銀箭(ぎんぜん)

                                           (03/08/27 up)





 遠い遠い昔の話である。私が未だ小学校にやっと上がった頃の話だ。もう、 四十年の昔になる。
 ついさっきまでのカンカン照りの天気が嘘のような不意の雨に見舞われた。 ボクと妹は、慌てて神社の境内の社に逃げ込んだけれど、青いシャツもパンツ も下着までがスッカリ濡れてしまった。妹も全身がびっしょり濡れている。
 見上げると、空が真っ暗になっている。そのうち、雷も鳴るに違いない。ボ クは雷は怖くない。でも、妹の奴は雷って奴が大嫌いだという。
 嫌いというより、とにかく怖いらしい。ボクには何が怖いのかさっぱり分か らない。あんなの空が光ってるだけじゃないか。ちょっとゴロゴロ鳴っている だけじゃないか。
 別に強がっているわけじゃなかった。それどころか、ボクは雷とか台風とか が大好きなのだ。テンペンチイって奴が生じると、世の中のみんなが大騒ぎす る。もしかしたらその騒ぎようが好きなのか…と思ってみたけれど、そうでも ない。
 ただただ、空とか海とか山とかに異変が起こると、ワクワクしてしまう。大 地が生きてるって感じがしてしまう。
 一度、学校の仲間にそんな感じを話したら、変な顔をされたので、今はボク の本音を黙っている。そうか、怖がるのが普通なんだと、みんなの態度から学 んだのだ。人様の前では、そこそこに怖がり、そこそこに平気を装っている。
 内心は、雷が鳴ると授業中でも外に飛び出して、雷鳴轟く中、土砂降りのグ ラウンドを走り回りたい気持ちで一杯になってしまう。

「兄ちゃん、怖いよー」妹はそう、呟いたまま、震える体をボクに押し付けて、 体を丸めているばかり。
 妹の白いシャツもびっしょり濡れている。顔をボクの膝に埋めているので、 妹の背中がやけに大きく感じられる。その背中は、濡れた薄い半透明の布切れ を被せたようで、妙に生々しくボクには持て余し気味になってしまう。
 夕立に過ぎず、小一時間も雨宿りしていれば、雨も雷も峠を越すはずだった。 なのに、空はますます暗くなる一方だった。さすがにボクも途方に暮れてきた。
 実を言うと、ボクは豪雨や雷や疾風には平気なのだけど、夜の闇が怖いのだ った。こればっかりはボクにはどうしようもなかった。別に奇異な現象ではな いし、日常の当たり前の風景に過ぎないのに、暗くなると足が竦んでしまう。 闇夜に正体の知れない灯りが浮かんだりすると、狐火か、それとも人魂かと思 われてならなくなる。
 ボクは内心、妹を置きざりにして、暗くならないうちに家に逃げ帰りたかっ た。
 雷よ、早く去れ!
 妹とは違う理由で、雷雨の早く過ぎ去るのを待ち望んでいた。

 さすがにいつしか雨は小降りになってくれた。雷鳴も稲光も過ぎ去って行っ た。
「ほら、起きろよ」
「もう、大丈夫、兄ちゃん?」
「うん、行っちゃったみたいだよ。」
「じゃ、目を開けるね」頭を起こしながら、お河童頭の妹は薄目をしてみせた。
「大丈夫だよ。行っちゃったってば」
 妹は、やっと大きく目を開いた。妹の髪も服も体も、そして瞳も濡れていた。ボクはその時の妹の目が可愛くてならなか った。
「さあて、雷も消えちゃったし、帰るか。」
「うん」
「あんにゃ、うちの方角、どっちか分かるか?」
「うん!」そう言って、妹は、早く内に帰りたいのか、ボクの手を引いて歩き 出した。しめしめである。ボクは闇夜が怖くて先になって歩けそうになかった のだ。
 今度はボクのほうが、薄目になって妹に手を引かれて歩き出した。妹は無邪 気に、ただ一心にボクの手を引っ張るだけだった。

 その日の夜のことだった。ボクがそろそろ寝ようとして、便所から妹が先に 寝ている寝床の部屋に向おうとしたら、親父とお袋が何かひそひそと話してい るのに気づいた。普段は隣近所にも響くような声で喋る父母なので、ボクはビ ックリした。何かボクか妹に聞かれては困る話なのだろうか。
 ちょうど、その頃、童話を読んだか、それとも誰かの話を聞いたかで、人攫 いとか、貧乏していると子どもを売り渡す家もあるという知識が仕込まれたば かりのボクだった。ボクは、根拠もなしに、まさか…、もしかして…、ボクか 妹を売り渡す算段をしているんじゃないかという疑いを抱いてしまった。
 しかし、父母は、ボクが囲炉裏の間と仏間の間の柱の陰にいることに気づい て、すぐに話を止めた。
 ただ、ギンゼンという言葉だけがボクの耳に残っていた。

 ボクが盗み聞きを咎められたような気がして、身動きが出来ないでいると、
「何、しとんがけ。早く、寝られま」とお袋が言った。
 その声で、やっとボクは動けた。その場を去ってもいいと許可を受けた気分 だった。
(何をこっそり話してたのか…。ギンゼンって何だ…。それともギンセンだっ たっけか。でも、ギンセンにしても、意味が分からない…。ん? それともキ ンセンだったかもしれない…。)最初は濁った発音だと思っていたのに、キン センという言葉が思い浮かぶと、間違いなくキンセンだと思わてきた。
(やっぱり、そうなんだ。キンセン、金銭、おカネ…、ボクか妹をおカネが欲 しくて…、それで…、売り飛ばすんだ!)

