越中立山と万葉集

 


 過日、白川静著の『初期万葉論』(中公文庫刊)を読んだ。既に若干の紹介は 済ませている。近いうちに同氏著の『後期万葉論』を読むつもりだが、その前に、 万葉集の周辺を巡ってみたい。
 例によって小生のことだからあくまでも周辺を巡るだけである。ま、小生は富 山出身なので、越中に焦点を合わせることだけがこの小文の特色になるだろう。
 さて、古代の書籍・文献というのは概して書写により広まったり次代に伝わっ ていく。万葉集もその例外ではない。我々が多く目に触れる万葉集は、従来は西 本願寺本と呼ばれるものがほとんどである。
 その西本願寺本は仙覚が作成した「仙覚本」の系譜を継いでいる。13世紀に 仙覚により校合作成された「仙覚本」は、しかし、どれほど原型を忠実に引き継 いでいるか若干の不安がないわけではなかった。
 そこに、昭和五十四年廣瀬本万葉集が出現したのである。「廣瀬捨三氏が大阪 そごう百貨店の古書展において入手した万葉写本」は、非仙覚本であり、しかも 「この系統の古写本としては初めて全巻を完備したものであること」が明らかと なったのである。
 この廣瀬本万葉集は「祖本が藤原定家自筆の秘蔵本」ということもあり、注目 を浴びたし、万葉集研究に資する事が期待されている(詳しくは下記を参照):
 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/hirose.html
 万葉集というのは、『古事記』と共に、古来より秘本扱いされてきたことは知 られている。正史である『日本書紀』にも、『続日本紀』にも、正史らしき序文 (いつの時代に書かれた序文なのか、依然として論議の的になっている)が施さ れている『古事記』のことは全く触れられていない。
[『古事記』序文偽書説については、下記を参照:
   http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-63.html  ]
 宮中にあって秘匿され、しかも大事に受け継がれた本らしいのだが、しかし、 表立っては『万葉集』も『古事記』も口には出来ない書物でありつづけた。
 その禁忌たる呪縛が解けたのは、平安時代が終焉し藤原一族(平安貴族)の権 力が崩壊し武士の世が始まってようやくのことだった。特に万葉集が表立って言 及され、また万葉集に影響されていることを堂々と示しえることを象徴するのは、 11世紀初めに登場した『金葉集』であろう。
 明らかに万葉集を意識した題名であることは言うまでもない:
 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/hatidai/kinyou_s.html
 いずれにしても、古事記も万葉集も少なくとも平安時代あるいは平安時代の終 わりまでは秘書扱いだったことは間違いない。それは、単純に言えば、政治の世 界で傍流になった氏族の白鳥の歌だったからだろう。俗っぽく言えば、負け犬の 遠吠えということかもしれない。物部一族の流れを汲む大伴氏は、一族の誇りと 没落の嘆きを詠うかのように『万葉集』を編纂したのだろう。
『古事記』は太(多)一族の白鳥の歌であり、『古今集』は紀貫之の手になるも ので、紀氏一族の白鳥の歌なのだ。
 どうも脱線ばかりしている。『万葉集』は大伴家持の編纂になるものであり、 かつ、「家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め」ている。特に、 万葉集「全20巻のうち巻17〜巻19に自身の歌日記を残」すなど、まさに大 伴氏のために『万葉集』があるといっても過言ではない。
 家持は彼が万葉集に残した473首のうち、「越中時代5年間の歌数が223首」と なっている。実に記録に残る歌の半分を越中国守時代の5年間のうちに作ってい るのだ。大伴家持の歌境は越中時代に作られたと言っていいのではないか。また、 家持以外の歌も含めれば、越中万葉歌は300首を越えるのである:
 「大伴家持の生涯と万葉集」
 http://www.manreki.com/arekore/yaka-manyou/yaka-manyou.htm
 「越中万葉うためぐり」:
 http://www.manreki.com/arekore/utameguri/utam0100.html
 大伴家持にとって、越中は異郷の地であり、左遷の地に過ぎなかったのだろう か。彼の歌から察するに、やはり都落ちの地であったことは間違いないようだ:
 http://www.manreki.com/arekore/utameguri/utam0310.html
 富山といえば、立山連峰の勇姿がまず浮かぶ。家持にとっても立山連峰の眺め は格別だったようだ:
 http://www.manreki.com/arekore/utameguri/utam0230.html
 せっかくなので、上記のサイトに引用されている長歌をここに転載しておこう:

 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に名かかす 越(こし)の中 
 国内(くぬち)ことごと 山はしも 繁(しじ)にあれども 
 川はしも  多(さは)には行けど 皇神(すめかみ)の 
 うしはきいます  新川(にひかは)の その立山に 
 常夏(とこなつ)に 雪降り敷きて……(巻17−40000・大伴家持)

 ちなみに、新川は今に残る地名だが、富山市も古くは新川郡に入っていた。小 生の町(村)も新川郡だったのである。その新川郡を取巻くように巨大な純白の 屏風として霊峰立山連峰(立山という独立した山はないことは既に述べた)があ る。
 伏木の地に国守の館があり、家持はその地に住んだ。そこからは二上山が眺め られたはずである。家持の故郷である都にも、同名の二上山があった:
 http://www.manreki.com/arekore/utameguri/utam0200.html
 伏木から程遠くない海岸である雨晴や島尾海岸からは、富山湾越しに立山連峰 を望むことが出来る:
 http://members5.cool.ne.jp/~wakadora/toyamawannisi.htm
 富山では、晴れた日には市街地でも海辺でも立山連峰が人の営みを遥かに見下 ろす勇姿を眺めることができる。その印象は、奈良の小高い山の連なりに抒情を 育んだ家持にも強烈なものがあったに違いない。
 そうした家持の歌境が、万葉集に反映しないはずがなく、貴族達にとっても歌 境の故郷として印象付けられたのである。

                                            03/02/01 01:13