1974年1月  小型免許取得(宮城県にて)   CB125T
即座に(免許取得直前に)中古のオートバイを知人より譲り受ける。オートバイの免許を取ったのは、下宿の人の影響が大きい。CB350に乗る姿が颯爽としていて、羨ましくてならなかったのだ。オートバイに初めて(悪戯で)乗ったのは確か小学生の頃、親戚のあんちゃんに誘われて…。そもそも自転車に初めて乗ったのは10歳の頃だったか(もっと以前だったかもしれない。補助輪付きのものはもっと前から乗っていたけど)。近所の兄さんにコーチしてもらっても乗れず、独りで特訓してやっと乗れたものだった。 
1974年8月 大型免許取得(宮城県にて)
1974年8月 松島へのツーリングの途上で初めての事故
相手は個人タクシー。私の体は空を飛び溝に頭から突っ込んだ。ヘルメットのありがたみを知る。しかし鞭打ち症なってしまった。以後、就寝前のうつ伏せになっての読書という楽しみが消える
1974年8月 初めてのロングツーリング
  宮城県仙台市の下宿から東京を経て箱根の山を越え、静岡県の三島から中部山岳を横断して三国峠を越えて富山へ。夜、濃霧の中の箱根の登攀はバイクが息切れするようで、ローギアでもトロトロ走るのがやっと。やがて深い霧の中から旅館案内の看板の灯りが垣間見えた時、心底ホッとした。富山で数泊した後、仙台へ。約2千キロの旅。当時は未だ国道でも舗装されていない箇所が多かったものだ。たまに他のオートバイと擦れ違う時はピースサインを交わすのが決まり。ツーリングをするだけでもハードなことが多かったし、趣味を同じくする同士、サインを出し合うのは仁義でもあるし、楽しいことだった。オートバイはチェーンが油切れでケースに擦れ仙台に帰着した時は廃車同然になり74年の秋、知人に数千円で売却。
1976年 50ccのオートバイを入手   ダックスホンダ
1978年 東京へ上京の際、郷里にダックスを留置中、父が譲ってしまう(郷里にバイクを留置したのは、恥ずかしながら東京の交通の激しさに圧倒され、バイクに乗る自信を喪失したため。)。父は譲渡の手続きを全くしないでいたらしい。その後、毎年重量税の課税通知が来る…。後日、そのダックスを利用した盗難事件が発生して、父や小生に警察からの事情聴取が…。未解決のようだが。
1981年8月 普通自動車免許取得
1981年9月 同僚にスカイライン2000GT‐Xを譲ってもらう。
駐車場代が払えず、翌3月知人に売却。そのスカイラインは譲渡後しばらくして盗難されたとか。
1982年4月 3代目のオートバイ入手   CB250TLA
台風に追われるようにして風雨に見舞われつつ東名を走る中、大型バイクを意識する。CB25TLAカスタムそのものは燃費も抜群で、市街地ではリッター当たり25キロ以上、高速でのロングランでは40キロをしばしば記録した。
1983年秋 フォークリフトの免許取得
81年より倉庫で現場の作業員として働いていた小生には喫緊の要事でもあった。つまり小生はオフにはオートバイ、会社ではフォークリフトと、乗り物漬けの毎日だったのである。
1984年4月 4代目のオートバイ入手   XJ650ターボ
初めてのヤマハ。エンジンフィーリングは最高なるも修理費用が嵩み手放す。この頃からツーリングに凝り始める。毎週末には雨が降ろうが日帰りのロングツーリングを欠かさなくなった。ひたすら走り、たまに景色を眺めるだけのハードなツーリング。ツーリングは関東一円に渡る。今までで一番、印象的でお気に入りだったバイク。
1984年夏 2度目のロングツーリング。東京を起点に東北を一周した。山形、秋田、青森までは快晴だったが、青森から先は盛岡までずっと雨。安物の合羽は使い物にならずびしょ濡れに。
1986年4月 5代目のオートバイ入手   VF750セイバー
白い車体色のユニークなバイクだったが電動ファンが熱に弱く手放す。鈴鹿へ行った時、電動ファンが故障し、往生した。菅生や鈴鹿、筑波そして富士スピードウエーなどサーキットを巡る。車体色は白。
1988年4月 6代目のオートバイ入手   CBR750F スーパーエアロ
雑誌の評の中の"吸い込まれるような至上のクラッチミート感覚"という言葉に誘惑される。実感。コンコルドみたいに流線型で格好よかった。クラッチが、あっけなくヘタってしまって、修理代が嵩み、手放す。このバイクで事故を経験。
