篁牛人のこと/善知鳥と立山と  


 



1.篁牛人のこと  

2.善知鳥と立山と  




1.篁牛人のこと  

(04/08/17 up)



 篁牛人(1901〜84年)を知る人は、少ないのではなかろうか。恥ずかしながら 小生も過日、初めて知った。正確に言うと、名前くらいは聞いたことはあったが、 作品と名前とが一致したのは、過日のテレビ番組で彼が扱われたことで初めてだ ったのである。
 その番組というのは、「開運! なんでも鑑定団」で、たまたまお盆で帰省して いたら、再放送が昼間、放映されていたのである(父がその番組を選択した)。
 恥ずかしながらを繰り返すと、篁牛人という名前、どう読むのか分からなかっ た。たかむらぎゅうじんと読む。知る人は、渇筆画の篁牛人と呼ぶだろう。

 いきなり余談になるが、篁(たかむら)というと、小生などは、歴史の知識と しては、小野篁(802‐852)を思い浮かべてしまう:
「やまとうた 千人万首」

「三十三歳で遣唐副使に任命された。二度出帆して難破したのち、承和五年、大 使藤原常嗣と軋轢を起こし、病と称して進発せず、しかも大宰府で嵯峨上皇を諷 する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて隠岐に流された」とあるように、かな り奇矯な方だったようである。が、「二年後、その文才を惜しまれて帰京を許さ れ」とあるように、才能豊かな人でもあった。
「小野篁遺趾の碑と流謫地付近の風景」などを見てみるもいいかも。
 せっかくなので、一首だけ掲げておきたい

 花の色は雪にまじりてみえずとも香をだににほへ人のしるべく(古今335)

 まあ、少々、無理を承知で、小野篁の名を出したのは、「篁」つながりもある が、盂蘭盆会の季節でもあるからだ:
「地獄を旅する」

 話を戻す。
 渇筆画、及び、篁牛人をお馴染みの「笑説 越中語大辞典」というサイトの当該の で説明しておこう。
「本画壇の中でもひときわ異色の存在として注目される画家(1901〜84年)。東 洋の故事・伝説を主題とし、渇筆技法(岩や崖などを立体的に描くのに、墨の使 用を抑え、半乾きの筆を紙に擦りつけるように描くこと⇔潤筆技法)を駆使して 独自の水墨画世界を構築した」
 さらに同じ項に続いて紹介されているように、「ドイツ文学者の池内紀の『二 列目の人生 隠れた異才たち』(晶文社)は人を押しのけるのが苦手で、記念写 真でも二列目に並ぶような人々を描いた本で、あとがきには「世評といったこと へのこだわりから遠い人たちである。ほかに心を満たすことがあって、世才にま でまわらない」と書かれている」とある。
 上掲書には、「市井の植物学者、大上宇市。美人画家の島成園。ハーンの同時 代人モラエス。湯布院の生みの親、中谷巳次郎。大正天皇の侍医、西川義方。日 本山岳会の創設者、高頭式(たかとうしょく)。独文学とエロティシズム文学の 紹介者にして演劇人、秦豊吉。画家青木繁の息子で「笛吹童子」のテーマ音楽の 作曲者、福田蘭堂(その息子がクレージー・キャッツの石橋エータローだ)。数 冊の卓越した料理本を残して出家した魚谷常吉、渇筆画の篁牛人(たかむらぎゅ うじん)」らが扱われている。
 ちなみに、富山で一列目にいたとされるのは、棟方志功だが、彼は富山に疎開 していたという縁があるのだが…。
[富山と棟方志功との関わりについて、下記を参照:
「善知鳥と立山と」(この頁のその2を御覧下さい)]
 上掲のサイトにも紹介されているが、「安養坊の旧居跡に篁牛人記念美術館」がある。
 この「篁牛人記念美術館」は、富山市民俗民芸村にある。
 その民俗民芸村の中に、「平成元年10月、市制100周年を記念し篁牛人記念美 術館を開設」したとのこと。

