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[ 本稿は、書評の頁にある「ディーコン著『ヒトはいかにして人となったか』」の中から、駄文の域に至る部分を抜粋したものです。 全篇を読まれたいという奇特な方は、是非、書評の頁に飛んでみてください。 話は後半に至るほど佳境を迎えます。駄文と謙遜気味に書いていますが、結構、ありえる説なのではないか、近い将来、小生の説が再評価されるに違いないと思っているものであります。 (03/08/15 re-up) ] 『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇)ヒトが人になったのは、二足歩行が可能になった時に淵源することだけは間違い ないようだ。その時、ケモノであるヒトから人になった、乃至は、人になる可能性 が生じたのであろう。 つまり、二足歩行になることで、ケモノの形に縛られていた肉体に、急にポッカ リと巨大なニッチが生じたのである。四足である限り、脳が巨大化しようにも、頭 でっかちになり、獣として最早生存自体至難のわざになり、あるいは頭の大きさの 故に出産自体が難産という危険性を負うことになり、そもそも頭が大きくなりよう がなかったと(頭の大きなケモノは淘汰されたと)推測するしかないわけである。 が、二足歩行になったことで、一定の制約を受けつつも頭の巨大化が潜在的には 可能となった(出産の際の困難という危険性に変わりはないとしても)。また、喉 の構造における自由度が拡大したし、何といっても腕の自由度、手先の自由度が拡 大したことは、間違いない。 チンパンジーにしても腕や手先のかなりの自由度が見られるのだが、しかし移動 に際してはほとんどやはり四足に近いのである。 二足歩行になることで、あるいはならしめるために、脳の進化が促されたことも、 当然、考えられる。一旦、脳の進化の可能性が広まった時、何か他のケモノ類には 類例のない前途が約束されたわけである。 が、それにしても、何故、二足歩行が可能になったのか、それが未だに人類学に おける謎のままなのだ。その原初の出発が成立しない限り、話は、何も始まらない。 というより、理由はともかく二足歩行が始まったというところから逆算して、あ れこれ人類についての考察が始まっているわけである。 二足歩行の開始については、周知のように諸説がある。 その典型的な説は、お笑い種だが、サバンナ説である。なぜか不意に森を捨て、 サバンナの草原に侵出したお猿さんたちは、広い草原で周囲を遥かに展望するため、 立つ必要性に迫られたというのだ。 なるほど。けれど、それだったら、四囲を観察する間だけ立てばいいわけで、普 段はやはりチンパンジーさんたちのように、四足に近い形で移動したほうが遥かに 安定感があるし、何と言っても早い。倒れる危険性が少ないわけだし。 サバンナ説は、まあ、酔狂として、他にも興味深い説はある。 その代表格は、いわゆる人類水棲説だ。ある時期、四囲を山や海などに区切られ た広い入り江にある種のお猿さんたちが暮らすことを強いられたことがあり(急な 火山の噴火でお猿さんたちはある一角に追い詰められてしまったと想定している)、 その水辺での一定の期間の環境適応で、体が変化したというのだ。 このエレイン・モーガンの唱える(正確にはオックスフォードの動物学者、A. ハーディ教授が唱え、彼女が普及させた)「人類進化の新理論」は今も人類学では 鬼っ子的存在である。つまり正統な人類学は相手にしない。乃至は、言及自体しな い、そうした「学説」となって細々と生き残っている。 けれど、小生は、少なくともサバンナ説よりは遥かに説得力を持つと思う。 