雨音はショパンの

 
(04/02/15 up)






 あの人の面影が今もボクを苦しめる。会えなかった、会わなかったあの人の はずなのに、なぜ、いつまでもボクを苛むのだろう。
 いや、会ったといえば、会っていたのだ。ただ…。

 あの人のことを知ったのは、いつだったろうか。いや、その前に知ったと言 えるのだろうか。ボクはあの人の気配を感じていただけじゃなかったのか。  それとも気配さえも感じていなかったのか。
 初めて彼女の存在に、それともあの人の不在の重みに気付いたのは夏の終わ りの、とある午後だった。ボクは夏の初めから、友人に誘われてピアノ教室に 通っていた。それは友人のアパートの近くにあった。
 高校時代からの友人である彼はクラシックのファンで、彼の家を訪れるたび に彼はクラシックのレコードをいろいろと聞かせてくれた。音楽というとテレ ビで聴くことのできる歌謡曲、それとも音楽の授業くらいしか縁のなかったボ クには、チンプンカンプンの世界だったけれど、さんざん聞かされるうちに、 さすがにクラシック音楽に聴き入る楽しみを覚えるようになった。
 ボクにクラシック音楽の薫陶を与えるような彼なので、そうか奴も聴いてい るだけでは我慢がならず、ピアノを自分で弾いてみたいと思ったのだろうと推 測していた。一緒の大学に通っているだけに暇を持て余している、クラシック 好きの彼なら、考えそうなことだと思った。

 が、一緒に自宅の一室を教室にしている家を訪れると、鈍感なボクにもそれ だけの事情ではないのだと気づいたのだった。
 出迎えてくれたのは、その家の優しげで物静かな主夫妻だけではなく、ピア ノの教師でもある若い女性だった。後で知ったのだが、短大の学生で、ピアノ 学科に籍を置いているのだった。学費を稼ぐためにピアノを教えているのか、 それともピアノの代金を自分で稼ぐように努めているのか、そこまでは分から なかった。
 ボクは、彼女を見て、その可憐さに軽い衝撃を受けた。
(なんて可愛い人なんだ。そうか、奴は彼女にホの字なんだな、でも、一人で は来れなくて、ボクを誘ったのか)
 そう、悟った。
 でも、別に気を悪くしたわけではなかった。ボクにしても彼女にピアノを教 わることができるのだ。彼の意中の人だって構わないじゃないか。
 バイエルの教科書を片手に男二人が、毎週末、せっせと通った。ピアノ教室 に夏休みなどなかった。彼も熱心だったが、ボクも次第に熱中していった。
 ピアノを弾くことが好きになったのか、それとも、素敵な彼女に会いたいの か分からなかった。別に音楽会に出ようとか、生涯の趣味にしようとか、そん な目標など何もなかったのだが、始めた以上は、せめてバイエルの教科書の最 後の頁までは遣り通したかった。
 最後の頁にはショパンの「ノクターン」が課題曲として載っていた。
(「ノクターン」を弾くんだ。とにかくそこまでは遣り遂げるんだ!)

 彼との競争になっていた。奴もボクには負けないように頑張っていたけれど、 ボクだって彼女の前でいい格好を見せたかった。奴が何かの用事で来れない時 も、ボクは休まずに通った。いつも清楚なワンピース姿でにこやかに迎えてく れる彼女に会うのが楽しみでならなかった。音楽で通知表に3さえももらった ことのないボクが楽譜を懸命に勉強した。読譜は夏休みが終わらないうちに自 在になっていた。
 鍵盤の上では、ボクの両手の指と彼女の指が交差していた。そう、奴が来な い時は、二人で合奏だって愉しんだのだ。ボクがミスすると、彼女はボクの指 を優しく抓んで正しい弾き場所に導いてくれた。
 ボクの指の腹が小さいのか、鍵盤をしっかり叩こうとすると、爪の先が鍵盤 に当ってしまう。ピアノ教室に、いや、彼女のところに来る前には、念入りに 爪を切ってくる。ほとんど深爪ギリギリまでに切っている。なのに、指の腹だ けじゃなく、爪の先が当って、キチンとしたタッチを得ることが出来ない。
 そんなボクの指を彼女はいつになく長く持って、じっと眺めていることもあ った。ボクは嬉しかった。彼女の表情を盗み見たが、変によそよそしい雰囲気 があって、彼女が何を思っているのか、さっぱり分からなかった。ただ、そん な一時が貴重なのだ。夢のような日々だった。
 ああ、奴は、もう、来なくっていい、来ないほうがいい、来るなよ、なんて 思ったりもする。

