思う、故に、時折、我、在り

 
03/02/09 up





 

思う、故に、時折、我、在り(1)




 遠い昔、フランスの哲学者が「我、思う、故に、我在り」と言った。
 全てを疑い尽くしても、自分の存在さえ疑っても、そう思い疑う我の存在は疑い 得ないというのだ。
 自分には理解できなかった。偉い人がそういうなら、それはそれでいいのかなと 思っただけだ。
 でも、もっと、理解できないのは、明晰判明という概念だ。理解できないという より、小生には一番遠い観念なのだと言うべきか。
 そもそも勉強の出来ない人間には明快な理解というのは、全く無縁なる感覚なの だ。これは我在りより断固として明らかなる現実だ。何かが分かる、そうか、分か ったという経験が、少なくとも勉学に関しては乏しいのだ(皆無とは言わない、そ れはあまりに寂しいし)。
 何かの問題を前にして、静かな教室で、ウンウン唸って考えて(考える振りをし て)、結局、分からなくて適当というかいい加減な答えを書いて、まぐれ当たりで もいいから多少は点をくれないかなと、密かに当てのならない期待をして、さて、 答え合わせをしてみると、やっぱり違っている。
 さて、解答なるものを先生や出来る方から伺う。なるほどと、その場では納得す る。ナーンだ、そういうことだったのか、それを先に言ってくれよと言いたくなる のをグッと我慢する。
 でも、ホンのしばらくすると、同じ問題を出されているのに(それくらいは分か る)、自分でやってみると、やっぱり答えが導き出せないのである。ガッカリする。 さっき分かったと思ったのは、ただの誤解だったのか、分かったと思っただけで実 は何にも分かってなかったんだと分かる。
 小生は思う。明晰判明などというのは、きっと嘘っぱちなんだと。せいぜい数学 などの世界では通用するのかもしれないけれど、少なくとも現実の世界には通用し ないのだと。根拠もなく、そう断定している。証明は出来ないけど、そうに違いな いと思い込んでいるのである。
 そもそも数学の世界で通用する(本当に数学の世界で実際に通用しているかどう かは、疑問が残るが、小生が忖度できるわけもないので、これ以上は触れない)と しても、それを一気に現実の世界に適用しようなんて、土台、虫が良すぎるのであ る。
 数学の世界が豊饒であって、その厳密なる証明のみに基づく世界が、どこまで深 遠に満ちており、今もその世界は生きていて、さらに深く広く成長を続けているこ とは認める。小生だって、分からないながら数学の追っかけくらいはやっている。
 でも、それでも、数学も物理も生物も、現実のほんの一端を切り取っているに過 ぎないことくらいは、学者の皆さんだって、理解出来るでしょ。
 それなのにデカルトさんは、数学を念頭に置いて、明晰判明なる観念というのか、 虚構の切り口を持って、思惟(精神)の世界と延長(物質)の世界を截然と分けて しまわれた。
 これがデカルトの間違いなのか、それとも、彼の方法的手法に過ぎないのかは、 小生は分からない。
 ただ、思うという現実、つまり想像し判断し理解し推測し観念の漂流する現実は、 延長、つまり数式という武器の通用するかのような物質の世界とは、決して明確に 分けられるものではないということを思うのである。
 そもそも、思うって、どういうことか。それは精神の為せる業なのか。
 また、「我、思う」という時の、我ってそんなに明確に表象できるものだろうか。
 むしろ、我って、思うという観念や概念や想念の乱立し交錯する海に漂うブイの ようなものではないか。一応は、その一定の位置を保ってはいるが、確固としてあ るものではなくて、浮かび漂っているものなのではないか。波間にしばしばその姿 を現しては消え去ってしまう、けれど、懸命に生きている限り沈みきってはしまわ ない、その浮かびつづける意思のようなものではないのか。
