ピアノの音

 
(04/02/13 up)
 




                                         ピアノの音が聞こえてくる。ベートーベンの月光でもなければエリーゼのた めにでもない、何処かのバカの練習する音だ。いや、音というのではない、雑 音だ。雑音以下だ。騒音だ。せっかくの春の訪れさえ予感させる穏やかな休日 の午後のはずが、一気にぶち壊しだ。
 これでもオレは音楽が好きだ。ピアノだって習ったことがある。エリーゼの ためになら、昔は全曲を通して弾けたものだ。レコードだってCDだって聴く。 今はいかないが音楽会だって何度となく足を運んだことがある。いや、この頃 は、録音された音楽に飽き足らずにライブにさえ通うほどだ。
 音楽はライブに限るとさえ、思ったりもする。生の音が聴ける、しかも演奏 するアーティストの姿も見れるし、ワインやウイスキー片手の同じ嗜好を持っ た客達と一緒という雰囲気も味わえる。
 生の音…。だったら、ピアノの練習の音だって生じゃないかって? 下手か もしれないけど、熱心に練習しているんだから、大目に見ろだって? 
 とんでもない、音楽はどんな曲にしろ、自分が聴きたいから聴くのだ。聴き たい時に聴きたい曲を聴けるから楽しいのだ。聴きたくないなら音源を切るこ とができるから、実際に電源を落とすかどうかは別にして、あるいはチャンネ ルを切り替えるかどうかはその時の気分次第にしろ、我慢して聴いていること ができるのだ。
 なのに、今、聞こえてくる音は何だ。下手クソなのは言うまでもないとして、 練習だというのなら、どうして音が外に洩れないようにして練習しないのだ。  よほど、神経が図太いのか。それともオレの家がボロで、窓を閉めても壁か ら音が洩れ入ってくるってことなのか。余計なお世話だ!
 窓を締め切って、鍵だってしっかり下している。なのに、音の奴は情容赦な くオレの部屋へ、オレの耳へ浸透し、そしてついには脳髄を直撃している。

 それにしても、どうしてこんなにピアノの曲に我慢がならないのだろう。オ レがこんなに息を潜めるようにして大人しくしている一方で、ピアノを掻き鳴 らす無神経極まる奴がいるという、その矛盾が気に食わないのか。
 そうかもしれない。繊細の神経無くして、何がピアノなのだ!
 ああ、どんなにピアノの鍵盤を叩く野郎のことを呪っても、音は耳を甚振り つづける。脳髄が沸騰し始めていることが分からないのか! 今にオレは爆発 するぞ。神経がぶち切れるぞ。何が何だか分からなくなってしまうぞ。ピアノ 殺人事件をお前は知らないのか。ピアノの練習の音が煩いからって、怒鳴り込 んでいって、しまいには喧嘩になって、相手を殺してしまったって事件だ。ま さに、オレは事件の当事者になりかかっている。オレはピアノの音が煩いばか りに殺人に至ってしまった奴の心境が痛いほどに分かる。
 オレは憤怒に震える体を懸命に押さえつけている。男は我慢だと思っている。 神経が引き千切れそうだ。怒りの血が沸騰している。血圧が200を軽く超え ている。
 オレはピアノの音を掻き消そうと、部屋の中で換気扇を回し、洗濯機に水を 溜めて洗うものが何もないのに無為な洗濯をしている。こうなったら、下手ク ソな演奏をオレも披露してやろうかと思う。壁を足でドンドン蹴るとか、床を 踏み鳴らすとか…。
 思う…、だけなのだ。そんなことができるくらいなら、とっくにオレはピア ニストになっていたに違いない。別にピアノの演奏で飯を食えているかどうか は分からないけど、遠い昔、ピアノを習っていて、外に洩れる練習の音に気兼 ねして、ピアノの練習を中断することなどなかったはずだ。

