闇の中で目覚めたのだろうか。目は確かに開いている。瞼を開き、あるいは
閉じてみる。
そう、確かに俺は目覚めている、はずなのだ。
けれど、闇の中では何も見えない。音すら聞こえて来ない。匂いは?
ああ、かすかに漂うものがある。女の髪の匂い、そして若い肌特有の体臭。
クソ! 記憶が蘇ってきた。夕べ、酒の勢いでつい、いつもは拒絶していた
女を招き入れてしまったのだ。俺の一番いやなタイプの女。しつこい奴。俺が
惚れている女に振られて、やるせない欲望を排泄するためだけに付いて来るの
を許してしまった。
その女がまだ傍に居る。夢であったなら。せめて、女が気を利かして俺が寝
入っている間に立ち去ってくれていたなら。あるいは俺はその貧相な女に未練
を持たないではなかったのに。
寝息が聞こえてきた。スース―という、あまりに静かな息。夕べの喚き声と
は大違いだ。女は安らぎの夢を貪っているのだろうか。それとも俺の命を貪っ
ている?
リンスの香り。起伏する裸の胸。闇に慣れた目には、女の鼻先の向こうに夜
の終わりを予感させるかのような、青く透明な光の躊躇いが見える。
(わたしはあたなに会うために来たの…)あの一言は夢の中の呟きなのか、そ
れとも夕べ、この女が俺に囁いたのか。
俺はこの女を抱きながら、あの人を想っていた。いつか何処かで出会ったあ
の人を。もう二度と会えないあの人のことを。若気の至りで俺は高校生の頃に
あの人に一生を捧げると心に決めた。この世では決して会えない人と知りなが
ら。
そう、俺は黄泉の人に惚れたのだ。あの日、俺は美を見た。美とは何か、そ
んなことは俺は知らない。ただ、俺はあの美に心を奪われてしまったのだ。美
は俺の命を、魂をスッカラカンになるまで貪欲に求めた。あの人と一緒にいる
と、世界は違う宇宙へと変貌してしまった。
「好きながやちゃ」
俺に言えるのはそんな陳腐な科白だけ。でも、あの人は俺を受け入れてくれ
た。謎めいた笑みを浮かべながら。
あの、雨の日曜日。俺は安物の傘を何処かに放り出し、あの人の傘を受け取
って、二人してどこまでも歩き続けた。何処かの鎮守の森を抜け、公民館の裏
手の小道を通り、竹垣の長い塀の道を歩き、稲を刈り終わった田圃の原の畦道
を伝っていった。
雨は止むことはなかった。降り続いてくれた。俺達の固めの儀式のような雨。
あの人は口癖のように、「わたし、女じゃないが」と言っていた。
(女じゃない? どういう意味? 遠回しに俺は男として眼中にないって言っ
ている? 女じゃない? 小さな肩と長い黒髪と、細い腕、そして俺を悩ます
白い胸…、女そのものじゃないか!)
(死んだ貝のような女。閉じた殻。乾涸びた女。そんな大人の女を装いたいの
だろうか? だって、あの日、お前はミニヨンの歌を俺に教えてくれたじゃな
いか。レモンの香りを胸元から漂わせていたじゃないか。戯れだと言って黒髪
に巻いたバンダナが俺には月桂樹だった。月桂樹の冠を被った王女様だった。
俺の憂鬱な日々の谷間に咲くオレンジの花だったじゃないか)
気恥ずかしいほどの思い出。俺はあの人に出会ったその日にいかれちまった
のだ。あの日から世界は変わった。空気が凍て付くほどに透明となり、彼女だ
けが水中花のように生気を帯びていた。どんな喧騒の只中にいても、世界はシ
ンと静まり返り、俺にはあの人の声しか聞こえなかった。夢の中にあの人の面
影ばかりが漂った。
(そうだ、俺はあの人に全てを捧げるのだ。俺の魂はたった今、死んだ。あの
人の手に渡った。俺は生きてはいない。それでいいのだ。何の悔いがあろうと
いうものか!)
夏の終わりと秋の始まりとの端境期にあって、海は青さを失い、晴朗とした
波をも消し去っていた。けれど、二人で見る海は、果てしなく夢に満ちていた。
潮風に嬲られたあの人の髪、翻るスカートの裾。やがて日が暮れて冷たくなっ
た風に頬は赤味を帯びてくるのだった。
俺は目の前の剥き出しの脛を見ていた。ぴったりと両方の脛は合わさってい
た。彼女は俯いていた。貝のように。そう、本当は死んだ貝のように閉じてい
たのだ。
けれど、俺には俺を誘っているとしか思えなった。寒風が脛を容赦なく甚振
る。そんなことを俺が許せるはずもない。そうだろ?
俺は恐る恐る手を差し出した。そしてそっとあの人の脛の上に手をやった。
彼女はピクリともしない。むしろ一層深く蹲っていったようにさえ見えた。
俺は、脛を擦ってみた。ゆっくりと。冷たい、パサパサの脛。でも、擦って
いるうちに次第にあの人の温もりが伝わってくるようだった。
誰もいない海。俺達だけの海。俺はそう想っていた。
誰が見たって、そうとしか見えないはずだ。
俺はとうとう我慢がならなくなってしまった。あの人を海に沈めるために蔵
置されているテトラポットの山の裏へとに導いていった。彼女は、ただ附いて
来るだけだった。
そして…。
あの日を思わせる風景は、あの浜辺からはすっかり消えていた。砂浜は岸壁
に姿を変え、恰好の釣り場所となっていた。俺達の足跡を消し去るだけでは済
まなくて、大地から根こそぎ剥ぎ取ってしまったのだ。
あの人は女のはずだった。俺の手の下では女のはずだったのだ。
だけど、夕べの女ほどにさえ、あの人は燃えず、俺までが凍えていた。裸にな
ってさえ、あの人は貝の人だった。閉じた殻の中の死んだ身に過ぎなかった。
(わたし、女じゃないが…)
そうじゃなく、(わたし、生きとらんが…)と言いたかったのに違いない。
あの人は死んでいたのだ。心は涸れ果てていたのだ。俺の若さに任せた情熱な
ど、宇宙空間に漂い舞う塵の戯れに過ぎないのだった。
あの人は俺の前を去った。そしてこの世からさえも去った。あるいは、俺に
出会う前にこの世にはいなかったのかもしれない。俺の魂に自らの幻を刻み込
み、ただそれだけのために余命を保っていたに過ぎなかったのだ。枯渇した泉
の淵で、俺は砂を噛み締めていた。
俺は、魂の抜け殻になった。確かに、俺は美に命を捧げた。俺の望みが叶い、
心に誓った通り美と心中することができた。本望だ。
けれど、俺は死んでしまった。あの人は俺の全てを奪って黄泉に旅立ったの
だ。俺を道連れに闇の海の彼方へ消えていったのだ。
隣りからは相変わらず寝息が聞こえてくる。俺を慰めようと? まさか!
でも、もし、この女があの人の化身だったとしたら…。
俺は、今、再びの悪夢を貪ろうとしている。ああ、お前よ、もう、俺を許し
てくれ。俺は、お前から逃げたい。俺は、まだ、この世の人間なのだから。
03/02/23 23:00
