藤原定家に「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(新古
今集)という歌がある。小生の大好きな歌の一つだ。西行法師の「心なき 身に
もあはれは しられけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」と、寂蓮法師の「寂しさ
はその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」と併せ、三夕と呼ばれる名
歌の一つである。
その藤原定家は、「世上、乱逆追討耳に満つと雖(いえど)も之(これ)を注せず、
紅旗征戎(せいじゅう)吾事に非ず」と嘯いた。「紅旗征戎(せいじゅう)」とは、
「朝廷の旗を掲げて、外敵を征する」の意である。世が戦乱に明け暮れようと、
そんなことは日記に書かない。そんな戦ごとなど俺の知ったことではないという
のである。
こう、定家が日記「明月記」に書いたのは彼が18歳の時のことだった。彼は
徹底して身辺雑記など等身大の関心事を書きつづけたのである。
尤も、彼が宮中の仲間に、そのように宣言していたのかどうかは分からない。
その姿勢は日記や彼の内心の関心事に絡む限り、密かに、しかし強く意志してい
たのかもしれない。
彼の時代に限らないが、世に権威とか権力はほとんど常に厳然として存在して
きた。それが明文化されるか、暗黙裡かは別として。その権威が国家レベルのも
のもあれば、家庭内での権力もある。父(時には母)が絶大な権威を持ち、時に
は暴力に訴えてでも、家庭内を治めることもあったし、あるし、あるのだろう。
そうした権威・権力の至上のものとしては、俗的なものもあれば聖的なものも
ある。俗的ものとは政治的なものに代表されるし、聖的なものとは宗教に代表さ
れるのだろう。
ここでは話題を宗教に限るが、日本は国家鎮護のために仏教が導入され奨励さ
れたこともあり、多くの宗教(仏教)は上から押し付けられたものだったようだ。
それでも民衆がその教えや権威などに心を寄せた場合もあるのだろうが、日本の
土壌に定着したのは、やはり鎌倉時代になってからだったろうと思うのが無難だ
ろう。
鎌倉仏教。12世紀ないし13世紀になり、平安貴族の力も権威もようやく低
下して初めて、国家鎮護ではない民衆のための宗教が生まれだした。仏教が朝鮮
を経由して、あるいは直接中国から移入したお仕着せのものではなく、徹底して
日本の土壌や風土、自然に合った、またそうした自然から染み出るような色合い
の宗教に変貌を遂げたのだ。
変貌を遂げたというより、もっとはっきり新しい宗教が生まれたというべきか
もしれない。法然など中央の権威ある教えをしっかり学んだ上で新しい宗教への
転換を果たそうとした宗教人もいるし、依然として比叡山の流れを保っている。
が、親鸞にしても日蓮にしても、栄西や道元にしても、権威に逆らって徹底し
て宗教的思索を行って、新しい、日本に見合った、民衆に視線を合わせた、つま
りは日本の現実と水平に立ち向かった宗教が生まれたのだ。
仏教の経典を学び、古の宗教人に学んだとはいえ、素人の直感からすると、学
んだというより、己の得た宗教的洞察を正当化するために仏典・経典の中から都
合のいい部分を随意に抜粋し組み合わせ、一個の宗教書に仕立て上げたという印
象がある。親鸞の『教行信証』など、その典型のような気がする。
すでに、というか、ようやくにして、宗教が土着した。あるいは、日本の土壌
から生まれ出たというべきかもしれない。土着というと、依然として外部からの
ものが、なんとか日本に馴染んだというニュアンスが残る。
そうではなく、もう、仏教とはいいながら、新しい宗教として誕生したと断言
したくなってしまう。人によっては(梅原猛氏)、縄文時代の土俗的な信仰が、
弥生時代以降、朝鮮半島からの渡来人の信仰、さらには中国などの鎮護仏教に圧
倒され、水面下に沈み込んでいたのが、ようやく重石が取れて、再び蘇ったのだ
と言う方もいる。
縄文時代の信仰や宗教的事情は、文献では探ることが出来ず、遺物・遺跡で想
像するしかないので、読み取る側の主観の相当に入った解釈に左右されるので、
その理解が正しいとか間違っているとか言えないし、まして、一旦は忘れられて
いた土俗的民間宗教の復活といわれても反論のしようがない。
とにかく、素人の我が侭な判断で言わせて貰うと、鎌倉時代、日本発の、日本
