(03/08/08 up)
今日も幾人もの影と擦れ違った。
その誰もが、波風の立つこともなく、行き去ってくれた。
けれど、だからといって、みんながみんな、今まで通りってわけにはいかない。
オレは、もう、人と出会うことが怖くてならなかった。行き交う人に怯えて歩
くことに耐えられない。何故、こんな雑踏の町に住んでいるのか、自分でも不思
議に思う。
が、場末の町にも、人里離れた山間の村の一軒家にも暮らしてみたことがある。
夜になり、遠くの汽笛の音も、走り抜ける車の音も耳に出来ない日々に、堪らな
くなってオレは逃げ出したのだ。
人気がなければ、誰かの足音が聞こえなければ、ガキどもの喚声が耳障りでな
いならば、オレは一気に落ち込んでしまう。
なのに、人の影に怯える毎日。二進も三進もいかなくなっている。部屋の中に
閉じ篭ることもできず、外は外で敵の姿に戦々恐々としてしまう。
オレは時に猫になって、忍び足で歩いてみたり、人の気配を誰よりも早く察知
して、柱の影から何処かの塀の透き間へとすばやくこっそり移動していく。しか
も、移動する姿を誰にも見せない。見られたらお仕舞いだ。挙動不審で通報され
てしまう。オレには仲間も知り合いさえもいない。オレの健全なる精神と豊かな
常識を誰一人、請合ってくれる見込みはないのだ。
そしてオレは時に犬になって、人の気配を嗅ぎつける。オレに敵意を持ってい
ないかどうか、オレの手の平に滲む微かな汗で判断する。町角の向こうからやっ
てくる誰彼の正体を、まだ目にする前に徹底的に見分け、万が一にも出会ったと
きには、どう対処すべきかを予め完璧にシミュレーションしておくのだ。
あちこち逃げ回って…じゃない、地雷原たる人間と出くわさないよう用心に用
心を重ねているうちに、奇妙な電信柱を見つけた。何処か馴染みの深い柱だと感
じられた。オレを親しげに呼び止めているようにさえ感じられる。
(ボクのこと、覚えている?)
そんな声が聞こえたような気がした。
(キミのこと? いや、申し訳ないけど、覚えてないね)
オレは、そう返事するしかなかった。
一瞬、気まずい沈黙がオレの周囲の空気を凍て付かせた。
(そんな…、ボクのことを忘れるなんて…、ボクだよ、ボク。あなたがボクを…)
オレはそのボクという奴の心の痛みを言葉の節々に感じながらも、何も思い出
せなかった。
(オレがキミに何かしたというのか…)
そう、問いかけようとした瞬間、電信柱にベットリと粘り付いている影に気づ
いた。
(こ、これは…、これはもしかして、あの時の…)
(そうだよ、ちょうど一年前のあの時のボクの影さ。やっと思い出してくれた?)
オレは逃げようとした。でも、足がアスファルトの路面に溶け込んでしまった
ようで、身動きが取れなかった。
(お前はまだ、こんなところにうろついていたのか?!)
(ボクから逃げようったって、そうはいかないよ。やっと会えたんだもの。ゆっ
くりしてってよ)
さすがに、お前は死んだはずだろう、などとは言えなかった。あの日、オレは
一瞬、意識を失って、そう酩酊状態、それとも失神したようになってしまった。
気が付いたら、路上に誰かの死骸が横たわっていた。電信柱にどす黒い粘液がベ
ットリと…。
オレは、ようやくその場を逃げ去ることが出来た。
今度は人と行き逢うことを恐れる暇もなかった。とにかく、あの場ではない何
処かへ行きたかった。一歩でもいいから離れたかった。ねっとりとした液中をス
ローモーションで走っているように感じた。奴に追いつかれる。今度、追い縋ら
れ手でも握られでもしようものなら、オレの心臓は持ちそうにない。触れられた
瞬間に止まってしまうだろう。
忘れたはずだった。少なくともオレは忘れていた。電信柱に刻み込まれた人の
形の影のことなど、その日の夜にさえも、脳裏に浮かぶことはなかったのだ。
オレとあいつのことを知っているのは、奴だけだったのだ。奴さえ、この世か
ら消え去れば、オレの過去を知る者はもう誰もいない。オレさえ、忘れてしまえ
ば、オレの人生は安泰のはずなのだ。そうだろう?!
