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(03/06/11 up)
けだるかった。全てを放出してしまった。 カーテンの透き間から洩れ込む光がやたらと眩しい。 まるで爛れた営みを咎める無数の視線のようだ。 でも、本当は、至上の愉悦を堪能したものへの嫉妬の眼差しなのだ。 目を閉じてみた。すると、一瞬にしてスクリーンに世界が映る。 青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽 かに不二なる山の優美な姿も望める。 空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何 処までも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。 絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。 なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それ で十分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。 言葉や描像で示すのが、余計だと言うなら、音楽はどうだろうか。情景をよ り豊かに、情緒に満ちて眺め入ることができるではないか。 が、でも、やはり、眼前の世界を描き切りたい、しっかりと把握したい、理 解したい、手中にしっかりと確保したい。それには、結局は言葉に行き着いて しまうのである。 言葉の曖昧さ。それを思わない者はいないだろう。そんなことを言うつもり などなかったのに、言いたいこと、脳裏に浮かぶこととは、言葉は決してピッ タリとはサイズも形も合わない。何かしら、ぎこちないのだ。 その食い違いが、また、何とか、誤解や不正確さを訂正しようとさせ、する と、その言い直しがより一層の齟齬を生み…、そうして泥沼に嵌り込んで行く。 もう、言葉など、邪魔なだけなのだ。そこにある情景で、すぐ傍にいて軽い 寝息を立てるその人の胸の起伏を愛でるだけで今は心底、満足なのだ。 が、言葉は勝手に浮かんでくる。爽やかだとか、メローな気分だとか、何処 かで聞いた表現ばかりだ。陳腐、極まりない。でも、浮かんでは、心を乱し、 そしてやがて消え去っていく。 それなら、言葉は言葉で勝手に戯れているがいいのだ。 人は、一人で居る限り、対話など要らない。二人が絡み合って一つの肉体と なったならば、どんな賛美の言葉も歓びを現す明確な表現も不要。そもそも言 葉などなくたって、ここに閉じ篭っている限り、単に生きている限り、互いの 息遣いを重ね合わせている限り、困ることもない。 心のうちに浮かぶ哀切なる情念も、その人の波と潮の満ち干きに身を任せて いればいい…。その人の白いお腹の起伏は、まるで潮の起伏はそのものようだ。 裸のお腹が薄さ寒い蛍光灯の光に震えている。そっと撫でてみる。びくっと動 く。目覚めたの? 緑なす木々の放つ、心に染み入る生命感。他人のいない世界での、二人だけ の心安らぐ世界。たとえ、今、感じている感激を世界の誰と分かち合うことが 出来ないとしても、そんなことの何が問題なのか。 遠い世界にいるはずの誰か。その人以外の誰とも、悲しみも歓びも伝え合う ことも、慰めあうことも出来ないとして、もう、そんなことはいいではないか。 ここに一個の世界がある。ちょっと孤独ではあるけれど、甘い孤独、蜜の孤独。 お前の蜜が、真率な思いが募って溢れ出しそうだとしても、今は情の流れ出す に任しておくのがいいのだ。 カモメだろうか、海鳥の鳴く声がする。気のせいだとは分かっているけれど、 二人の空を白いカモメが舞い戯れている。ギャーという喚き声。なんてあられ もない。それでいて、悲しいような、それとも歓喜に咽んでいるような。 鳥達は決して一羽では空で戯れない。鳥達は宵闇に何処からか現れて、ブー メランの形に、あるいは幾重もの山の形にと変幻を繰り返し、やがて何処へと もなく飛び去っていく。あいつらは、何羽もが集まって一塊になっている。も しかしたら、奴等は集団になることで、一個の生き物なのかもしれない。 そもそも、一羽でいる鳥は、何か不自然なのだ。せめて二羽、揃っていない と、様にならない。 海の底を回遊する魚達も、集団をなして泳いでいる。一匹一匹がいる、など と思うのは、人間の勝手な思い入れなのであって、やっぱり奴等も群れでこそ 生き生きしている。群れを成して、その形を自在に変貌させることで、自分達 が仲間であることを誇示している。 たまに、群れからつい離れた魚は、それに気付くと慌てて群れに戻る。それ は一匹だと外敵に狙われやすいからでもあろう。が、きっと群れの中でこそ、 平安が得られるのだ。群れの中でこそ、己の居場所を見出せるのだ。その個体 の前か隣りか、斜め前か後ろの中に挟まって定位置を確保することで、その一 尾も十全の命を得るのだ。 蟻の群れ。魚の群れ。鳥の群れ。動物の群れ。 さて、人間はどうなのだろう。 きっと、人間ほどに集団を意識している動物はないんじゃなかろうか。絶え ず他人の存在が脳裏に浮かんでいる。他人の目を意識している。だからこそ、 一人を望む時もあるってことじゃなかろうか。 惰眠を貪るお前は、今は一人なの? それとも貪欲なお前のことだから、目 覚めた後のデザートを夢見ているのかもしれないね。白い肌が時折、ピンクに 染まるのは、熱い眼差しのせいだろう? ふと、ついさっきまでの喘ぎ声を思い出す。お前は明日の朝には、また、他 の誰かを求める。あの熱い吐息の余韻さえも吹き消して。 お前は、愛していると言ってと幾度も懇願した。間違っても口にするはずが ないことを知っているくせに。わたしの名前を呼んでと必死に訴えた。叶うは ずなどないことをさんざん思い知ってきたはずなのに。 お前が切望する愛の言葉。 お前は愛するという言葉が欲しいがゆえに肉体を投げ出した。 誰がお前などに言葉をやるものか! そんな時、人間の言葉って何なんだろうと不思議に思う。それは生まれた時 の、オギャーという泣き声の延長なのに違いない。息をすることそのものなの に違いない。幼児の話す言葉は、まるで息を吐くようにして吐き出される。む しろ、歓びの叫び、悲しみの吐息、喋れる快感の誇示、離れている誰彼への愛 憎に満ちた呼びかけなのだ。 笑い顔は泣き顔に似ている。泣くように笑う。笑うように泣く。下を向いて いると、泣いているのか笑っているのか、見分けがつかない。笑うって、泣き 叫ぶことの極まりなのだ。泣きじゃくるお前を見て初めて、そんなことに気が ついた。 そして言葉を発するというのは、生きていることの証し、息していること、 息しえることの証しなのだ。 というより、もう、音声を伴う伴わないを別にして、話す言葉は生きている ことの表現そのものなのだ。お前に愛を与えても、愛の言葉を与えないのは、 そのせいなのだ。お前を抱くのは原始の命の響きを聴きたいからじゃないか。 海の響きを懐かしむだめじゃないか。 そう、だから言葉は肉体表現そのものなのである。言葉は肉体なのだ。身体 そのものなのだ。仲間の肉体への呼びかけ、それが言葉なのだ。言葉が変容す るのは、言葉が姿かたちを変えるのは、他人を意識している証拠なのだ。言葉 の原風景としての吐息は、母への、仲間へ、世界への挨拶なのだ。 受肉された吐息、それが言葉なのだ。二人には、原初の言葉としての喘ぎ声 と獣の叫び、それがあれば十分じゃないか。 さあ、もう一度、お前の弾むような肉体と息遣いを楽しませてくれ! 03/06/11 18:25 [本作品はエッセイ作品「思う、故に、時折、我、在り(2)」を土台にして掌編作品に仕立ててみたものです。比較して読むと面白いかも。(03/06/11 記)] |