 さて、ネットで篁牛人の作品を探したが、なかなか見つからない。そもそも篁牛人が本名なのかどうかも分からないでいる…。
 テレビで見た印象では、水墨画ということで思い浮かぶ枯淡とか風雅といった イメージとは程遠い。豪快で放胆。酒が好きで、終日、酒を飲んで仕事していた とか。
 早くから才能を見出され、郷土では、不遇な彼を支援するための会が結成されたとか。 小生の父もその会に関わりを持ち、自作の俳句を幾つか持参し、彼がそのうちの 一句に興味を持って、作品を描いたことがあると、父が冒頭で紹介したテレビを 見ながら語っていた。
 が、それこそ二列目の人であり、世俗的な成功を一切、顧みなかった人のよう である。突き抜けたような作品を見ると、さもありなんと思ってしまう。
「篁牛人」をキーワードにあれこれネット検索していたら、25番目くらいでや っと下記サイトを見つけた:
「篁牛人記念美術館」
「こころに抱いたあこがれをもとに、モダンで精妙な作品を残した画家」とか、 「地方や、時代のワクを軽々と突き抜けた画家」とか、「水墨画でありながら、 明るく、斬新でモダン。雄大な構図でありながら軽妙、洒脱」と紹介されている。
 これらの印象は、小生がテレビで受けた印象に近いような気がする。
 このサイトでは、「篁牛人は、三つの点から魅力があります」として、さらに 詳しく篁牛人世界の美の魅力を説明してくれている。
 一つ目は「空間の大きさ」だとして、「墨を乾かした筆による、グラデーショ ンの美しさと線描の鮮やかさがつくる空間の大きさです。伸びやかに描かれた線 は、一本としてゆらぐことがありません。」という。
 二つ目は、「題材が呼ぶ共感」であり、「中国の故事や日本の昔話に多くを求 めて」おり、「日本人の魂に根を下ろした物語を題材としてい」るという。「南 方戦線に従軍した体験をもとに描かれた色彩画には、大陸のおおらかな暮らしへ の共感をみてとれ」るとも。
 三つ目は、「不遇からの飛翔」だとして、「先端を走るがゆえに長らく認めら れなかったこと」を指摘している。「戦後間もなく開いた個展がほとんど評価さ れなかったため、十数年間、意にまかせない日々を送ったと伝えられています。 その期間を経て、線はますます研ぎ澄まされ、空間の美がより豊かになったよう に感じます」という。
 しかし、やはり篁牛人の作品画像を見出すことはできなかった。
 小生の父も、篁牛人のエピソードを語ってくれたが、詳細を忘れてしまったの が情ない。
「1974年に、東京池袋西部で大規模な作品展が開かれるなど、全国的にも著名で す。1989年には、富山県近代美術館が、初の富山の作家展として取り上げました」 というが、もっと知られてもいい作家だと感じ、敢えて簡単な紹介を試みた。


04/08/17 記





2.善知鳥と立山と  

(04/04/25 up)





「善知鳥(うとう)」という言葉に久しぶりに出会った。
 富山は福光町出身で、電通を定年退社後、今は郷里の福光町で福光美術館長 などの職にある奥野達夫氏に同氏が編集されている「万華鏡」や同氏の編著で ある『とやま裏方反省記』(桂書房)を進呈していただいた。
 同氏は、県立近代美術館といきいき富山のシンボルマークをデザインされた 方でもある。富山でさまざまなイベントのプロデューサー活動もされている:
「月刊・富山写真館・万華鏡」

 これは奥野達夫氏をもっと知らないといけないと、ネットで情報を集めてい た。そんな矢先、興味深いサイトをヒットした。

 棟方志功が富山で疎開中に滞在した旧家(福光町にある)が町道拡幅工事で 移転を余儀なくされたというニュースなのだが、「一般公開されているこの家 は、一九四六年に志功が初めて持った家で、懇意だった小説家・谷崎潤一郎が 「愛染苑(あいぜんえん)」と名付けたとされる」という。
 興味深いのは、「福光が疎開先になったことについて、「民芸運動が盛んだ ったほかに、志功が感動した能『善知鳥(うとう)』は古里・青森と立山連峰 が結ばれており、富山で立山を見たかったからではないか」と推測する。 」と いう奥野達夫氏の言葉。
 そう、棟方志功は青森市の生まれなのである:
「棟方志功記念館へようこそ!」
「富山県福光町 棟方志功記念館愛染苑のページ」

 このサイトの文面を読んでみて、この記事、昨年、既に目にしていたことに 気付いた。当然、「善知鳥」という言葉(や能)にも出会っているはず。なの に、忙しさにかまけて、見過ごしていたのだ。
 なので、せっかくなので、改めてここで「善知鳥」について常識的なことを 書き連ねておきたい。
「善知鳥」というこの言葉、地名としても、珍しいが、めったには見られない というわけでもないようだ。まあ、鳥好きな方なら、チドリ目ウミスズメ科に 属する海鳥であることも含め、その姿を髣髴とされているかもしれない。
 下記サイトによると、「善知鳥(ウトウ)とはウミスズメ科の海鳥で、東北や 北海道の沿岸に棲息しておりまする。繁殖期に上嘴の付け根に角状の突起が見 られることから、アイヌ語で突起を意味するウトウの名称が生まれました」と か、「室町頃に伝わりました伝承では、猟師は蓑笠をかぶって巣に近づき「ウ トウー」と親鳥の鳴き声を真似しますと、子鳥は「ヤスカタ」と答えてしまう ので、所在がすぐにわかって捕らえやすい」とも:
「椿館歴史探訪」

