面において、 その人の人間性が現れうるということ以外の何物でもない。
 つまり、ここではこの点を追求するつもりはないが、人は人を理解しえる。内 面性という形で湖の水面下にその人の優しさが隠されているとしても、しかし、 付き合う中で、他人はやがて、その人の人間性に気付く。理解できる。
 この理解できるという点が大切なのだ。人間性は他人に理解できるという点に おいて、外見そのものに帰着するのだ。他人に理解できない人間性というのは、 外見に阻まれた人間性というのは嘘だと思う。人は人を理解しえるという点を無 視している。
 人は外見なのである。
 が、ここには、ある前提がある。そもそも普通の人と同じ土俵に乗っていると いうことがないと、理解も何も始まらないのだ。
 そして、醜貌コンプレックスに悩む人というのは、その人間としての理解可能 はステージそのものに立つこと自体が、遥かに遥かに困難な、実際には不可能に 近い夢なのである。
 街中で他人にジロジロ眺められる。その目は軽蔑か蔑みか、好奇の目である。 そこには、その眺められている人間への(眺められているのは人間なのだ!)へ の配慮の欠片もない。
 あるのは、自分があんな人間でなくてよかった、という安堵の念である(昔、 自分は、世間の人に、街中を歩いているだけで安堵の念を与えられるのだ、と自 分を慰めようとしたが、できなかった。そこまで心の広い人間ではなかったのだ)。
 眺めている人間は、同情か好奇か軽蔑の念で満たされている。眺められている 人間が、自分たちと同じステージで生きることは、今生、ありえないと、思い込 んでいる。
 その思い込みは、あまりに正しすぎて、疑われることなどありえない。醜貌や、 ある種の偏見の対象である精神的障害を負っている人、身体障害の方は、世間の 水面下に生きることを宿命付けられているということは、当たり前すぎて、そこ に不可解があることなど、思いもよらないのだ。
 世の中には、死に至る病に苦しむ人がいる、様々な偏見に虐げられている人が いる、親にさえ虐待されてやっとのことで生き抜いてきたひとがいる…。
 それに比べれば醜貌など、どれほどのことがあろう。たかが顔(外見)のこと ではないか、行動の上で支障が在るわけじゃなし、何処かに行くこと、何処かの 店に入ることが醜貌の故に禁止されているわけじゃなし、そんなことで悩むなん て贅沢だ…。
 逐一、ごもっともなのだ。反論の余地もない。
 そう、何でもできるし、禁止されているわけじゃない。
 が、現実には、目に見えな強烈なバリアーが至る所に張り巡らされている。暗 視装置でもないかぎり、つまり、ユニークフェイスとして生き抜いてきた人でな い限り、決して見えない不可視の殺人光線が縦横に駆け巡っている。
 それは、まさに殺人光線である。少なくとも、心を殺すには十分すぎるほどの 破壊力がある。
 それは人の視線であり、自意識という眼差しなのである。その視線光線から逃 れる術は、この世にはない。部屋の中に閉じ篭る以外には。
 否、自意識という光線がある以上、目を閉じても心を閉ざしても、死の放射線 は心を、やがては肉体をも徐々に蝕み滅ぼしていく。
 何故、肉体をも蝕むのか、それは心の衰亡が生命力の衰退に繋がるからである。
 恐らくは無関心な世間の目には、自滅に映るだろう。
 正しく、自滅なのかもしれない。少なくとも、世間の日常の場面の中で死の光 線が火花を散らしているなど、到底、想像も及ばないことだろうし。
 部屋を出る、何処かへ行く。ただ、それだけのことに、どれほどの覚悟がいる ことか。世間の眼差しに耐えること、人の侮蔑と好奇に満ちた無数の目に心の肉 が刺され、ただでさえ磨り減っている神経が、ますます削られていく。 
 神経が削られる! その覚悟を十分に整えた上で、やっと外出がなるのだ。ほ とんど、戦の時の出陣みたいなものだ。
 心から情が失われていく。大地が乾いていく。心の肉が潤いをなくして、水気 を失い、やがてサラサラの砂となって、風に吹かれ、何処へともなく消え去って いく。
 自分にしても、高校や大学の日記には、枯れた心、パサパサの心と、何千行と 書き綴った。疲れきってしまったのである。
 心がない。何も感じない。感じることを忘れた心。感じることに怯えきった心。 感じることに恐怖して、この世に育つ前に萎縮してしまった心。
 人生に疲れきったと初めて感じたのは、保育所時代だった。好奇の目。視線の 地獄。子どもの目。一番怖いのは子どもである自分の目だった。決して逃げも隠 れもできない現実。
 自分が生きる余地というものが、この世にはないという自覚。一体、生きてい く余地は、何処にあるのか、見当も付かない。人とは違う次元を何が何でも探す こと。しかし、人間のいない世界など、ありえようはずもない。
 そうして、小学校に上がる前に疲れきってしまったのだ。生きることを放棄し て、完璧に密閉された異次元空間の中で、命のない夢を見ることに決めたのであ る。
 弱さ。生きている以上は、他人と交わることは、決してないことをしみじみと 痛感した、あの日。
 この世を見るほどのものは、何一つ見ないうちに、自分の目はこの世を眺める ことを恐怖してしまった。目は虚ろ。目は何も見ない。何も見ないことによって、 やっと生きる余地があるかもしれないと期待したのだ。
 きっと、自分がガキの頃に決めた生き方は、間違っていたのだと思う。思慮が 足りなかったのだと今になって、思う。バカな奴だと思う。でも、もう、取り返 しがつかない。失われた、あるいは勝手に自分が放棄してしまった人生は、取り 戻しようがないのだ。
 感じる心が欲しい。渓流のせせらぎの音、木の葉を伝い落ちる雫、青い空に浮 かぶ白い雲、赤子の命…。
 心と心が交わりだなんて贅沢は望まない、せめて肉体の触れ合いだけでも…。
 こんな愚昧なことを考えつつ、朽ち果てていくのだ。
 人生を始める前に、人生から撤退してしまった人間。
 自分が小説にしろ、エッセイを書くにしろ、目指すのは心だ。感じる心をいつ か実感できることだ。自分をこの世に生きさせることだ。自分が生きたという瞬 間を得ることだ。それ以外に目的はないのである。


