|
(03/06/22 up)
オレは仕事に疲れていた。 しかし、そんなことを口にするなど職場では勿論、家庭でも考えられない。 ガキの頃から弱音を吐くなと父に言われつづけてきたし、母もオレの将来に期 待をかけているのが痛いほど分かっていた。 自分は勉強だけの人間じゃない、音楽もスポーツも趣味も嗜む、付き合いの いい人間なのだ、そんなふうに振る舞ったりした。でも、それさえも、内心で は無理して度量を大きく見せているに過ぎないことに気付かないわけにいかな い。 成績がいいと、周りから羨望の眼差しで見詰められたりする。そのことに密 かに自負心を覚えたり、優越感を持ったりしたことも事実だ。 しかし、成績がよくてトップへ登れば登るほど、山の頂は高くなる。麓(ふ もと)の人間には想像もつかないほどに、頂の表面はゴツゴツしており、しか も険しい。時に冷たく固い岩肌にしがみついてるだけで精一杯だったりする。 気を抜いて足元を見たりしたら、上り詰めた高さに眩暈しそうになる。ここ まで来たら、ひたすら登りつづけるしかないのだ。果てしのない登攀の日々。 オレは、とっくに本音を吐けない人間になっていた。本音を吐くとは、つま り、絶壁から下を覗き込むことだ。手は、やっとのことで崖の上の涸れ果てた 木の幹を握り締めている。もう、手放したくてたまらない。ほんの少し、手を 緩めれば、全てが終わる。楽になれる。何も考えなくてよくなる。誰も見てい ない。今、手の平を開いたら……。 女房との結婚も、会社の上司の強烈な押しがあったからだった。申し分のな い女だった。家柄がいいだけでも、文句のつけようがないのに、その上、美人 だった。ある種、気品のある美しさを初めて会ったその日に感じたものだった。 彼女の清楚なスーツの胸元の、透き通るような白い肌。オレは吸い込まれる ような錯覚さえ覚えた。オレが並みの男だったら、はるか遠くから眺めている だけの、別世界の女だったはずだ。 その女とオレが結婚する! この時ほど、自分がエリートであることに感謝 した時はない。これまで己の本音を押し殺し、自分の中の得体の知れないモヤ モヤをも、それこそ虫けらを踏み潰すようにして抉り出してきたオレなのだ。 このオレへの天か神からの贈り物だと、オレは心底、思った。 表面的には誰もが羨む生活だったろう。厳しいビジネス社会での戦いに勝ち 抜いている。オレは勝ち組なのだ。政府の経済政策を読むこと、役人の説明の 言外の意図を読み取ること、そこに仕事で成功する要諦がある。あとは人脈だ。 家庭も外目にはうまくいっているように見えた、はずだ。オレは、完璧な亭 主を目指し、女房もそうだった。妻として、まるでマニュアルを文字通りに演 じているかのようで、1分の隙もなかった。 料理も上手いし家事もソツなくこなす。小奇麗に飾られたテーブルの上の美 的感覚溢れる盛り付け。磨き抜かれたグラスや皿、夜会服のようなドレスを着 た妻。たまに時間がある時は、部屋の明かりを落として、キャンドルで演出す ることさえ、妻はする。 息が詰まりそうだ! けれど、寝室は別だった。いや、二人一緒の部屋で寝ている。ベッドも仲良 く並んでいる。だけど、オレたちは、結婚して五年余りにもなるのに、本当の 夜を共にしたことがなかったのだ。段々、そんな夜の生活のない夫婦生活が当 たり前になろうとしていた。 それは、オレが男としてモノの役に立たないからだって。違う! 女房が目 の前にいない時のオレは、ケダモノだった。女房以外の女となら完璧なオスに なれる自信があった。想像の中でオレは女房と、ありとあらゆる性的放縦を愉 しんだ。 それなのに、女房を前にすると、一切、手出しが出来なくなる。紳士として 振る舞う以外に能のない、それこそ能面を被ったような<男>になってしまう。 お互いの前ではオナラ一つ、放つことはできないのだった。 女房はどう思っているんだろう? これでいいと思っているのか。 オレは悩みぬいた。身に染み付いた、いい子ぶりっ子の仮面は、もう、第二 の本性となっていて、オレの地肌に張り付いていた。剥がすことはできなくな っていた。崖から飛び降りることはできても、本音を晒すなど、死ぬより辛い ことになっていたのだ。 ただ、オレは、少なくとも自分では、バカではないつもりだった。女房だっ て、きっと苦しんでいるに違いないと思った。妻だって、オレと裸の関係を持 ちたいに違いない。 が、表面に固い殻が覆っている二人には、全くの出口なしだった。情の一番 深い部分が、出口を失って、闇の中で奔流となっているはずだった。