 遠い思い出。

 あれは、そう、オレが高校生だった頃、或る日、それまでは電車での通学だ ったのを、運動不足の解消を名目にだったか、自転車通学に切り替えたことが ある。その自転車での通学路にある家があったのである。
 オレは気がついたのだ、自転車を気持ち良く走らせていると、不意に、妙な る音の響きの鳴ることに、そう、ピアノの音に。というより、窓の中の女(ひ と)の存在に。
 深窓の女(ひと)が練習しているのは、なんという曲なのか、オレには分か らなかった。曲名が分かるまでには三ヶ月も掛かった。
 そう、その間、オレはクラシックのピアノ曲を聴きまくったのだ。クラシッ クの曲だということくらいは音楽音痴のオレにも分かったから。
 そして、やっと彼女が弾いているのはショパンなのだと分かった。そうか、 彼女はショパンが好きなのか。聞き分けることができるようになった頃には、 彼女はショパンの「雨垂れ」の前奏曲を練習していたと記憶する。
 コンクリートの塀の向こう側のツタの絡まる壁の家。その洒落た窓が半ば開 いていて、そこから音が洩れていたのだった。夏の熱気がアスファルトの道路 の上では一層強烈だった。
 けれど、そんなことなどお構いなしだった。耳には窓から少しだけ姿の見え る彼女の指の織り成す音の連なりがあるだけだった。目を閉じると、赤黒いよ うな沈黙の闇の空間に真珠の粒が煌いては消えていった。それとも水晶の欠片 にも似た光の粒子が優雅に戯れていた。はるかに高い空から真綿のような雪の 花弁が舞い降りてくる。決して地上の世界に落ちきることなく、闇の海に蕩け ていく。音の純粋結晶がオレの神経を優しく逆撫でする。
 オレは痺れてしまっていた。
 彼女を知った頃は、腕の先しか見えなかった腕が、夏が近付いた頃にはすっ かり覗けて見えた。小さな窓の薄闇に白く蠢く腕。肉体の踊り。自転車を近く の郵便ポストと電信柱の間に収めて、オレは名の知れない樹木の生い茂る空き 地に身を潜めて、息も殺して彼女の面影を何処までも追った。
 なのに、何故か彼女は一度たりとも姿を現さないのだった。練習が終わった ら、さすがに散歩くらいはするのではと期待していたのに。
 そのうちに、とうとう夏休みに入ってしまった。
 オレには長い長い夏休みだった。無為な時の怠惰な流れがオレを苦しめた。 オレにはもうピアノの音が全てだった。いや、彼女が全てだったのだ。
 もしかしたら、あまりに長い夏休みがオレの神経を狂わせたのかもしれない …。

 二学期が始まっても、オレは、ピアノの音を、そう、彼女を追い求め続けた。
 寝ても覚めてもピアノが耳に、それとも頭の中で鳴っている。ピアニッシモ に、それともフォルテにと、オレの頭でピアノの音が勝手に出現し変幻し衰滅 してを繰り返すのだった。ダイヤモンドの数珠が闇の空間を無数の流れ星の連 なりのように一閃していった。そして、透明なガラスの破片が脳髄の方々に突 き刺さり、心の肉襞を散々に痛めつけるのだった。
 オレは、いつも待っていた。ピアノの練習が終わるのを。いつかは彼女が外 に出てくるはずだ、一度くらいは何かの用事があって外出するはずなのだ。彼 女の全身の姿を見ないことには、どうにも我慢の限界に近付いていた。
 一目、会いたい。幻の彼女を拝みたい。外からは薄暗いだけの窓の奥の長い 髪や白い腕の眩しさだけではなく、彼女の顔を肩を胸を腰を御尻を足を、ペダ ルを踏む爪先を見詰めたかった。彼女はピアノの精なのだ。
 なのに一向に姿を現さない。
 夕方には姿を現さない…。だったら、朝には…。
 夏の終わりを予感させるような九月の或る日、オレは、ふと、目が覚めた。 まだ夜の余韻の漂う寝床だった。オレは居たたまれない気分だった。もう、行 くしかない。彼女に会うしかない。オレの思いの丈をぶちまけるしかない。オ レには君が全てなのだと打ち明けるしかない。オレの胸の思いを彼女に分かっ てもらう、それしか苦しくてならない今の窮境を脱する道はないのだ!
 家を抜け出すのは造作もないことだった。雪の日の真夜中に、それとも未明 の時に、家をこっそり抜け出て家の周辺の雪の原をどれほど歩き回ったことか。 まっさらの雪の海に自分だけの足跡を印す喜びをどれほどガキの頃から堪能し たことか。
 オレは、玄関に置いてある自転車を持ち出し、いつものあの場所へ向った。 彼女に会いに行くのだ!