さて、この人類水棲説(アクア説)は、エレイン・モーガン著『人は海辺で進化 した』(望月弘子訳、どうぶつ社)、同氏著『進化の傷あと』(同上)などに詳し い: 「水辺の行楽のおともに」 http://www.eco.wakayama-u.ac.jp/~ashida/ritornello/no5/fujiki.html より詳しくは: 「衝突と気候変動、及び、絶滅と文明盛衰」 http://www.spaceguard.or.jp/asute/a27/KOUDA/kouda.html さらに精細に: 「人類進化論アクア説」 http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/sinkacua.htm 興味深く且つ面白い本なので、『人は海辺で進化した』だけでも手にとって読ん で欲しい。 さて、しかし、他にも二足歩行や特に頭(脳)の肥大の理由が考えられないわけ ではなかろう。ここからはいよいよ完全なる妄想の域に入っていく。 チンパンジーなど、お猿さんたちがHが大好きなことは知られている。こればっ かりは体力の差もあり、人は全く敵わない。自慰の回数でもHの回数でも、太刀打 ちなど論外である。人がマリファナや催淫剤などを使ったって、Hの量も快楽の度 も、たかが知れている(という)。 ところで、しかし、お猿さんたちと人が違うのは、Hの質であり、Hへの思い入 れ(想像、妄想、etc.)であろう。 小生は、若い頃、お猿さんの活躍ぶりを眺めながら、当時自身も若かったことも あり、何故、お猿さんはあんなに凄いのだろうと感嘆したことがある。そしてある 日、閃いたのだった。 といっても、思いついた着想というのは、極めて平凡なもので、きっと多くの方 も(特に男性?)一度は想像されたビジョンなのではないかと思う。 それは、昔、チンパンジーの中で、とてつもなく助平な奴がいて(しかも、それ はカップルっだったと思う)、そいつは、チンパンジーの仲間が通常行う営為を遥 かに越えたHの天才だったのだ。 奴(奴等)は、通常のバックスタイルや正常位だけでは飽き足らず、しかも、単 なるピストン運動に終始することに満足することなく、二匹が互いに性的快楽の限 りを尽くしたのではなかったか。 つまり、奴等は、ペニスと膣との摩擦だけではなく、ある日、互いの体表を愛撫 することに、また、異様なる視覚から互いの体の交わる光景を眺めることに、思い もよらない快感の領野があることに気づいた(感づいた)のだ。 すると、奴等は互いの体表を、心行くまで快楽の泉の源としてとことん追究し始 めたのである。 奴等は、性の狩人となったのだ。 そうしてあまりに互いに体の表面の愛撫と慰撫の心地よさに溺れたため、気がつ いたら体毛が擦り切れてしまったのである。 また、体位に関しても、並みのチンパンジーなど足元にも及ばない可能性を追究 したのであった。バックや正常位を堪能し、横向きから斜めから逆立ちから宙返り から、正面衝突から、草原を(水辺を)駆け巡りながら、可能性の限りを追ったわ けである。 彼らは寝転がってHをするだけではなく、仕事(餌を採集するなど)をしながら もHを欠かさなかった。つまり、立って片手は餌に手を伸ばしながらも、もう片方 の手はしっかり相手を愛撫することを忘れなかったわけだ。Hは全身をフルに使っ てやるものと性的本能が奴等をして使役していたのだ。 気がついたら彼らの身体は、通常のチンパンジーとはまるで違う形態に変貌して いた。 まず、体毛がすっかり擦り切れ肌が露出していた。身体が四足の奴等と違って、 体位の可能性の限界を尽くしえるため、特に長時間の立位でのHに耐えられる体で あることを求められている中で、まさに二足歩行たる人類に既に一歩踏み出してい ることを知ったのである。しかも、Hへの想像力は、二足歩行となって頭蓋の成長 の自由度を既に得ていた頭(脳)を爆発的に膨張させ進化させたのである。 奴等は快楽を得た。が、孤独だったに違いない。なんといっても、そんな容貌魁 偉な(裸で立ちっ放しのサル!)仲間など、圧倒的に少数だったに違いないから。 