 ところで、「我」については、ここでは触れない。その前に「思う」だ。
 脳味噌の仕組みは今日、相当に研究されているようである。実際、得られた知見 は相当なものがある。けれど、同時に、研究すればするほど見えない部分が増えて いるというのも現実のようだ。むしろ、脳の働きの凄さに改めて感服しているとい うのが、研究者の本音、偽らざる観想なのではなかろうか。
 その中で、考えるという点に搾れば、多少は、明晰判明という指標が適用可能で あるかのようである(小生は、それさえも疑問だが)。が、その考えるというのは 脳の働きのホンの一部に過ぎない。多くは、大半は、感じる、想像する、等々の捉 えどころのない、まさに思念という表現でしか現すことの出来ない、曖昧なものな のではないか。少なくとも、実感として、そう、多くの方は感じているに違いない。
 さて、では、その「思う」をもっと、曖昧な部分を含めて思い浮かべてみた時、 その「思う」の淵源は一体どこにあるのだろう。我々が自覚的に思ったり、考えた り、想像したりしているつもりがなくても、思ったりするのは、情念が、感情が伸 び広がっているのは、何故なのだろう。
 それは、ここでは簡単に述べるが、体、肉体というものが深く関わりあっている からではないか。
 近年、免疫系の研究が進んでいる。免疫ホルモンは脳の中にも流れ込んでいるこ とは明らかになっている。同時に、消化系統という大きな独立したシステムも我々 の身体を機能させている。簡単に言うと、神経系(その中枢が脳、特に大脳)と免 疫系と消化系(内臓系)の三つのシステムが、我々の身体を成り立たせているので ある。
 その中の神経系は、割合と脳の中枢に直結しているので、我々はそれを支配して いるかのような幻想を抱きやすい(実際には、とんでもない誤解なのだが)。残り の免疫系や消化系は、そのコントロールを脳の一部ではある、間脳や小脳や延髄や に、情報の一端くらいは届いているが、中枢による支配とは到底言えない。
 腹の具合とかが悪いと、その不快さが脳で感じられる。でも、その腹に向かって ちゃんとしろよと脳が命じることは出来ない(薬を飲んだり、気休めをしたりはで きるけど)。免疫にしても消化にしても、それらは独歩で働いている。その余波を、 噂をチラッと、脳(中枢)が聞かせてもらっているだけなのだ。 
 思うに、「思う」というのは、そうした三つの身体系統のトータルの反映なので はないか。
 つまり、「思う」というのは、まさに身体の調子・具合・情報の現れそのものな のである。
我々が思うというとき、既に脳による支配など到底及ばない、理解さえも(学問的 な理解は別儀)直接的には不可能な、身体という一番、我々に身近な「自然」の生 々しい影の訴えをも含んでいるのではないか。その訴えの一番分かりやすい表現が 感情というものなのではないか。
 従って、小生は、思うに、我々の思念は、どうしても明晰判明とは、ほとんど無 縁なのである。ほんの、極限に近いくらいの切り口(数学や物理、論理)くらいは、 厳密な論理と証明の世界に入りえるだろうか、残りの圧倒的な部分は、混沌の闇に 沈んでいるのである。
 「思う」というのは、簡単に言うと身体のトータルな反映としての自意識なのだ ろう。我、思うという時の我というのは、「思う」という混沌の海の束の間の喘ぎ なのだ。波間の瞬間的に吐き出された息、ともすると溺れがちな身体の悲鳴、時に は海面を泳ぎ渡る快感の叫び、青い海に記されるすぐにも消え去り行く運命にある 白い軌跡なのだ。
 複雑系の数学は、ようやく、その現実のほんの取っ掛かりを見つけただけなのだ と思う。それでも、何かの切り口を得た以上、数学や論理や医学や哲学や生物学の 世界などで、豊饒なる成果を挙げることは、期待していい。けれど、現実という混 沌と秩序の渦巻く世界は、さらに果てしなく深く広いし、しかも現に生きているの である。