 地名については、長野県塩尻市(善知鳥峠)などが知る人ぞ知る場所なのか もしれない。
 が、他に、青森県の善知鳥が興味深い。もともとは善知鳥村だったのを同村 に住んだ藩主が藩港として開発し、地名も青森と変え、青森村、やがて青森市 に発展したようだ。
 その間の事情・経緯はこのサイト を参照願いたい。

 そもそもは、「うとう」というのは、「アイヌ語で「突起」を意味する言葉」 だったらしい。そこに、いろいろな因縁があって「善知鳥」という表記に落ち 着いたようである。
 他にも、「善知鳥」というのは、「当て字のようで、延喜の御代(約900 年前)に大発生し、百姓達を苦しめたと言われている善知鳥(よしちどり)と 悪知鳥(あしちどり)の話に由来するらしく、また、青森市民には馴染みの深 い青森市安方にある「善知鳥神社」に関連した伝承が、“善知鳥”を「うとう」 と読ませているようである。」という記述がある。
 善知鳥神社
 善知鳥神社

 さて、ようやく表題の「善知鳥と立山と」に取り掛かれる。
 能に詳しい方なら、「善知鳥」にも親しんでおられるだろう。下記のサイト であらすじ などを。

 話は、「諸国一見の僧が陸奥(青森県)の外の浜に行く途中、越中(富山県) の立山に立ち寄る」ところから始まる。
 話の中には、猟師の霊が現れる:
「亡霊は、後世の報いも忘れて殺生に明け暮れ過ごした在りし日を語り、 諸鳥の中でも親子の愛情が深いと言われる善知鳥を殺した罪を懺悔する。 冥土で化鳥となった善知鳥に追いかけられ地獄の責め苦を受ける様を見せ、 どうか自分を助けてほしいと僧に弔いを頼みつつ亡霊は消え失せる。」
 話の背景には、どうやら立山信仰が関わっているようである。
 そこで、「立山信仰の伝説」というサイトを覗いてみる。

 このサイトに見られるような立山曼荼羅の絵図は、小生には何故か馴染み深 い。ガキの頃に、何かの折に見せられ、初心な小生は、絵図さながらの世界に 夢の中で幾度も<遭遇し体験>したものだった。
 このサイトの最後に、「善知鳥」の項がある。
 「立山禅定の僧が、地獄巡りを終え下山しようとしていたところ、猟師の亡 霊に出くわした」が、その猟師は、「陸奥の外が浜出身の猟師で、生前「善知 鳥」を捕らえた報いで立山地獄に堕ち、責め苦を受けているのだという」ので ある。
 この伝説は、「室町時代に既に全国的な広まりをみせる「立山地獄の因果応 報譚」と12世紀の『地獄草紙』等にみられる「鶏地獄」のモチーフを組み合 わせ、まずは謡曲として作られた。これを原作として『能−善知鳥』が上演さ れ今日に至っている」という。
 そもそも、立山地獄は、『今昔物語』に既に登場している。
 その辺は、このサイトなどに詳しい。

 文中に、「立山の地獄谷は、そうした全国の亡霊がおちこんでいる深い谷だ という考え方は、平安時代の山岳修行の験者たちの間で、ひろく信じられるよ うになりました。平安時代の説話集は、立山の地獄におちた亡霊の物語を、い くつも集録しているのであります」という記述が見られる。
 同上のサイトによると、「『今昔物語』には4つの越中関係の説話がのせられ ています。しかもその4つは、いずれも立山の修行僧に関係があります。また4 つのうちの3つまでは、立山地獄におちた亡霊の物語である。すなわち立山は、 日本国中の罪を犯した人びとの霊がおちこむ、死の世界の地獄がある山として、 意識されていたということができる」という。
 上掲のサイトの(九)には、善知鳥と立山地獄との関わりについても書かれ てある。
 立山の地獄というのは、下北半島の恐山、加賀の白山の地獄と並んで、「平 安時代から近世の末頃に至るまで、日本国中の亡霊のおちこむ地獄として、多 くの人びとの意識を支配した」ようである。
 さてここまで調べてきて、何故に善知鳥の話が、「諸国一見の僧が陸奥(青 森県)の外の浜に行く途中、越中(富山県)の立山に立ち寄る」ところから始 まるのかが朧ながら見えてきたように思える。
 やはり、富山の立山や加賀の白山と、青森(は下北半島の恐山)とを結びつ ける必要があった、あるいは、死の世界の地獄がある山と山とを結びつける信 仰が前提にあったからだ、と思われるのである。

 立山には称名の滝や地獄谷、浄土山など、密教に関連すると思われる地名が 数多く見られる。地獄谷の写真などをどうぞ。

 このサイトでは、地獄谷のほかに「血の池」など、もっとたくさんの写真 が見ることができる。

 さて、最後に、棟方志功には、「善知鳥板画巻「責苦の柵」」という作品があることを付言しておく。



04/05/02 記