 ボクは寝床で散々考えた挙げ句、自分の推理に間違いがないと確信してしま った。
(内はそんなに貧乏だったっけ。確かに食べるものというと、田圃や畑で採れ るものばかりで、何処かの店で買ったようなものは、めったに食卓に並ばない。 御飯に味噌汁。味噌汁の具は、ダイコンとかジャガイモとか、ワカメとか、チ ボイモとか、フキとか、キャベツとか…。おかずというと、やっぱりダイコンにニンジン にナスにキュウリにイチゴにレタスに…。おやつというと、トウモロコシとか サツマイモとか、スイカとか、ジャガイモだ。そういやたまにキュウイもあったな。近所の 家じゃ、しょっちゅう出前を取るのに、内じゃ、お袋が風邪を引いて倒れでも しないかぎり、出前なんて考えられない。そうか、内は貧乏だったんだ。そう いや、親父は倹約しろよの一点張りだし…。今まで気付かなかったボクがバカ だったんだ…)
 眠れないままに、今日の夕方の一齣を思い出されていた。父母の寝室からは、 何か啜り泣きのような、悲鳴のようなお袋の声が微かに聞こえてくる。しまい に、親父がお袋をしかりつけているのか、親父の呻き声さえ、洩れ聞こえてき たのだった。
(そうだ、ボクが妹を置きざりになんて、考えるからいけなかったんだ。そん なボクだから、お袋だってうんざりして、家にはそんな子は置けないと考えた んだ…。闇が怖いだなんて、妹を捨て去るのと、どっちが大変なことか、もっ と考えるべきだったんだ…。でも、ちゃんと我慢して一緒に帰ってきたじゃな いか…、なのに…)
 その夜はボクはとうとう一睡もできなかった。

 翌朝だった。ボクは覚悟を決めて囲炉裏の間に坐った。既に食卓には朝から 食べきれないほどの御飯やオカズが並んでいる。
(今日が最後の日だから…、だからせめてご馳走を並べてくれたんだ…)
 何も知らない妹が哀れだった。
(いや、妹は別に悪くないんだ。悪いのはボクだけなんだ。何処かへやられる としたら、それはボクだ。仕方ないよな…。)
 しかし、朝食の時間はいつもの通り、何事もなく淡々と過ぎていった。妹は 朝は目覚めが悪いので黙ったままなのは、いつも通りだし、お袋が台所と囲炉 裏の間を頻繁に往復しながら、あれこれ喋るのもいつも通り。親父は、お袋の 話を聞いているのか聞いていないのか、ボクには分からないのも、いつも通り。 「どうした、おまえ、今日はやけに静かじゃないか」
 来た! とうとうその時が来た!
 ボクは掠れがちな声を絞って話した。
「何か話があるがじゃないけ?」
「話だと。何の話だ?」
 さすがに親父も話しづらいのかもしれない。
「だって、夕べ、キンセンがどうしたとか…」
「キンセン? 何だ、そりゃ。おい、かあさんや、わし等、キンセンの話なん てしたっけ、夕べ」
「キンセン? なーんも。」ダイコンのお漬物を運びながら、お袋は返事した。
 が、台所へ向おうとして、ふと、足を止めた。
「ああ、ギンゼンじゃないの。」
「ギンゼン? ああ、あの話か」
 ドキ! やっぱり、そうだ。親父とお袋は、ボク(たち)を…。謝るしかないと思っ た。
「夕べは御免。もっと早く帰るつもりだったがやけど、雨が」
「そうだよ。ギンゼンって、雨のことながよ」とお袋。全然、ボクの話を聞い ていない。
「ギンゼン、雨?! どういうこと?」
「夕べね、凄い雷雨が突然、来たでしょ。でね、ラジオでね、夕べみたいな凄 い夕立をギンゼンって言うんだって、やってたのよ。ギンは銀でしょ。銀色ね。 つまり雨ね。で、ゼンって、難しいけど、火箭(ひや)というか、火箭(かぜ ん)のゼンのことなのね。火矢ね。よく時代劇の映画とかで、飛ぶらしいんだ けど。つまり激しい雨脚を、銀の矢に見立てたわけね。洒落た表現があるのね って話をしてたがんぜ。分かったけ?」
「分かった…」
 狐に抓まれた気分だった。
(本当? 誤魔化してんじゃないが?)

 とにかく、それからも何事もなく過ぎ去ったのだから、最初は親父達を疑っ ていたボクも、そのことは次第に忘れていった。
 ただ、どうしても、引っ掛かることがあった。それは、じゃ、どうして、そ んな話をヒソヒソ声でしなくちゃいけなかったかということだった。いつも通 り、大声で喋ればいいじゃないか、そんなこと。内緒にする話でもあるまいに。 ボク達が寝ていたって、平気で大声で喋る二人じゃないか。

 それから何年してからだったろうか。親父達がひそひそ声で喋ったわけが、 或る日、不意に分かった。そうだ、二人は、今夜はやるぞ! オレの銀箭が飛 ぶぞ! という話をしていたんだ。
 だから、ついつい、声を顰めてしまったんだ!



03/08/26 01:22