1989年夏 CBR750Fでロングツーリング。東京を起点に中央道や名神、山陽道を経由して広島、島根まで足を伸ばし、北陸道を走って帰省。富山で数泊して関越道をひた走り東京へ。一体、何キロ走ったのだろう。ただ、島根の海を見たいばっかりに走ったのだ…。
1989年秋? 2度目の事故。相手は巨大なトレーラー。
緩やかにカーブする汐留の大きな交差点付近でのこと。4車線の左端に停車していたトレーラーがウインカーを出して発進し始めたので、左から2車線めを走行していた私は避けようと3車線めへ変更しようとした。ところがトレーラーは一気にその巨大な車体で全車線を塞いでしまった。実はトレーラーはユーターンしようとしていたのである。全く予想外のことにバイクをスライドさせて故意に転倒させることで衝突を避けるのが精一杯だった。
1991年8月 7代目のオートバイ入手   パシフィックコーストPC800
ツーリングに行かなくなり荷物を積めるという利便性に走る。入手したその日は8 月5日。つまり本田総一郎氏の逝去の日。それ故か8年以上乗った。91年の12 月29日に東京から富山へ関越自動車道を走った。関越トンネルを抜けるとそこは雪国だった。あやうく関越自動車道で遭難しかけた。深い雪の中を数十キロも転んでは起こしを百回以上も繰り返してやっと塩沢・石打ICを降りた時、命のありがたみを知った。そのICを降りるだけに一時間以上を費やしたものである。その夜、やっと見つけた宿で凍て切った心身を炬燵で一晩中癒し続けたけれど、体の震えは止まらなかった。さすがにバイクはオートバイの店に置かせてもらい、列車で帰省。春3月になって引き取りに出向いた。
89年より仕事が現場から事務に移り、会社の仕事以外にも幾つも課題を抱え、睡眠時間が2、3時間の日々が続くようになった。お蔭でロングツーリングの気力が萎え、ツーリングは近距離のものに終始するようになってしまった。多摩川縁や、整備される前の茫々として殺風景なお台場によく通った。幾つも公園があり、ベンチに寝転んで読書やら居眠りやら。
1995年8月 普通自動車二種免許取得
府中での試験は隣りに警察官がいて、ビビッて2度落ちた。府中へは練習を兼ねてマニュアルシフトのセフィーロ(レンタカー)で通う。
1995年9月 タクシー会社へ
タクシーの実地の研修は僅か2、3時間で終了。その日の午後、お客さんの突然の車線変更指示(車線変更禁止区間)に素直に従って、運悪く後ろからきた白バイに停車を命じられる。ゴールド免許は風前の灯火。タクシー運転手として初心だったのだ。高井戸陸橋でのこと。
それにしてもタクシー稼業はハード。都内を月に4千キロ以上、つまり年間5万キロ近く(96年は確実に超えた)走るわけだ。ひたすら神経を擦り減らす。お客さんさえいるならやりがいはあるのだが、不況になると走るのが空しい…。
1999年9月 8代目はスクーター   フォーサイト
PC800の4回目の車検の時、業者がバッテリーのチェックを怠り99年の8月の帰省の際、高速道走行中に何十回となくエンジンストップを繰り返し、特にトンネル通過中に止まった時は運を天に任せるしかなくなることが幾度となく。スクーターに変えたのは経済的理由とタクシー稼業に体力的に参っていて、休みの日にツーリングをする気力が出なくなったことが大きい。それでも次はBMW(R1100RT)を狙っているのだけど。
2002年8月 9代目もスクーター   シルバーウイング
250ccのスクーター・フォーサイトに日常や通勤などでは不満はなかったのだが、いかんせん、スタイルが好みに合わず、乗り回しは楽だけど乗っていて楽しいという感じを与えてくれない。もう、歳だし実用オンリーでいいんだと自分に言い聞かせていたが、やはり無理があったよう。日常の楽しみが何もないと気付いたのである。友は遠い。恋人も作る才覚がない。読書は老眼で、この数年、若干難業になりつつあるという味気ない日々…(老眼鏡を、この9月に衝動買い)。自分を少しでも元気付けるには、やはり乗っていて楽しいバイクが必要だと痛感したのだ。それに富山への年に数度の帰省にも、250ccは可能だが、きつい。その点、シルバーウイングは600ccあり、トランクも大きく余裕だった(早速、この8月の盆休みに使用した)。完全に借金で購入した中古バイクだが、連休の時には外出しようという気にもさせてくれるようになった。効果はあったのだ。

ところで質問: オートバイとスクーターはどう違う? 乗り心地は別にして。
提言と要望: 高速道路の二人乗りを早く実現してほしい。あなたはどう思う?