 それが、まさか実現するとは思いも寄らなかった。奴は本当に来なくなった のだ。彼は何度か休むうちにボクの進度に追いつけなくなったのだ。だから、 学校の成績だってトップクラスで、平均点をやっと超えるだけのボクに負ける わけにはいかなかったのだ。プライドが許さないのだ。
 ボクは奴が来なくなった理由をそう思っていた。ボクは初めて奴に勝ったと 思った。授業がやたらと忙しくてさ、毎日、研究室に残って実験さ。データを 採る必要があるから、一人、抜け出すこともできないし…。そんなことを奴が 愚痴っぽく語っていたように記憶する。
 そう、奴は工学部の化学科に在籍している。ボクはというと、文学部で毎日、 キャンパスや街中を散歩しているようなものだった。最初の頃の、暇そうな彼 の様子が嘘のような生活になっていたのだ。
 しかし、それはボクは、奴の体のいい言い訳だと思っていた。彼女の前でボ クに劣る姿を見られたくないのだと思っていた。これまでどんな学科でも負け たことのないボクに負けるなんて認めたくないのだと思った。よりによってボ クに負けるなんて奴は自分を許せないのだと思っていた。
 夏休みが終わる頃には、ボクは彼女と二人のレッスンがデートそのもののよ うになっていた。

 が、或る日の夜、奴のアパートでフルトベングラー指揮のベートーベンを聴 いていたら、不意にドアを叩く音が聞こえた。奴は慌てて席を立ち、ドアを開 けて外へ出て行った。だから、来客が誰なのか、分からなかった。
 けれど、全く分からなかったわけではなかった。一瞬だけれど、ドアを奴が 開けた瞬間、女の姿が見えたのだ。姿といっても、実際にはワンピースの裾の 辺りが翻るのを見ただけだった。まして顔などまるで見えなかった。
 だけど、そう、ボクはその時、確信した。瞬時にして悟った。あのドレスの デザインは彼女のものだ。このボクが見間違えるはずがない!
 そうか! 奴がピアノ教室に来なくなったのは、ピアノへの情熱が失せたわ けでもなければ、上達の早さでボクに負けたからでもないし、化学の実験の授 業が忙しかったわけでもない。
 多少はそれらの理由もあるとしても、実は、なんのことはない、二人はとっ くに出来ていたのだ。カネを払ってまでピアノ教室で、それもボクなどと一緒 に彼女に習う必要など、まるでなくなっていたのだ! 
 そういえば、最近、奴はボクとの付き合いが稀になっていた。折を見て、奴 のところに遊びに行くと、門前払いを喰らうことがしばしばだった。授業で疲 れて眠りたいからとか、明日の準備があるからと、ボクを一歩も中に入れない のだった。
 そうだったのか!
 ボクは、愕然としてしまった。ボクはなんて鈍感なんだろう。まるでピエロ じゃないか。奴に勝ったなんて、勝手に有頂天になっていた。そんなボクを尻 目に、奴等は夜毎に密会か!
 やってくれるじゃないか。

 ボクは、とてもじゃないけれど、ピアノ教室に通う気にはなれなかった。お めおめと彼女に顔を見せられるはずもない。奴の女になってしまった彼女の前 で、今更、熱心にピアノのお勉強など出来る筈もなかった。
 ボクは、それでも意地になっていた。男としてのプライドが傷付けられたよ うな気がしていた。そうだ、バイエルの教科書の最後まで遣り通すのだ。どん なに苦しくても、そこまでは勉強する。
 但し、彼女に習うのだけは御免被る。ボクは、彼女の教室を即座に止めて、 駅前のY音楽教室に通った。そこには幾つかのブースがあって、一人で練習も できるし、おカネを払えば先生も呼べる。
 秋口に入って、10月の声を聞く頃だったろうか。曲がりなりにもボクはバ イエルの最後の頁に辿り着いた。そう、ショパンのノクターンを他人の鑑賞に 堪えるかどうかは別として、とにかく間違いなく弾き通すことはできるように なったのだ。
 その頃には、バイエルの末尾に載るノクターンは幾分、編曲されていて、ピ アノの初心者でも弾けるように工夫されていることに気付いていたが、そんな ことに頓着する意味を感じていなかった。
 やった! 
 これでいい。男としての意地だけは通した。元々、別にピアノを習う必要も 意欲もなかったのだ。そもそもは奴のために付き合ったのだし、もう、これで ピアノとは縁を切ろう、そう、思った。