向けの、中国などの権威に左右されない宗教が勃興したのだ。
ここでは親鸞などの教えを云々しない。繰り返しになるが、もう、仏教とは懸
け離れた、日本の風土や自然、歴史の積み重ねの果ての、仏教とは名ばかりの宗
教が生まれた。
親鸞など、最後の末期の時に、ナムアミダブツと唱えれば、それで救われると
説いた。
そこまで行ってしまうと、俗世にある間に、どんなに所謂、俗的な生き方をし、
仏教の教えに背く振る舞いをし、場合によっては悪逆非道の仕儀に至り、悪食・
殺戮・肉欲・名誉欲に囚われつづけても、息を引き取る最後の瞬間に、助けてく
れという意味で南無阿弥陀仏と唱えれば、救われるのだから、もう、信仰や宗教
という呼び方をするのも、論外になっている。
人を何人も殺す、それも戦争で余儀なくではなく、金目当てとか強姦の果てと
か、あるいは快楽のためだったりする、そんな殺人の罪を繰り返し犯した人間で
も、赦す、それが彼の宗教なのだ。とんでもない教えである。
酔払い運転で、幼児を二人も死なせてしまった奴が、仮に刑務所から出て、同
じ過ちを犯したなら、そんな奴を赦せるか。少なくとも小生は赦せない。自分が
幼児の親であれば、個人的に復讐したいと思うかもしれない。
でも、親鸞の教えだと(無論、言うまでもないが、小生は素人的理解をしてい
る。小生などに親鸞の教えが理解できるはずもない、でも、その浅薄な理解も含
めて俗人は宗教を受け止めるしか他に術がないのだ)、彼を赦すことになる。彼
が、幾度も同じ過ち、他の過ちを仮に繰り返しても、しかも、生前は全く後悔し
なくて、平気で生きていて、さて、病気か事故かで末期の時を迎えて、さて、俺
もちょっとは悪いことをしたかもしれない、阿弥陀さまよ、南無阿弥陀仏と唱え
るから、それも、一回だけ、申し訳程度に唱えるから、許してねというと、許さ
れるのだ。
また、許さなければ、親鸞の教えが間違っていることになる。
そんな過激な教えだから、本来は親鸞など島流しになり、そのまま忘れ去られ
るはずだった。
それが宗祖・教祖みたいに祭り上げられたのは、親鸞の宗教的思想的徹底と、
蓮如の御蔭である。実際のところ、小生のような料簡の狭い人間が為政者であり、
治安に責任のある人間だったら、断固、親鸞(の思想)は踏み潰しただろう。こ
れが宗教だなんて、とんでもないことだ、なんて。
蓮如は、これまた肉食・妻帯した親鸞を思いっきり世俗化した人物で、何人も
の女性に何十人もの子どもを作らせている。
やがて、蓮如の一派は、一向一揆へと繋がっていく。信仰に裏打ちされ、もう、
失うものなど何もない民衆にとって、この世に怖いものなど何もない。斬られ焼
かれても、末期に一言、発するなら、それでいいのだ。
そうした狂信的信仰(少なくとも為政者の側からすると死を恐れない奴等、世
の権威・権力に逆らう奴等の信仰は狂信的としか呼び得ないだろう)は、当然の
如く、徹底的に弾圧された。何万人、あるいはそれ以上の民衆が殺された。
島原の乱でも、為政者の意に食わない宗教は、徹底的に弾圧され表面上は消え
ていった。
親鸞が創始し、蓮如によって発展した浄土真宗(というより一向宗)は、織田
信長らによる弾圧のあと、江戸時代には東と西本願寺に分割され、相互に牽制し
合ったり、あるいは蓮如の血を引く指導者が、天皇の縁戚になったりして、すっ
かり権威に寄り縋り、骨抜きになり、葬式仏教とまで揶揄されるようになった。
今の浄土真宗の元を辿ると、あの過激な一向宗だったとは信じれないほどであ
る。
恐らくは、一向宗に限らず、多くの宗教がカルト(小生はあらゆる宗教はカル
トとして生まれると思っている。生まれた当初の教えなど、誰にも理解などでき
るはずがないのだ)として生まれ発達し、弾圧され、消えていくか、骨抜きにさ
れるかしたのだろう。
欧米では、キリスト教が国の主な宗教としてあるが、日本の場合、仏教とはい
いながら、数多くの背景を持つ宗教・宗派・カルトの混在である。世の権威に逆
らったり、世間を騒がせたりしない限り、存在は黙認される。
日本には、島国であることと、地理的に、西からやってくる民族・集団・宗教・
文化・思想などがこれ以上、行き場がなく、骨抜きにされても土着するか、純粋
な信仰を守って闘った挙げ句、消え去っていくかの選択を迫られてきた。生き延
びる以上は、角や棘を撓め、丸くなって、穏健な形へと生まれ変わるしかない。
同時に、新しい宗教・文化がやってきたとしても、それが過激で排他的な姿勢