オレはオレの弱気を呪った。オレの後ろ向きな心を、それこそゴキブリを踏み
躙るようにして、今日まで踏み潰し掻き削ってきた。オレには今がある。オレに
は見え透いた明日がある。昨日のことなど、今のオレに何の関係がある? オレ
は、目の前のことだけに関心を向けるように努めてきた。部屋には古びた机があ
り、開かれることのなくなった本や雑誌が乱雑に散らばり、郵便受けから抜き取
ってそのままの新聞が堆く積み重ねられていた。洗い晒しなのか、それとも昨日、
脱ぎ捨てたのか判別し難い衣類。カップラーメンの山。架けることも架かって来
ることもない電話。歩くと濛々と立ち上る埃だらけの部屋。思いがけず部屋の中
に日が差すと、その埃のあまりのひどさに恐怖さえ覚える。
そうだ、オレにはその一つ一つの事実で十分なのだ。オレには心の友だってい
る。天井の隅に巣食う蜘蛛だ。奴がオレの部屋に居座るようになったのは、一体、
いつからだったろう。奴が蜘蛛の巣を張るのを、一晩中、飽きることなく眺めて
いた。オレには不思議だった。蝿も蚊も蜘蛛の巣に捉えられるのを一度だって見
たことはない。なのに、蜘蛛の奴は順調すぎるくらいに、日々、大きく成長して
いく。何を喰っている? ダニ? それとも、オレのオーラ?
そうだ、オレには十分すぎるほどの豊穣なる世界が伸び広がっている。オレの
辞書に退屈の文字はない。蜘蛛の巣が緊張にピンと張り詰めているように、オレ
の心も張り詰めている。大概の奴は、地震とか雷雨の時に大地や天への不信と不
安を覚えるらしいが、オレの心は常に震えている。それもビリビリと高鳴るよう
な震え。高周波過ぎて、耳には聞えない悲しみ。
そんな部屋に窒息しそうになって、外へ出かけると、この始末なのだ。
気が付いたら、オレは、見知らぬ町にいた。オレには何処にも居場所がない。
ここにもなければ、あそこもダメ。だからといって動かないこともできない。絶
えず、居場所を替える。一瞬でも止まったら、追いつかれそうな気がするのだ。
奴がやって来そうな気がするのだ。
けれど、奴って、一体、誰のことなのか。分からない。ああ、この町もダメな
のだ。俺の居るべき場所ではないのだ。
が、ふと見ると、何処か懐かしい雰囲気の漂う家があった。あの窓が昔のまま
じゃないか! そうだった。オレが初めて愛した女の家だ。オレがオレの手で永
遠にオレのモノにした女の家だ。窓枠には十字に杭が打たれてあった。
(ふん、そんなものにオレが邪魔されるものか)
オレは、その窓に近づいた。オレの居場所はそこにあるのだ。そこにしかない
のだ。窓を開けたなら、昔のあいつが昔の姿のままに、そこに居てオレを待って
いてくれる。
オレは、気が付くと杭を外していた。とっくの昔に朽ち果てていたのだ。呆気
ないくらいに外れたのだ。窓のガラスは割れていた。中に忍び込むのは、それこ
そ、昔と同じく、簡単すぎるほどだった。あの人が永遠の女となった、あのバス
タブが昔のままに残っていた。オレは、そのタブに身を深く沈めた。心の底から
安堵した。ここだったのだ、オレの居場所は。
天井から白い衣装を身に纏った女が降りてきた。衣装は、この世のものとは思
えないほどに細く透明な糸で縦横に織られていた。やがて、オレは、その白く輝
く衣装に覆われた。衣装の下には裸の女がいた。オレは女と何年ぶりに重なった
のだった。衣装はオレたちの体に粘りついた。
これでいい、これでいいんだ。そうだろう?
03/08/07 01:12
[本作品は掌編作品「幽霊」の続編としも読むと理解が増すかも。 (03/08/08 記)]

|