 話はこれでは終わらなかった。

 翌年の春先だったか、久しぶりに奴のアパートへ向った。キャンパスで奴に 出会って、やっと授業も目処が立ったし、久しぶりだから、一緒にレコードで も聴かないかと誘われたのだ。
 その日は雨だった。いつものように駅前のジャズ喫茶に立ち寄って時間を潰 すことなく、約束の時間より早かったのだけど、奴のアパートへ向った。
 すると、見かけたのだ、彼女を! 彼女が奴のアパートから出てくる姿を!
   雨のせいだったのだろうか、彼女は俯き加減だった。しばらくトボトボと歩 いていたが、やがて降り頻る雨の中を走り去った。咲き誇る桜の花びらも雨に うなだれていた。




 
                               
  by なずな





(なんだ、相変わらず続いてたのか…。早く来すぎて、拙いところを見たかな …。喧嘩? もしかしたら二人は、たった今、別れたとか…。)
 ボクはよほど、踵を返そうかと迷った。でも、後戻りするのも悔しい気がし た。半分、自棄になったような気分で奴の部屋に向った。

 奴はボクを静かに迎えた。愁嘆場を繰り広げた風には見えなかった。何処か 悲しげにも見えた。しばらくはインスタントのコーヒーを飲みながら、新しく 入手したという何枚かのレコードに聴き入っていた。
 会話は弾まなかった。何を喋っても気まずくなるような気がしたし、第一、 饒舌な奴が沈黙気味なのだ。書棚には奴が尊敬するという武満徹の『音、沈黙 と測りあえるほどに』という表題の本があった。

 そのうちに、奴がポロッと一言、発した。それはボクには衝撃的な言葉だっ た。
「どうして、お前、彼女、振ったんだ?」
 ボクは、何の話か、さっぱり分からなかった。
(えっ? 振った、ボクが、でも、一体、誰を?)
 ボクは何が何だか分からず、奴の説明を待つばかりだった。
 が、奴は、また、ダンマリを決め込むのだった。
 ボクは、懸命に考えた。ボクが誰を振ったというんだ。そもそも、ボクは誰 かと付き合ってたっけ。女性とは、誰とも付き合いのないことは、当人である ボクが分からないはずがない。それに、頻繁な付き合いが、ここしばらくはな かったとしても、キャンパスなどでの交流は続いていたので、ボクが入学以来、 彼女などいないことは奴だって知っているはずだった。
 ボクは、懸命に脳裏を探った。ボクの周囲にボクに執心しているような女性 がいたか、想像される女性は全て思い浮かべてみた。けれど、悲しいことに、 どう自分に贔屓目に見ても、誰一人、思い当たる女性はいないのだった。

 すると、奴はまた、ボソッと一言、発した。
「彼女、泣いてただろ」
「彼女??」
 奴はその日、初めてボクの目を見た。
「気付いてなかったとは言わせないぞ。ついさっき、下で彼女を見ただろう!」
 彼の目は、一瞬、憤怒で燃え立ったようだけど、すぐに哀れみでもなければ、 蔑みでもない、悲しいような諦めきったような表情に変わってしまった。
「せっかく、チャンスをやったのに…。」
 ボクは、やっと、真相を悟った。そうか、ピアノの練習の時、彼女がやたら とボクの手を取ったり、指を抓んだりしたのは、そうか、そうだったのか。教 室を止めますと宣言した時、口元を歪めてまでの悲しげな顔をしたのは、単に 生徒を失う無念さのゆえではなかったんだ。
 外からは雨音が胸に痛いほどに響いてきた。その音はもうボクには到底、弾 けそうにない、ショパンの雨垂れに聞こえた。



04/02/10





[ 文中の可憐な挿画は、なずなさんの手になるものです。過日、なずなさんサイトでキリ番(2,000)をゲットし、その記念のプレゼントとして戴きました。(04/07/15 up) ]


[注意!: 以下の評は、本作を読了の上、参考にしてください。当然のことながら、一つの読み方の可能性をS・Y氏が示してくれているものと思います。氏は、決して小生の小説のファンというわけではなく、あるサイトで目に付く全ての(虚構)作品に目を通し、且つコメントを寄せるという方なのです。その意味で一定の第三者的立場を確保された上での批評なのだと思っています。]