 オレは、当時、なんとなく『あの胸にもう一度』という映画を連想していた ように思う。アラン・ドロン(ダニエル)に会いにハーレーダビットソンを駆 って行くマリアンヌ・フェイスフル(レベッカ)。
 オレの場合、待っているのは女のほうなのだが。
 アメリカではこの映画が『Naked Under Leather(革の下は裸)』と改題さ れ、ポルノ映画として上映されていたことも、オレは聞き知っていたように思 う。
  碌に小説も読まなかったオレが、夏休みに原作のアンドレ・ピエール・マン ディアルグの『オートバイ』を読むほどの入れ込みようだった。いつかは彼女 をオレが…。レベッカの羽織るLeatherのジャケットをダニエルが…したよう に。

 いや、違う。何を求めて彼女の元へ向ったのかはまるで覚えていない。とに かく会いたい一心だったのだ。会って、どうするなど考える余裕などなかった。 会えば何とかなる。とにかく会いたい、窓の陰の正体不明の彼女ではなく、生 身の彼女に会い、彼女にも一目でいいからオレのことを見て欲しかった。オレ という存在が居ることを分かって欲しかった。
 ただ、それだけだったと思う…。

 いよいよ彼女の家に近付いてしまった。
 自転車をいつもの場所に立てかけて、ゆっくりと彼女の家の方へ歩いていっ た。夏の名残の溢れんばかりの光が、まだひんやりしているアスファルトに満 ち始めていた。何か不思議なドラマが始まるような予感が漂っていた。
 オレ達の出会い。彼女は間違いなく出てくる。家の外に姿を現す!
 オレは今でも不思議でならないのだけど、一体、何処からそんな確信が生ま れたのか、まるで分からない。ただ、この上ない盲目的な衝動がオレを突き動 かしているのだった。
 が、さて、家の前に来ると、一気に絶対の確信が萎えてしまった。ただの盲 信に過ぎないと、頭の片隅に追いやられていた理性がオレを攻め立て始めた。
(そうだ、会える見込みなど最初からなかったんだ…)
 塀の向こうの蔦の這う壁を見遣ると、窓は締まっていた。人気などまるで感 じられない。オレは訳が分からなくなった。
(何だって、オレはここに居るんだ。約束があるじゃなし…)
 すると、突然、門が開いた。そして彼女が現れたのだ。
 いきなり! 
 オレと彼女と、一瞬、目が合った。少なくともオレはそう感じた。
 彼女は、もしかしたら一瞥もせずにオレの傍を行き過ぎただけだったかもし れない。挨拶どころではなかったような気もする。
 でも、そんなことはどうでもよかった。オレは彼女に会えたのだ。それでい い。それだけで十分じゃないか。

 気がつくと、ピアノの音も止んでいる。元の静けさを取り戻している。オレ の妄想も十分に役目を果たしてくれたではないか。
 それでいい。それだけで十分じゃないか。




 参考:
『あの胸にもう一度 la motocyclette』 
 http://www.magiccity.ne.jp/~berocity/stones/another-works/02/