RE:選別という美


                                            02/08/30

 SYさん、こんにちは(ん? 名前が変わった?)

 小生の、少々厄介な文章にコメントをしてくれてありがとう。
 文章を書いていて、難しいのは、特にこういったやや厄介と言うか込み入った テーマを書いている場合、自分の生の感情のレベル(このように感じている)と、 そうした感情を踏まえてどう考えているかを截然と分けることです。
 小生の、「醜貌恐怖」には、特に幼い頃、物心付くか付かない頃の、生な感情 を描いた部分に焦点を合わせて書いてあります。
 つまり、その子はそのように人生を、自分を(やや、ハヤトチリに)感じてし まったという部分です。
 が、当然、感じるだけが人間の精神生活の全てではないわけで、感じる自分を どう受け止め理解し、自分をどの方向へ持っていくかという意志と思考のレベル があるわけです。
 自分であんな文章を書いていながら、自分のことをなんて卑屈で甘ったれた根 性の持ち主なんだろうと感じ(この場合の感じは、心の鏡に自分を映して率直に 感じるレベル)、そういう自分を自分なりに否定したり、もっと広く人生を考え ようとしたり、あれこれ試行錯誤や暗中模索や、ま、ジタバタをするわけです。 
 醜貌恐怖は、まず、端的に生な感じる部分に焦点を合わせることに熱心なあま り、そこから先の反省がほとんど描かれていません。
 SYさんのおっしゃられるように、自分で自分を認めてあげるというの は、とても大切だし、素敵な姿勢だと思います。
 きっと、そうした部分を(小生もそうしたささやかな努力はするわけですから) 描かないと、読まれる方は、うんざりするか、なんだよ、甘ったれるなよ、俺だ って俺なりの苦労があるんだ、そんな人の繰り言など聞いていられるかよ、とな るのは当然なのですね。
 小説などの形で、しっかりいろいろ輻湊する感情や思惑や願望や意志やetc.を 描き込めれば、それなりの作品にはなるような気がします。
 但し、その場合、読み手に同情を求めるだけではなく、何か救いのようなもの、 読後に爽やかな感じを与えられるものでないと、書く値打ちも、まして読む値打 ちもないわけです。
 小生には、まだ、嘘偽りない形で自分のこだわりを昇華できていない、あるい は正面から拘りに向き合えていないと感じてる。中途半端な状況にあると思って います。
 だから、掌編などを書いて、遊んでいる段階に止まっているわけですね。