S・Y氏の評





 無精庵さん、こん**わ。
「雨音はショパンの」拝読しました。

 ピアノを間に挟んだ、二人の男の友情と女を巡る物語。

 無精庵作品にしては珍しく(オイオイ)、正統派青春作品になっています。
 ただし前作、「ピアノの音」は、直接の関連作品ではない ので、本編を単独で読む事が出来ます。また、前作同様、F文に掲載された過去の無精 庵作品のどれとも繋がってはいないものと思われます。
 イントロの「あの人」は誰なのかが微妙な部分で、もしかすると「ピアノの音」で高 校生だった主人公が、大学生に成長してからの物語とも仮定してみました。
 が、本編で、大学生になってから初めてクラシックを聞くようになったと自述してい ますので、ありえません。「あの人」を追い求めて、ピアノ曲を聞きまくって頭の中ま で音が鳴り響いていると前作で示されていましたから。
 じゃあ「あの人」って誰なんだ? となりますが、ラストまで読んで、後は読者各自 で上手く話を「繋げて」下さい。会えなかったわけじゃない、けど、会っているわけ じゃないので、話としては微妙ながら伏線ライン。咎める性質のものではありません。 (作者の意図、つまり「ピアノの音」からの連作という意図とは例え違うとしても)


ピアノを聞きながらネタバレ改行


 誘われるままにピアノ教室に友人と一緒に行き、そこのちょっと年上の短大生教師の 女性に一目惚れ。ははんコイツもそのつもりか、でもまあいいやこの娘可愛いしと、不 純な動機ながらピアノを習い始める主人公。
 いつしかレッスンは恋の色合いを帯び始めるのであり、ピアノにしても彼女にして も、友人というライバルがいるからなおのこと燃え上がる。特に、他の事では勝ったた 事が無いという劣等感を持っている主人公にとって、熱中できる事柄はどれほど大切 だったのか。
 レッスンを休みがちになった友人の姿に、己の勝利を確信した主人公ですが、たまた ま居合わせた友人の部屋を尋ねてきた女性の影に、すでに二人が付き合っていたのだと 決めつけてしまいます。
 いいのかそれで?! きちんと確かめたのか?
 …いえ、出来ません出来ないんです。あまりにもショックが強すぎて、まともに考え ようとは思っていない。とりわけ熱中してきた恋の行方の事ですから、はっきりダメだ と判るような事を確かめたくなんかない。全身で自己否定するようなものです。
 殆ど崩れかかった自我をなんとか守り通すべく、投げ捨てるようにピアノ教室を辞め て、別の所で最後まで教程をやり遂げる主人公。簡単でもなんでもいい、とにかく最後 まで終わらせる事が、自分の恋を終わらせる唯一の方法だったのです。彼にとっては。  しかし、これで話が終わらないなんて。
 再び、友人の部屋の前で擦れ違った彼女の姿。なぜ泣いているのか、声を掛ける事な どできない。例え、今しがた別れ話を終わらせたのだとしても、自分にはその資格どな い。どんな理由があろうとも、自分から彼女の元を去ったのだから。
 しかし、部屋の中で友人が告げた、「なぜ、彼女を振ったのだ、チャンスをやったの に」という言葉に打ちのめされる主人公。
 そう。全てはコイツの優柔不断な早とちりのせいでしょう。主人公も逃げるように彼 女の元を去ったし、彼女もまた、歪んだ唇のまま、彼を留めようとはしなかった。機会 はあっても、縁がなかったと申し上げるしかないのでありましょうか。
 実のところ、だったら今すぐ追いかけろよ主人公誤解だったんだろうと叫んでしまい ましたが、コイツがそんな事をするはずなどない。そうだとしたら、こんな結末を迎え る事などないのです。


 ピアノ教室の中で、「何度も会って」直接ピアノを教わっていたのに。
 友人のアパートの外で、影を見かけただけなのに「会ってもいないのに」自分に心が 向けられていないと決めつけて。
 夜の雨の中、泣きながら帰る彼女を遠くから見つめるまま「会おうともしない」で。  だから、今でも彼女の面影は主人公を苦しめるのです。
 何度も会っているのに、“会えなかった”、“会わなかった”かのように振る舞った 自分自身の事を思い出してしまうから。



S・Y    



                               04/02/10