しかし、奴等は断固、Hを追究するチャレンジ精神は失わなかった。というより新 たに得た快楽の楽園は、孤独を癒すにはあまりある耽美の世界だったし、もう、後 戻りなどできなくなっていたのだ。 そうしたエリートは、やや寂しげに、しかしバラ色というよりピンク色の未来に 希望を抱きつつ、チンパンジーの群れとは別れを告げ、新たな集団を作ったのだ。 なんといってもスケベ心と繁殖力は旺盛だったし、そうした性のエリートに追随 し真似する仲間も少なからずいただろう。 そうしてヒトは人になったのである。 こんな珍説をサル山のサルたちの熱心な営みを羨望しつつ思い巡らしたのだった。 02/04/14 18:42 [ヒトは水中で進化したとするアクア説について、幾つかの難点があり、本稿において紹介したエレイン・モーガン自身、アクア説が壁に突き当たっていることを認めている(『人類の起源論争』参照)。が、彼女のアクア説を救う説が登場した。アクア説でも破綻しているのは海辺進化説であって、「類人猿から分岐したばかりのヒトは、淡水の湖沼や川の浅瀬に住んでいたと考えれば、何も問題はない」のである。以下、新しい説の詳細は、下記のサイトに詳しい: http://www.nagaitosiya.com/lecture/0147.htm (03/05/05記)] ヒトはいかにして…=妄想的考察(蛇足の補足)前回、やや妄想的人類誕生物語を語ったのだが、若干、補足すべき点のあること に気づいたので、ここに妄想ついでに記しておく。 二足歩行の開始については、サバンナ説から水棲説(アクア説)に引き続き、そ れらに負けず劣らずお笑い種の自説を紹介した。つまりは、チンパンジーの中の、 天才的にH好きなサルが、性の倒錯した世界(あくまでチンパンジーの仲間からし たら異常なのである)に耽溺した結果、気がついたら裸のサルになり、且つ、あら ゆる体位の可能性を試行錯誤した結果、肢体の自由度がチンパンジーたちに比して 遥かに増大したのだと述べた。 この性的快楽の世界への飛躍、性の楽園への常時接続の実現には、いかに天才的 に助兵衛なサル君であろうと、相当に苦しい試練もあったはずである。まず、雄に してみれば、通常チンパンジーの雄でもH度は満点であり、日に何十回もHが(つ まり性的興奮状態、肉体的局所の屹立状態が)可能なのだし、一旦、自慰を覚える と死ぬまで局所への変質的摩擦を止めることはない。 つまりは雄は、Hに関して瞬間的に燃え上がり、瞬間的に快感を得る約束があり、 ということは、何も前戯などなくなって構わない単純な機構レベルにありがちなわ けである。相手の雌が誰だって(多少は、互いに選びっこはするだろうが)構わな い。 が、ここである天才的な性的可能性の探求者たる雌は、はたと閃いたのである。 ある可能性に気づいたのだ。何も局所でなくなって、快感の余地は十分にあるじゃ ないか、と。局所は何も局所にあるのではなく、身体中に広がっているのだと(最 初は、お腹から脇腹、脇の下、太もも、背中…と、徐々に広がっていったのだろう が)。それには、瞬間的な快感の成就に逸る雄を制しなければならない。これが至 難なわざであり、大きな越えるべき山場だったことは、想像に難くない。 雄を雌の身体中への愛撫に向かわせなければならず、また、そうすることが愉し いことであると感得させなければならないのだ。性的官能の成就の直前に、自制し て相方を性の沃野へと導かねばならなかったのだ。 この互いの大きなハードルを越えるための努力に敬意を払うべきだろう。 さて、この性の前戯と後戯の快楽の発見は、体毛の喪失と相関しているだけでは ない。実は、それらは、匂いや言葉の発見とも深く関わっているのだ。 体毛の次第次第の喪失は、実は匂いの可能性の発見とも深く相関している。つま り、体毛が薄くなることで、従来は体毛にこびり付いて離れなかった強烈な不快な 匂いが薄れ、それと同時に、性的刺激に満ちた匂いが天才的Hサルの脳髄を直撃し はじめたのである。 