 酔えるSYさんへ、未だ酔えないM庵、もとい、Qより。



RE:醜貌恐怖

                                          02/08/30

 SDさん、コメントをありがとう。
「自分が美しいか醜いかということでは、男性より女性の方が、それこそ何十倍も 思い悩んでいるでしょうね。」
 という指摘は小生も納得します。
 恐らくは、世の多くの女性は、物心付いた時から、数多くの機会に、容貌につい ては、鈍感なる男には想像も付かないほどに悩んだり、視線の魔術を学び尽くして いるのだろうと思います。だからこそ、化粧にそして、生理を経験することで清潔 さを保つことに狂奔するわけなのでしょう。
 男はロマンチストであり、女はリアリストであると、俗に言われたりしますが、 男は夢を見ていられるけれど、女性は、現実感が命なのでしょうね。
 小生には女の姉妹がいますが、二人ともまともです。若くして早々と結婚しまし た。
 小生は、ガキの頃、自分のために姉達が結婚できなかったらどうしようと、内心、 随分、心配していたものですが、杞憂に終り、結婚した際、安堵の胸を撫で下ろし たものでした。
 そして、ガキの頃、感じていたのは、姉達がまともで良かったとつくづく思った ことです。もし、姉達が一人でも小生のようだったら、それは鏡、それも幾層倍に も悩みを増幅する反射率最高の鏡だっただろうと思います。
 小生のようなひねくれ者は、仮に女だったら、決して表には出なかったろうと思 います。引きこもり以外に人生の選択肢はありえなかったはずです。
 男なら、普通か、それ以下の顔であっても性格や実力や人柄やその他の頑張りで かなりを補うことができますし、そもそもそれほど頓着さえしない人も多いに違い ない。
 が、それが女だと、ブスの場合、人間以下の扱いです。男によっても、そして女 によっても、徹底して蔑まれたり哀れまれたりするわけですね。
 以前、よくAVを見たものですが、それなりの顔の女優なら、名前(勿論、源氏 名でしょうけど)が紹介され、女優扱いされる。でも、ブスだったりすと、バッタ もの扱いです。名前が出ないだけではなく、これ以上ないほどの企画物のその他大 勢扱いされる。
 何かの小説で、ブスな女相手にセックスしてしまった男が、女が汚らわしいと虐 めたり、邪険に扱ったりしてしていました。汚らわしいのは、そういう相手であっ てもセックスしてしまう己の肉欲の見境なさが、そのブスの女という鏡に映って見 えたからなのでしょう。
 それでも、大概の男も女も結婚します。少なくともペアになります(一時的なペ アか長続き巣するかどうかは別として)。
 でも、内に篭ったルックスのいい女たちへの嫉妬と怨念のようなものは、子ども へ、そして更にその子どもへと受け継がれていくわけですね。
 現代は(と、つい、一般化してしまう小生の悪い癖)ルックスの時代です。外見 重視、映像重視の時代です。これは、テレビや映画、ビデオ、雑誌、舞台や街頭で のパフォーマンスも含めて、対他的にどう映るかが(至上ではないにしても、至上 だとは言わないとしても)かなり思いウエイトを持っている時代だと思います。
 小学校の低学年の女子生徒さえ、化粧に現を抜かす時代に突入していますし。
 経済的に貧困が差し迫った問題ではなくなった日本やアメリカでは、家柄や経済 力や学歴とん並んで、男も女もいい男、いい女が持て囃される時代なのです(いい 男、いい女の定義は各自がすればいいことです。ありとあらゆるいい男、いい女の 定義を羅列しても、いい男やいい女として妥当するのは、男も、女もそのうちの一 割もいないでしょう)。
 圧倒的な格差というか序列が生じていくわけですね。
 女の女を見る目のシビアーさ、女の男を見るシビアーさ。女性が経済力を持ち、 自立の程度が高まれば、仕方なく男性に生活の上で依存していた女性たちも、本音 を剥き出しにし、多くの男は相手にされなくなるでしょう。
 ま、そんなことなど気にせずに、自分なりの楽しみを見出したほうが勝ちなのか もしれない。これからの時代の一番のギフトは、形に拘らず生きていること自体を 楽しめる才能なのだろうと思っています(これが自分に一番、欠けているものだと も自覚してます)。