欲望が焔 (ほむら)となって肉体を焼き焦がし、神経を掻き削っていた。 お前は、目の前にいる。だけど、なんて遠いんだ。汗と脂に塗れて睦み合い たいのに、時には涎を垂らしてガツガツと食い合いたいのに、どうしてオレた ちには許されないのか。 オレには確信があった。女房だって、オレに惚れている。俺が女房にゾッコ ンであるように。 後は、二人の出会いの場を確保することだ。オレは考えた。考え抜いた。他 社との熾烈なビジネスを生き抜き勝ち残るために体力と能力の限りを尽くす、 そんな営為など比較にならないほどに知恵を振り絞った。 その結論は、恥ずかしくて人には言えないものだった。口に出したら、笑わ れるに違いない。嘲りを受けるに違いない。 が、オレは真剣だったのだ。 それは、ある秘密クラブを利用することだった。幸い、営業上の必要があっ て、そのルートは心得ていた。クラブの支配人とは仕事を通じて、顔見知りに なっていた。彼が秘密を厳守する人間だということは知り抜いている。そうで なければ、オレのいるような信用ある会社が利用するはずがない。 オレは、ある日、彼に決心を打ち明けた。彼は驚くだろうと思ったが、まる で涼しい顔だった。ポーカーフェイスが彼の営業上の顔だからかと最初は思っ たが、オレたちみたいな仮面の夫婦は案外、多いのだという。一部のエリート 医師や、弁護士、一流企業や役所の幹部候補、家柄が重荷になっている連中。 本音と建前の違う僧侶。ありとあらゆる人間を知っているというのだ。 仕掛けは彼に頼んだ。オレの目に、いや、プロである彼の目に狂いはなかっ た。女房は、自分を持て余していた。完璧なはずなのに、肝心の何かが欠けて いる自分に焦りを感じていた。 奴は、オレには全く想像もつかない方法で女房に近づいた。女の心の隙を見 抜くのは奴の仕事柄、容易いことなのだとはいえ、そんなにもあっさり落ちる ことに落胆もした。オレがさんざん、苦しんでいるというのに、そうした方面 のやつ等の手に掛かれば、女房など、赤子を捻るようなものなのだ。 彼は、完璧な女ほど、案外、落ちるのは簡単なんですよ、と、事も無げに言 うのだった。あなたがあなたでありえる世界は、ここだけなのですよ。世間体 や出世とかエリート候補の妻としての役割じゃなく、女としての、生身の体を 持て余すあなたを、本当の意味で輝かせることができるのは、この場を置いて、 他にはないのです……。 生身の体。女としての本能。あまりに恵まれた容貌と肉体。その全てを、遠 慮会釈もなく、いや、えげつないほどに賛美しえるのは、ここ、ここだけなの です。女の輝きえる時間というのは、あまりに短い。気がついたら、取り返し のつかない長い長い時を迎えることになる。過去の徒労で無為な過去を悔いな がら生きていくのですか。今、輝かなくて、いつ輝くのです……。 ああ、オレが女房にそんな科白を吐けたなら。 せめて女房の源氏名だけはオレが付けたかった。 オレは、女房に紹介される前、一度だけ、女房を見たことがあった。あれは 雪の日だった。日中は晴れていたのに、夕方になって不意に雪が降り出したの だ。オレは、会社の玄関に立ち尽くして、降り頻る夜の雪を呆然と眺めていた。 すると、不意に、ロビーからオーラを放つ女がやってきた。女は御付きの人 でも従えるかのように二人の男に伴われていた。女たちは玄関の前に立ち止ま った。車を待っているのだと察せられた。 玄関の水銀灯の光に照らし出された女は、オレには女優のように眩しかった。 濃紺のドレスに紫色のコートを肩に引っ掛けるように、無造作に羽織っていた。 大きく開いた背中が雪より白くて眩しかったことをオレは見逃さなかった。 何処かのパーティが云々と、御付きの男が喋っていた。しばらくして、黒塗 りの車がやってきた。 雪が車に乗り込む女の髪や肩に一瞬、纏いついたが、すぐに女の姿は車に消 えた。 あの雪の日が、俺が見た女房の最初の姿だったのだ。まるで初恋だった。運 命の人に出会ったような気がした。でも、その時はまだ、彼女は雲の上の人だ ったのだ。 オレは、そんな思い出があるから、女房の源氏名を紫衣(しい)とするよう にクラブの男に頼んだ。それ以外に思い浮かばなかった。 紫衣! その高貴な衣装を剥いで、その下の真の姿に、熱い肌に触れるのだ! 無論、オレは、その<女>にはオレ以外の客をつけさせるはずはなかった。 女は真相を何も知らない。女はただでさえ派手な体躯をさらに煌びやかに磨き 上げ、妖しい仮面を被り、皮の衣装を身に纏っていた。