を採りつづけるなら排斥し弾圧し、あるいは嫌悪し差別するが、主張や行動形態
が丸みを帯びてくるなら、共存を受け入れる。
狭い国土で、自分達(の信仰・宗教)が生き延びたいなら、新しい教えを護持
する連中でも、彼らが渡来(誕生)当時の激しさや熱さを和らげ、内に持つ激し
さや既存の宗教とは相容れない厳しさを曖昧に暈していくことを前提に受け入れ
るしかなかったのだ。
さて、日本では、結局のところ、一つの宗教が主な宗教という状態とはなって
いない。
歴史に、もしはありえないというが、ことに寄ったら、多くの渡来の(新規の)
宗教は徹底して弾圧されて消え去り、ほぼ一つの宗教(宗派)だけが鎮座すると
いう形態になっていたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。多くの背景を持つ多彩な信仰・宗教が共存して
いるし、それどころか、神道と仏教が、一つ屋根の下でさえ、共存している。
つまり、諸文化・諸民族・諸宗教などの吹き溜まりの島国として、曖昧さに時
に辟易しつつも、共存し共生する道を選んだのだ。
そこには自然というか風土が大きく左右したに違いない。気持ちの上では日本
の多くの人だって排他的になり、自分の護持する宗教だけで世の中が一色になっ
ていたほうが安心なような気がしたりもするのだろうが、しかし、己の宗教を暈
した形で持つ。
あるいはそれどころか無宗教だとさえ、恥ずかしげもなく言ったりする。
でも、それが許される土壌が少なくとも日本の土壌にあるからなのだというこ
とは、時に銘記してもいいのではないかと思う。無宗教ですという言い方が軽蔑
されたり、哀れまれたりするような風潮があれば、とても、そんな発言は怖くて
できない。
それでは、その無宗教です、とは、一体、どういうことなのだろう。
冒頭で、小生は、話を好きな歌を提示するとことから始めたが、実は、それら
の歌と結びつけ、あるいは絡める形で宗教を考えてみたかったのだが、道はまだ
まだ遥かのようなので、今回は、ここで止めておきたい。
03/05/20 記
2.侘と寂と宗教と(2)
前回、拙稿の一部で下記のように書いた:
「ここでは話題を宗教に限るが、日本は国家鎮護のために仏教が導入され奨励さ
れたこともあり、多くの宗教(仏教)は上から押し付けられたものだったようだ。
それでも民衆がその教えや権威などに心を寄せた場合もあるのだろうが、日本の
土壌に定着したのは、やはり鎌倉時代になってからだったろうと思うのが無難だ
ろう」
この点について、若干、補足しておくべきだとアップし終えてから感じたので、
奈良時代などにおいて民衆に手を差し伸べた宗教人について、簡単にでも触れてお
かないと落ち着かないのである。
一般に常識として、奈良時代の仏教は鎮護仏教だというイメージが強いように
思える。あるいは小生の半端な知識に過ぎないのかもしれないが。
そもそも仏教の渡来にしても、小生は、物部氏と蘇我氏との権力争いにおいて、
先祖伝来の神に立脚する物部氏にイデオロギー的に対抗するため、蘇我氏が大陸
(朝鮮半島)より仏教を導入し奨励したという経緯があると、紋切り型に理解し
ている。
[仏教の伝来については下記のサイトを参照:
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/syotokutaishi/bukkyodenrai.htm ]
時代を経て仏教が国家経営の視点から奨励され、やがて東大寺の建立に至る。
どこまでも上からの押し付けであって、民衆は治められる対象にしか過ぎなかっ
た...、そのように受け止められがちである。
無論、多くの人は教科書において、聖武天皇や光明皇后の事績を学んでいるし、
行基という偉い坊さんがいたことも学んだことだろう。
この行基というお坊さんについて、焦点を合わせて、何も鎌倉時代の仏教思想
家たちばかりが民衆に手を差し伸べたわけでもないし、それが最初の試みではな
かったのだということを思っておくのもいいのではないかと思う。
金達寿氏著『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)の中に「民衆仏教者・行
基」という一章がある。彼が行基に深い関心を抱いた端緒は、「行基祭」にある
という。
この「行基祭」というのは、なんのことはない、「だんじり」のことである。
岸和田市の「だんじり」は有名だが、岸和田では地区ごとに「だんじり」が行わ