RE:美顔恐怖

                                           02/08/31

 SDさん、こんにちは。

 野暮と思いつつ、ま、今更、風流を気取っても仕方ないので、小生らしく生真 面目に反論してみます(苦笑いしつつ、小生の反論を読まれる春泥子さんの顔が 思い浮かぶ…)。
「二十世紀前半のヨーロッパは、驚くほどインテリジェンスな時代」だというの は、ウイーンを中心に、正しくその通りだと思います。でも、「テレビがなかっ たせい」と言われると、ちょっと考えてしまう。
 何故なら、少なくとも20世紀の半ば過ぎまでは、ヨーロッパに限らずテレビが なかったわけですから。だのに、何故、あの当時の(特に19世紀末から20世紀前 半の)ヨーロッパは、あれほど熟した、文化の沸騰した時代だったのか、やっぱ り疑問なのですね。
 敢えて、自分なりの答えを出すなら、あらゆる文化(あるいは文化の担い手は)、 文化が衰亡に向かう直前に、その文化の最後の、そして最高の輝きを発する。 
 つまり、ヨーロッパは哲学も文学も思想も、20世紀前半がピークだったのであ り、終わりの輝きを放っていたということですね。ご愁傷様ですと言いたい気分 がするほど、その感が強い。

 あの、これは日本に限ることなのかどうか、小生は確かめたことも、その方面 の研究書も読んだことがないのですが、昔は(つまり、電気が来ていなかった昔 は)、朝早く明るくなったかどうかの頃に起きて働き始め、日が暮れるまで働き、 そのあと、部屋の中に戻ったなら食事や歓談くらいはするでしょうが、後は、灯 り(の元である油や薪)が勿体無いので、早く寝たと聞いたことがあります。
 お金持ちはともかく、圧倒的大多数の庶民は、暗い部屋の中、他にすることが ないので、夫婦(別に夫婦に限らなくてもいいでしょうけど)は、あの道を一途 に励んだとも聞いたことがあります。
 その結果が子沢山とか。
 無論、これは俗説です。確かめたことはないし(できれば、我が身で汗水流し て検証してみたいと言う熱意というか願望はなきにしもあらずですが)、真に受 けられても困ります。

 それにしても、テレビっ子だった小生。テレビと漫画以外に世界がなかった自 分が可愛くもあり、懐かしくもあります。
 テレビでは、特に歌番組が好きでした。
 そういえば、今朝、日テレで小柳ルミ子のデビュー曲でヒット曲でもある「瀬 戸の花嫁」の制作の裏話が特集されていました。
 瀬戸内海の小島を背景にして改めてこの曲を聴くと(画像に見入ると)、この 曲は小柳ルミ子が正にツボに嵌っていたんだなと思います。
 特集によると、作曲した平尾正章自身の説明では、当時は和洋折衷文化が流行 っていて、小柳ルミ子は和洋折衷が似合う、それで、曲に使用した楽器は全て西 洋の楽器を使い、しかし、曲調はあくまで和風を貫いたということでした。
 ま、これは余談として、昭和四十年代をピークに素晴らしい歌謡曲が数多く誕 生した時代であり、自分の思春期と重なることもあり、自分は幸せな時代に生ま れたと感じたものです。