ヘッドライトの昼間の常時点灯: バイクは昼間もライトの常時点灯をほとんど義務付け。ところで車のヘッドライトの適切な使用を考えよう
路上に潜む危険: オートバイにとって、路上に無秩序に散在するマンホールがいかに危険かを考えよう

My Hobby
テレビや本や絵画や切手や栞や歌や…
(工事中あるいは充電中)

 
保育所時代あるいは人生以前 幾度かの手術。そして初恋…
長い入院生活から戻ってきて、保育所で記入することを義務付けられていた日記を見ると、そこには大きな空白が。夢の世界へ自分だけが放り込まれ、ある日、不意に戻ってくると、そこでは自分を差し置いて、ドンドン実のある日々が他のみんなの日記の中に埋め込まれているのを目撃する事態に遭遇する。
保育所の同じクラスに居た(といっても確か2クラスしかなかったと思うけど)女の子に初恋。その子は当然のことながら近所の女の子。清楚な感じで整った顔立ちの、でも近くで見ると毛深い女の子。自分が百姓の子どもである一方、彼女はサラリーマンの子ども。彼女には中学校の卒業式の日に彼女が格好のいい男の子に目の前でプレゼントする場面を目撃するまでズッと惚れていたのだ。
といっても小学校に入って、やはり同室になった別の女の子に惚れてしまった。当時の小生にはかなり大人に見えた体も大きい女の子。低学年のうちにその子は眼鏡を懸けるようになった。つまり勉強の出来る子だったのだ。
小生はというと、クラスでも下から数えて3番目には絶対に入る自信のある出来の悪い子だった。というより、およそ勉強の類いはまるでやる気のない子だったのである。幾度となく母が学校から呼び出されたと後年になって母より聞いた。先生曰く、「この子はまるでやる気のない子で…」というわけだ。
おっと、ここはホビーのページだった。10歳近くまでは小生は自分だけの世界に完全に没入していた。あちらの世界に行ったきりで、還ってくることはなかったのだ。つまりは靄の懸かった薄闇の境を彷徨っていた。
そんなうすぼんやりのガキが強制的に目覚める時があった。それは母に連れられてデパートに行く時だった。
デパートは小生には恐怖の世界だった。鏡とガラスと磨きたてられた床と眩い灯り。そこには影というものの欠片さえもなかった。つまり自分の居場所は全くなかった。居場所がないだけでなく、自分の視線を彷徨わす箇所さえなかった。
そこは白々とした闇とは無縁の世界だった。無数のガラスや鏡の破片の数々が空中を乱舞する世界、沢山の人々の視線が極限に至るほどに乱反射して小生の頬を額を腕を腹を脳髄を、つまりは神経を直撃し傷付け肉片を剥がすのだった。無数の血飛沫が流れ、飛び、吹き上がった。
家に帰って来る頃には神経はズタズタだった。視線という名の刃に体は肉片の塊になっていた。ふと、母は分かっていてデパートに連れて行くのではと幾度となく疑ったものだったが、母にそんなそぶりは豪もなかった。また、小生もそんな自分の姿を誰にも晒すことはなかった。
小生にはデパートと言わず、外へ一歩出ることが地獄への一歩に他ならなかった。家に帰ると草臥れ果てた無残な姿があるばかりだった。だから保育所を卒所?する頃には人生に疲れきっていたのである。外界に心を開くなど論外だった。人生の一切は自分には関わりのない、遠い世界の出来事に過ぎないのだった。
その頃だったか夜毎に見る夢は立山曼荼羅か何かに描かれた地獄絵図そのものだった。火炎地獄を走り回る誰か、刃の舞う果ての知れない世界を逃げ回る誰か。夢から目覚めた時、その誰かが自分でないことを祈る日々。いつの日かの文学のテーマは縫合され過ぎた、あるいは人生を味わう前に縫合を急ぎ過ぎた傷跡をほぐすことになるだろう…
小学校時代  初めて買った本は…