れるようだ。旱魃に悩む村人のため行基が農業用水を与える久米田池を開いたこ
とを称える祭りだと言われる。地元では、「行基まいり」と呼ぶらしい:
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/hp/35/3520/061.html
その行基は二十以上の池を開いた。寺院も多くつくっている。行基を開山とす
る寺院は全国に広がる。彼は、行基葺(ふき)といって、屋根の葺き方の一形式
を考案したり、行基焼というねずみ色の素焼きの陶器をも考案したとされる。
彼が橋をかけたという説明は教科書でも読んだ記憶がある。父に習ったりして、
薬草の知識や扱いにも子供の頃から長じていた。
その薬草に関して興味深いエピソードが金達寿氏の書に紹介されていた。
なかにはどうしようもない薬嫌いがいて、粉末の薬を服用せず吐き出してしま
う人がいる。そこで、行基は一計を案じて、薬を水で捏ねて小さな粒にして含ま
せたというのである。つまりは、丸薬を考案した(?)したということになるの
か。行基が十歳あまりの頃の話である。
更に布施屋を設けるなど、民生慈善の事業を起こしたり、彼は徹底して民衆の
ために民衆のための宗教的実践を行ったのだ。やがて、彼は彼の影響力のあまり
に大きいことに恐れをなした政府が弾圧を加えるに至る。が、世上の不安が募っ
たこともあって、彼への弾圧は緩和されたという。
ついには、行基は朝廷との関係を深め、大仏建立などに尽力し大僧正となった
のである。
が、ここで注意すべきは行基が朝廷や政府に近づいたのではなく政府(朝廷)
が彼に近づき、ある意味、取り入った、あるいは取り込もうとしたというべきだ
ということだ。
行基への弾圧が緩和されたと書いたが、それには実は当時の宗教界に政府に影
響力のある偉い坊さんがいたからなのである。それは行基の師となる道昭である。
道昭は日本最古の寺の一つである法興寺に禅院をつくって住んでいた。
その道昭が、「自己の教えを実践しようと、あちらこちらを歩きまわり、路傍
に井をほり、交通の要衝には渡し船を設けたり、橋を作ったりした。」これは、
金達寿氏の上掲書に引用されている中尾尭・今井雅春編『日本名僧辞典』からの
再引用である。ちなみに、道昭は弟子に遺言して火葬にされたが、これが日本に
おける火葬のはじまりという。
この道昭の十年あまりの民衆仏教者としての活動が行基に影響を与えたわけで
ある。行基はまた、道昭から法相大乗を学んだが、その法相大乗思想の源流は、
新羅にあった元暁(がんぎょう)だとされる。
この元暁が破格の人物で、もともとは僧侶だったが、女性関係などがあり還俗
し、在家の仏教者=居士となった。彼は酒場(バー)に出入りし、座禅を組み、
琴を弾いて歌ったりしたという。こうした破戒僧とでも呼ぶべき人物の書いた本
が奈良時代に数多く日本に入った。
日本ではこうした民衆仏教者が朝廷など為政者の間でも尊敬されていたのであ
る。だからこそ、行基の影響力が高まって、その影響を恐れて弾圧に一旦は動い
たが、やがて、むしろ弾圧ではなく朝廷らが逆に行基に帰依し、大仏の建立をも
懇請するに至ったわけである。
行基は、徹底して現世利益を民衆に説いたという。仏とは死んだものではなく、
現世に、いま生きているものなのだ、と説いた。誰もが仏になれるとも説いた。
誰もが悟りを得ることができる。そのためには、他人の利益になることを常に心
掛けることだ。それが巡り巡って自分の利益になる。それが行基の言う現世利益
なのである。
が、行基らに帰依した聖武天皇や橘諸兄らは、行基を取り込み、民衆宗教をも
取り込む結果となり、やがて民衆から仏教が離れていったのではないか。あまり
に影響力があり過ぎたのかもしれない。
「大乗仏教の流れ」については、下記のサイト(特に「朝鮮半島の仏教」や「日
本の仏教」の項など)を参照:
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/001.html
そうした民衆宗教の流れが消えることはなかったが、国家の関与も弱まること
はなかった。それが多少なりとも緩んだのが、平安時代も終わった頃のことなの
だろう。政治権力から独立し、あるいは対立さえして、徹底した宗教理論の追求
がなされ、これは同時に宗教的理論の表現の上でも大きな変化を読んだものと思
われる。
03/05/22 記