 無粋を承知で反論をもう一つ。

 ブッシュは決してルックスではなくて、石油資本=軍事産業界の連中には使い でのいい、視野の狭い単純思考の人間だったからだと思っています。あの、眉間 に皺を寄せる顔は、視野の狭さと狭量さを如実に現していると感じるのです。だ から、ほんの数人の側近のアドバイスしか耳に入らないのだと思います。
 石原慎太郎氏は、格好いいですね。横柄な物言いも、一部の方に絶大な人気が あるのも分かるような。あまりに単純で一方的な決め付け。自分の考え方に余程 自信があるのでしょうが、あのルックスだから、世間で受けるのではないかと思 うのです。さて、如何。

 野暮で無粋な小生の反論をお許しください。
 それでは、また。



いいネタ!

                                           02/08/31

 SYさん、こんにちは。本日は素面なのですね。
 小生は徹夜仕事明けで意識朦朧としています(今度は朦朧庵と改名したほうが いいかなと思ったりして)。
 いつも思うことは、SYさんの読みの丁寧さです。
 こんなことは睡魔で意識が酩酊している今でないと書けないことですが、率直 に言って自分で自分の作品の全貌がまるで掴めていないのです。掌編を、もう、 ぶっつけで書くように、瞬間の閃きと勢いだけで書いてしまうので、後で、読み 直しても、自分の作品なのに、どういうモチーフであれこれの作品が書かれてい るのか、よく分からなかったりする。
 自分は、ガキの頃からの性分で、物事を積み上げていくのがまるで苦手なのだ と、つくづく感じています。すっくと格好よく立ち上がりたいと思うのですが、 足場は流砂か泥沼で、足掻けば足掻くほど、泥濘に嵌っていきます。困ったもの です。
 あくまで、眼前の岩盤を指で掻き削る、これしか方法がないなんて、情ないな と思いつつも、今更、自分をどうしようもないのですね。
 で、「昇華」なんて、高校時代に生真面目になって意識していた言葉をつい、 洩らしましたが、いつか、何か纏まったものを書くとしても、きっと昇華など論 外で、やっぱり腕力のみの試みをすることになるでしょう。
 少しはSYさんの爪の垢でも煎じて飲みたい気持ちです。きっと、おいしくて 栄養があるのでしょうね。



世紀末…

                                            02/09/01

 SDさん、こんにちは。
 世紀末ということで、たまたま過日、堀田善衛の『定家明月記私抄』を読んで いたので、日本の末法を連想しました。
 平安の世が平家の滅亡と歩調を合わせるように衰滅に向かっていることをつく づくと、そしてしみじみと実感していただろう、平安貴族達。
 その最たるものが後鳥羽上皇であり、後白河法王たちでしょう。自らの文化圏 の中からは、もう、退嬰的な文化、過去の作品の上塗りのような、正に定家らが 編纂した『新古今和歌集』に象徴される虚構され洗練された美の極致の世界がア ダ花のように咲くしかない…。
 だからこそ、後白河法王は『梁塵秘抄』を編纂したのでしょうし、近親相姦が 常の宮中にあっても、倒錯した性の世界を極限まで自ら演じたのでしょう。
 遠くには鎌倉幕府という王朝には全く異形異質の世界の勃興。
 法然から親鸞、道元、栄西、日蓮らという宗教的天才群の登場。
 特に専修念仏の徒は、王朝にはひたすら不気味で邪魔な連中だったに違いない。 平安貴族の連中には地下(ぢげ)の徒の旺盛な想像力と逞しい生活力。現実的に は都で横行する強盗や放火。定家の隣家でも強盗があり、しかも、その強盗は夜、 松明を持って堂々と押し入っているのですから、手におえない。定家は強盗らの 声や姿を見聞きしたわけです。
 後鳥羽上皇とか、後白河法王は、退嬰を演じつつも旺盛な生命力の吸収を直感 していたのだろうと思います。こうした上皇や法皇や、あるいは専修念仏の徒を 見ていると、西行も、まして定家さえも、かすんで見える。
(西行は、別格だと思いますけど…。)
 なんといっても西行は、おぼろげながらでも観賞や理解が可能という気がする。 近代人の香りが漂い始めていますし。鴨長明の『方丈記』も、この頃の危機感を 反映した作品でした。
 つくづく当時の知識人たちは末法の世を実感していたんですね。もしかしたら 西欧における世紀末の退嬰とは比べ物にならない危機感に満ちていたのではと思 うのです。
 梅原猛の著の何処かで読んだのだと思いますが、鎌倉時代というのは、ある意 味で日本文化の復古、弥生時代から飛鳥時代という渡来文化と渡来の政治思想・ 宗教に一度は圧倒された縄文文化の復興だ、という考え方があります。
 でも、これは単純すぎる見方で、渡来の文化、裃を着た異質な文化が、ようや く日本の古来の土壌に呑みこまれ消化され新たな成熟へ向かったのであり、そう した脱皮と新生の苦しみを旧勢力も新しい勢力の連中も民衆も感じていたのだろ うと思うのです。