女には、金融界で活躍 が期待されるホープとして、ある政治家の紹介でオレが来ているということに なっていた。オレが女を一目見て気に入り、専属の形でと要求しているという ことも説明されているはずだった。 ちゃんと家庭があり、完璧な女房と素行のいい子供もいることになっていた。 私生活に瑕疵などまるでないことも、紫衣には支配人を通じて、内密の話とし て告げられていた。 だからこそ、そんな息の詰まる生活に耐え切れず、<ここ>にやってくるの だと。 オレが来た瞬間、女房はオレのことに気付いたはずだ。が、オレが紫衣の正 体が女房だと最初から知っているとは夢にも思っていないはずだ。 オレは、心も肉体も解放するために、その道のプロである女の下に通ってく る、エリートとはいえ、ただの男。 素行がいいかどうかは別にして、二人の子どもというのは、オレの願いでも あった。結婚して二年程で一人、五年目には二人目が生まれていて、家の中が バタバタしており、女房が子育てに追われ、教育問題に頭を悩ませている…… はずだったのだ。 そんな嘘など女房には分かる。でも紫衣にはどうだろう。紫衣にはまことし やかな話に過ぎないとして聞き流されるのだとしても、紫衣ではなく妻にはオ レの作り話の中に夢が詰まっていることが分かるはずだった。オレなりの苦肉 の、だけど切ないメッセージのつもりだった。 オレは、紫衣の振る鞭に酔いしれた。これだ、これなんだ、オレが欲しかっ たのは、オレと紫衣との、いや、女房との恥も外聞も忘れ果てた生身のぶつか り合いなのだ。世間体など、クソ食らえだ。オレは、女房に睥睨した。這いつ くばった。今までの心にもないとはいえ、冷たい態度を詫びるかのように、ひ たすら鞭打たれた。 「女王様と言いなさい!」「ハイ、女王様」 「ワタシの足の指を嘗めるのよ!」「ハイ、嘗めます」 「嘗めますじゃないだろう、嘗めさせていただきます、だろう!」そう言って、 ピンヒールの鋭い踵をオレの背中に押し付けた。 「ハイ、すみません、嘗めさせていただきます、女王様」 「よし! じゃ、このハイヒールを取って、嘗めなさい!」「ハイ、女王様」 そう言って、オレは紫衣の、いや女房の足の指や指の股を丹念に、そして心行 くまで嘗めた。 ああ、この日をどれほど待っていたことか。なんて美しい爪なんだ。なんて 滑らかな指なんだ。オレは恍惚の海を彷徨っていた。 「なんだい、いつまで嘗めてんだ! 勝手に愉しむんじゃないわよ。」そう言 って紫衣は、いや、女房の奴は、オレを足蹴にした。 (こいつ、オレのことに気がついてやがるな!) しかし、オレは怒るわけにいかなかった。夫婦二人して、こんなところにい ると世間にバレタなら、俺の出世の目は潰える。家庭だって、どうなるか見当 当も付かない。互いが気まずくて顔を合わせるなんて、論外だ。 「ワタシの鞭がほしいかい?」 「はい、欲しくてたまりません」 段々、オレは、むかっ腹が立ってきた。だが、相手は女房ではない、紫衣な のだ。愛の館で見知らぬ女王様に裸の自分を曝け出しているのだ。家庭では見 せない、恥ずかしい自分なのだ。そんなオレが家庭に帰って、女房にどんな顔 を見せればいいというのか。ここは我慢だった。あくまで相手は赤の他人なの だ。 そうだ、ここだからこそ、オレたちは裸になれる。旅の恥は掻き捨てだとい う。オレたちは、旅に出ている。旅先だからこそ、思いっきり恥を掻ける。こ こでなければ、深く交わることができない。オレたち夫婦は、そんな哀れな夫 婦なのだ。でも、それでいいじゃないか。 いつしかオレたちは、家庭生活が以前より円滑になってきたように思える。 相変わらず、よそよそしいような、何処かツンと澄ましたような二人なのだ けれど、互いの目の奥に何処か柔らかな眼差しを感じることがあるようになっ たのだ。 この分だと、オレたち二人が本当の夫婦になれる日も、そんなに遠くはない のかもしれない。 そんな予感を覚えつつ、俺はあの秘密クラブに通い続けるのだった。 03/06/22 04:35 [「紫衣の雪」のイメージを参照させてもらいました。 また、本作は、カメママさんのしーさんへ提供されたキリ番作品『紫衣』や、しーさんが書かれた『しーちゃん本人が書いた『紫衣』の裏バージョン 』に絡み、しーさんの「「男から見たバージョン「紫衣」を。 設定は、「だんなにばれ(て)るかも?紫衣」で。」というリクエスト」に応えて書き下ろしたものです。(03/06/22 記)] |