裸のサルに近づくにつれ、特に雌の助兵衛なさる姫は、裸の肌から発する匂いが オスを強烈に捕らえて放さないことを発見してしまったのである。そして、魅惑的 ではあるが、やや単調である土臭い汗の堆積から発する匂いよりも、微妙で変化に 富む多様なる匂いの世界、体の方々から発する匂いか体臭か肌の温もりなのか見分 け難い香りが、オスを引っかけるにはもってこいの道具・武器であるとしってしま ったのである。 また、雌は同時に声の魅力をも発見した。Hの際、あるいはHにオスを誘い込む 際、あるいは日々の関わりと交わりの中で、声を多様に変化させることがオスを支 配し、ひれ伏させるのに預かって大なることを知ったのだ。 Hの際のアーとか、オーとか、やや原始的な叫び、咆哮と言うべき叫びが、やが てアハーンとか、ウフーンとかに音韻的変化を帯び始めたのだ。ア行などの吼え声 的音から、Hを繰り返す中で、ア行にHの色合いが混ざって、ハ行の発声が可能に なったのである。英語でいえば、Help Me! と、けたたましく今でも吼えるところ のヘルプ行の発声が可能になったわけだ。 この音韻的多様性の肥大傾向は、以下同様で発展していったものと考えていい。 つまり、音韻の多様性はオスを繋ぎ止める至上の手段でもあったのだ。さまざま な音の変容が、その都度、雄をさまざまに雌の意のままに動かしめる結果となり…、 雌は雄への影響力の行使の上での魔法の武器を手にしたのだ。その声が耳に残って 離れないオスどもは、やがてメスへの性の奴隷と化したのである。 さて、このようにして、Hの快楽のあくなき探求は、体位の可能性の探求に繋が り、やがて体の外見の変化に繋がり、性の快感の極致は恍惚なる天上世界への賛美 と希求に繋がり、そのことが、常時立位への本能的必要に繋がっていったのだ。さ らには言葉の原初の萌芽に繋がったのである。 一言で言うと、性の快楽の追求というのは、五感の徹底した洗練に他ならないと いうことである。それは単に肉体的快感の惑溺に止まるものではなく、折悪しく雌 が雄に、あるいは雄が雌に逸れている間であってさえも、互いの絡み合いの楽園的 境地を追い求めるために、想像力の発達が動機付けられもした。性も常在戦場なの であり、いつでもHを、というわけだ。先述したように、性の常時接続の達成であ る。 さらに、世の諸賢、世の助兵衛族の皆さんなら分かるように、性の倒錯的想像の 肥大と耽溺は、風景をも一変させたのである。一晩中の性の快感の可能性の探求の 挙げ句の明け方に見る夜明けの眩しさ。陽光が黄色く変色しているではないか。 感覚的多様性と可能性の肥大は、見るもの聞くもの匂うもの触れるものの全てを 違う目で見ることを可能にしたのだ。葉っぱは単に食べるためのものではなく、隠 すものとして利用可能なのだと知ったのだし、青い空は二匹で見上げれば、その青 が更に鮮烈に目に映るのだったし、水も土も木々も単なる道具的次元のものから、 何かもっと神々しいような、実用性を越えた新鮮な姿、生き生きと生きる喜びを賛 美し鼓舞し共感しているかのように、この世のすべてが見え始めたのである。 無数の神経網は、ありとあらゆる絡み合いと結び合いを展開していった。生き物 としての生存に有用だろうが無用だろうが、そんなことはお構いなしだった。絡め るものなら、どんな部位にだって絡む。二重に三重に絡み結び合い、雁字搦めにな っても、まだ絡むことをやめず、今では二進も三進もいかないほどに脳髄は肥大し てしまったのである。 そこまで肥大した頭蓋は、もはや四足という獣の格好では、頭が移動や運動の邪 魔になる。邪魔な頭は、それではと上へ上へ、つまり体全体の上においやられ、気 がついたら二足歩行に至っていたということなのだ。二足歩行というのは、人類の Hの快楽の過剰なまでの探求の結果なのである。 天上天下唯我独尊。その唯我とは、Hへの執念に他ならなかったのだ…。 02/04/22 23:45 |