思い出しました

                                            02/09/02

 SYさん、こんにちは。
 こちらこそ、レスをありがとうございます。

 「原石と研磨」というタイトルで、思い出しました。
 別の場所でも書いたのですが、小学校の卒業の日、小生の学校生活で唯一尊敬 する(担任の)先生だったI先生に、卒業生が一人ずつ戴いた言葉があります。
 卒業する生徒達は、皆、それぞれに違った言葉を先生は贈られたのですが、小 生が貰った言葉は「磨く」でした。小生の荒削りな性分をよく、見抜いておられ たのだと、今更ながらに思います。

 ところで、この「磨く」という言葉を貰った際に、苦い思い出があります。
 それは、この言葉を紙に書いて小生に示しながら先生は、
「この言葉、読めるか?」と聞かれました。
 小生は、内心では「みがく」だと思いつつも、もし間違っていたら厭だなと、 つい、
「いえ」と答えてしまったのです。
 勿論、先生は、読み方を教えつつ、何事かを教え諭してくれました。
 その諭された内容は、きれいに忘れてしまったのですが、それより、分かって いながら勇気がなくて、そして失敗したときの恥ずかしさが厭で答えられなかっ た自分が歯がゆい気持ちは、相手が敬愛する先生だっただけに、ずっと後味悪く 尾を引いたものでした。
 磨くということ、それが小生には一番、苦手なことなのだと、改めてつくづく と思っています。掌編などを書き連ねながらも、一向に成長せず、行き当たりバ ッタリに勢いで書くという小生の性分は、白河 夜舟さんらのご意見・ご忠告に も関わらず、直らないものなのか…と、悲しんでみたり、それとも、この際、開 き直るべきなのか、迷っている今日この頃です。
 じゃ、また。