02/01/13作





 

思う、故に、時折、我、在り(2)




 青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽かに 不二なる山の優美な姿も望める。
 空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何処ま でも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。
 絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。
 なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それで十 分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。
 言葉や描像で示すのが、余計だと言うなら、音楽はどうだろうか。情景をより豊 かに、情緒に満ちて眺め入ることができるではないか。
 が、でも、やはり、眼前の世界を描き切りたい、しっかりと把握したい、理解し たい、手中にしっかりと確保したい。それには、結局は言葉に行き着いてしまうの である。
 言葉の曖昧さ。それを思わない者はいないだろう。そんなことを言うつもりなど なかったのに、言いたいこと、脳裏に浮かぶこととは、言葉は決してピッタリとは サイズも形も合わない。何かしら、ぎこちないのだ。
 その食い違いが、また、何とか、誤解や不正確さを訂正しようとさせ、すると、 その言い直しがより一層の齟齬を生み…、そうして泥沼に嵌り込んで行く。
 もう、言葉など、邪魔なだけなのだ。そこにある情景で、満足なのだ。
 が、言葉は勝手に浮かんでくる。爽やかだとか、メローな気分だとか、何処かで 聞いた表現ばかりだ。陳腐、極まりない。でも、浮かんでは、心を乱し、そしてや がて消え去っていく。
 それなら、言葉は言葉で勝手に戯れているがいいのだ。
 人は、一人で居る限り、対話など要らない。明確な表現も不要。そもそも言葉な どなくたって、ここに閉じ篭っている限り、単に生きている限り、困ることもない。  心のうちに浮かぶ哀切なる情念も、その波の満ち干きに身を任せていればいい…。
緑なす木々の放つ、心に染み入る生命感。他人のいない世界での、心安らぐ世界。 たとえ、今、感じている感激を誰と分かち合うことが出来ないとしても、そんなこ との何が問題なのか。
 遠い世界にいるはずの誰か。その人と、悲しみも歓びも伝え合うことも、慰めあ うことも出来ないとして、もう、そんなことはいいではないか。ここに一個の世界 がある。ちょっと孤独ではあるけれど、真率な思いが募って溢れ出しそうだとして も、情の流れ出すに任しておくがいいのだ。
 カモメだろうか、海鳥の鳴く声がする。悲しいような、それとも歓喜に咽んでい るような。鳥達は決して一羽では空で戯れない。鳥達は宵闇に何処からか現れて、 ブーメランの形に、あるいは幾重もの山の形にと変幻を繰り返し、やがて何処へと もなく飛び去っていく。あいつらは、何羽もが集まって一塊になっている。もしか したら、奴等は集団になることで、一個の生き物なのかもしれない。
 そもそも、一羽でいる鳥は、何か不自然なのだ。せめて二羽、揃っていないと、 様にならない。
 海の底を回遊する魚達も、集団をなして泳いでいる。一匹一匹がいる、などと思 うのは、人間の勝手な思い入れなのであって、やっぱり奴等も群れでこそ生き生き している。群れを成して、その形を自在に変貌させることで、自分達が仲間である ことを誇示している。
 たまに、群れからつい離れた魚は、それに気付くと慌てて群れに戻る。それは一 匹だと外敵に狙われやすいからでもあろう。が、きっと群れの中でこそ、平安が得 られるのだ。群れの中でこそ、己の居場所を見出せるのだ。その個体の前か隣りか、 斜め前か後ろの中に挟まって定位置を確保することで、その一尾も十全の命を得る のだ。
 蟻の群れ。魚の群れ。鳥の群れ。動物の群れ。
 さて、人間はどうなのだろう。
 きっと、人間ほどに集団を意識している動物はないんじゃなかろうか。絶えず他 人の存在が脳裏に浮かんでいる。他人の目を意識している。だからこそ、一人を望 む時もあるってことじゃなかろうか。
 そんな時、人間の言葉って何なんだろう。それは生まれた時の、オギャーという 泣き声の延長なのに違いない。息をすることそのものなのに違いない。幼児の話す 言葉は、まるで息を吐くようにして吐き出される。むしろ、歓びの叫び、悲しみの 吐息、喋れる快感の誇示、離れている誰彼への愛憎に満ちた呼びかけなのだ。
 笑い顔は泣き顔に似ている。泣くように笑う。笑うように泣く。下を向いている と、泣いているのか笑っているのか、見分けがつかない。笑うって、泣き叫ぶこと の極まりなのだ。
 そして言葉を発するというのは、生きていることの証し、息していること、息し えることの証しなのだ。
 というより、もう、音声を伴う伴わないを別にして、話す言葉は生きていること の表現そのものなのだ。
 そう、だから言葉は肉体表現そのものなのである。言葉は肉体なのだ。身体その ものなのだ。仲間の肉体への呼びかけ、それが言葉なのだ。言葉が変容するのは、 言葉が姿かたちを変えるのは、他人を意識している証拠なのだ。言葉の原風景とし ての吐息は、母への、仲間への挨拶なのだ。
 受肉された吐息、それが言葉なのだ。

02/01/15作





 

「思う、故に、時折、我、在り」に寄せられたコメントへ(2)




 Mさん、こんにちは。いつも発言、注目してます。プラトンのイデアについて も、生への盲目的意思についても、興味津々です。
 Mさんが言及されている朝日新聞での発言は、小生も共感を持って読んでいた ものでした。養老孟司さんは、三木成夫などと並んで、小生の尊敬する解剖学者で あり、これまで何冊も著作を読んだり、対談集を読んだりしてきました。
 三木成夫については、特に『胎児の世界』(中公新書刊)が筆頭でしょうね。
 養老さんについては、『唯脳論』など数々ありますが、最近読んだ対談集で『脳 が語る科学』(青土社刊)が(も)秀逸でした。
 あるいは言葉と身体というテーマに絡むものとして(というより、氏は一貫して 身体、脳、言葉に拘っているのですが)、『身体の文学史』(新潮文庫刊)を推奨 します。本書は、下手な評論家の文学論など、足元にも及ばないものです。
 これからも、不躾ながら、Mさんと小生には関心の及ぶ対象・領域で重なる部 分が多いと思いますので、宜しくお願いします。
 じゃ、また。

02/01/18作