RE:世紀末…

                                           02/09/04

 SDさん、こんにちは。

 実は、小生が平安末期から鎌倉幕府の成立期で連想していたのは、ソ連邦の崩 壊ないしは、冷戦構造の崩壊後の世界です。
 冷戦構造の崩壊は日本にも遅ればせながらやってきたのですが、たまたまあま りに巨大なバブル資産があったため、そしてそれが急激な形で破裂したため、不 良債権処理や経済構造の変革などその後始末(先延ばし)に汲々としていて、冷 戦構造後の世界の変化に向き合えていないように感じるのです。
 単に高度成長経済の終焉だけではなく、世界は全く違う世界へとメルトダウン しているのだと思うのです。しかも、その行方が誰にも見えていない。
 戦争も、旧来のような戦争は、実際にはもう、不可能です。ソビエト(中国) とアメリカという冷戦=不可視の戦闘状態、架空の戦闘状態が終わりを告げ、ア メリカの一人勝ち状態になった時点で、従来のような戦争は現実的にも終わって しまっていたのです。
 今は、グローバリゼーションの形で押し寄せるアメリカや一部のヨーロッパ金 融資本の亡霊が、世界を席捲しています。その圧倒的な高波に呑まれて、世界が 溺れています。アメリカや各国の政府や国家に不満を持つ勢力が追い詰められ、 テロの形でしか戦うことができなくなっています。
 その潜在的脅威を実感しているからこそ(また同時多発テロで実体験したから こそ)アメリカは、新しい戦争の始まりを宣言したわけですね。
 今やロシアの反政府勢力も、中国国内の反政府勢力もテロ集団です。公の政府 によってそう決め付けられているわけです。そのような形での民族紛争や宗教内 紛がテロ集団の無謀な抵抗だ、だからテロをやっつけるのだと正当化したのは、 アメリカの新しい戦争戦略であるわけです。
 さて、我が日本は、戦争からは遠いように一見すると見えます。テロ集団も、 今のところ影も形も見えないようです。オウム教団は、とりあえず封じ込められ ました。オウム教団という、既成の権力や権威を全否定する集団の登場は、日本 の政府にとって青天の霹靂のような出来事だったのでしょう。
 しかし、とにかく既成の日本(の権威)を全く認めない集団が一つでも現れた ということは、潜在的には形をなしきれていないとしても、無数の闇の萌芽があ るだろうということを示しているのでしょう。オウムだけが例外なわけがないの です。
 冷戦構造の崩壊は、パンドラの箱を開ける結果を招いたものと思います。日本 人が幻想としても共有していた<日本>がメルトダウンへのカウントダウンを始 めた可能性があると思います。
 オウムはともかく、既成の巨大な集団は政治的なものであれ宗教的なものであ れ経済的なものであれ、全て過去の遺物だという判断を下す連中の登場があって しかるべきだという判断も実は小生は持っています(あくまで潜在的な可能性と して。現実には、狭隘な右翼の台頭のほうがありえそうですが…)。
 自民党が80年代の後半に田中角栄集団の竹下派への衣替えと同時に(それは冷 戦構造の崩壊と機を一にしている)存在意義を失って、政権確保が自己目的にな ってしまったように、浄土真宗も、経団連も、労働組合も、東京電力も方向性を 失ってしまったのです。限りない縮小再生産を繰り返していくだけになったので す。タコが自分の足を食って命を永らえ死の時を先延ばししているように、過去 の既成の集団は全て、縮小再生産するしか能がないわけです。

 今、日本には(別に日本に限る必要はないかもしれないけれど)未来が全く見 えていません。誰も展望を示せないのです。
 高度成長経済一本槍で来て、しかもテレビを見ると経済の観点からしか不況打 開の道を考える能がない現状を見ると、思考不能状態に陥っているように感じま す。カネは大切ですが、何のためのカネかが、まるで示せないのですね。
 多分、政府はそうした時代閉塞の状況を直感しているのでしょう。だから無理 矢理、国旗・国家を法制化して国民に強制し、新しい教科書の普及を目指し、有 事法制の整備を急ぎ、住基ネットの導入を急ぎ、とにかく権力と情報とを徹底し て中央に集中させようとしているのでしょう。国は、足もとから崩壊していく国 家像に焦りを感じているのではないでしょうか。
 まだまだ日本はぬるま湯に浸かっていると思います。たまたま一部の富裕層が 千数百兆円の資産を持っているので(また、国もその資産をあてにしている、国 は赤字だけど国家として外国からカネを借りているわけじゃないと豪語している 呑気な政治家もいました。人の褌で相撲を取ろうというわけですね)、現状打破 の覚悟を持つことが出来ないわけです。
 そのうちに何とか状況が変わると高を括っているわけです。自分の持っている 資産で食いつなげば、自分(たち)だけは生き延びられると思い込んでいる。
 若い人も、両親や祖父母や小父小母など多くの金づるを持っているので、フリ ーターをしても、生活に窮することがないので、現実に感覚的にしか直面できな いわけです。いつまでたっても現実は彼らのもとにはやってこないだろうと思い ます。漠然たる不安は敏感な人は覚えているでしょうけど。
 繰り返しになるけれど、オウムはともかく、既成の仕組みや発想法がまるで通 用しない世界へ突入してしまったということは、遅かれ早かれ実感することにな るだろう。思考法も、文学や音楽などの芸術も、大変貌を遂げるような予感があ るのですが、ただの妄想に過ぎないのでしょうか。 
 いずれにしても、将来展望というのは、とことん追い詰められた中で、飢餓と 絶望の果ての渇望からしか生まれてこないというのが、小生の考えです。