小学校の何年の時だったか、誕生日かクリスマスのプレゼントに『アンデルセン童話集』を買ってもらったことを覚えている。尤も、その前に昔話や童話の本を買ってもらったことがある。ただ、夢中になって読んだという記憶もないし、親とかに読んでもらったという記憶もないので、印象が薄いのである。アンデルセンの本は、立派な装丁の分厚く感じた本だった。けれど、内心では当惑していた。私は本は好きだと感じたことはそれまでなかったのだ。読むのは漫画の本だけだったはずだし。あるいはそんな小生を見かねて敢えて買って与えたということなのか。
小学校の頃は本を買うという発想はなかった。当時は未だ盛況だった貸し本屋(田原)さんで漫画の本を借りるのが常だったのである。小生は月刊の『冒険王』を買い、友達は『少年』を購入し、互いに読み回していた(実は小生は『少年』のほうを買いたかったのだが、つい気が弱くて友人に<権利>を譲っていた。後は週刊の『少年マガジン』を買った。でも漫画中毒の小生は、毎日のように貸し本屋さんで漫画の本を借りまくっていた。漫画の本は大概は小母さんが座っているレジの周辺に並んでいた。いつの頃からか、もっと背後にズラッと並ぶSF小説(空想科学小説)や推理小説なるものに目が向くようになり、やがて若干背伸びしてハードカバーの小説類を借りるようになった。
小生の家は父で三代目になる農家である。父の祖父、つまり小生の曽祖父は豊田にある本家から明治の世にそこそこの農地と共に分家させてもらったのだ。
その本家は戦国時代に上杉方と武田方との戦いの中で敗れ、百姓として土着したという。上杉方か武田方のどちらかは分からないと父より聞いている。
そうした生粋の農家である小生の家にはガキの目には沢山の本が書棚に並んでいた。仏間や座敷などに立派なガラス戸の付いた書棚があり、日本文学全集やコナン・ドイルの推理小説などびっしりと詰まっていたような気がする。折に触れて当時テレビドラマでよく使われた石坂洋次郎の小説などを引っ張り出して、艶っぽい場面を探しては興奮していたものだ。
ある日、父は何を思ったか数十巻もの百科事典を購入した。どれほど開いたものか知らないが、小生は、誰も居ないときにこっそりと分厚い百科事典を開くのが楽しみの一つになった。言うまでもなく、何か女の裸の写真が掲載されていないかを検索すること、せめて女の体の構造を図解入りで説明されていないかを探訪していたのだ。
そのような訳で最初に自分で買った漫画以外の本を覚えていないのである。それより近所のガキ連中と遊ぶことに夢中だった。缶蹴りに草野球にかくれんぼに。小生は友達と二人で居るときでも何故か不意にかくれんぼをするのが好きだった。何の脈絡もなく、それこそ不意に友達から隠れてしまうのである。友達に探して欲しかったのか、単に隠れたかったのか、自分でも分からない。このかくれんぼを不意にする癖は中学に入ってもしばらくは直らなかった。
それより何より小生はテレビに夢中だった。多分、64年の東京オリンピックの直前だったと思うが、家にテレビがやってきた!見る番組は父に選択権があったけれど、『シャボン玉ホリデー』や『3バカ大将』(正確なタイトルを忘れた)やらは一緒に見ることが出来た。なんといっても歌番組が大好きだった。父の好みでNHKの『新日本紀行』や昼時の『民謡』あるいは藤山寛美の舞台中継。藤山寛美の舞台で繰り広げられる演技は面白可笑しく今も印象深い。
でもやっぱりが好きで、西田佐知子や中村晃子や布施明(『霧の摩周湖』)やザ・ピーナッツや…。歌は常に心に鳴っていた。クレージー・キャッツやドリフターズやてんぷくトリオなどのコントも不可欠の番組。
歌が常に心に鳴っていたと記したが、ある時期までは平気で人前で歌っていた。学校で歌わせられるのは大嫌いだったが。しかし、ある日、家の中で大声で歌っていたら父がボソッと、「俊彦は結構、音痴じゃないな」と呟いたのである。小生はショックだった。ということは小生はそれまで父に音痴だと思われていたということではないか!それ以来プライドを傷つけられて小生は人前では一切歌うことを止めたのである(心の中では80年のガス事故に遭遇するまではズッと歌いつづけていた)。
しかし、今から思うと、父はかなり高いレベルで音痴ではないと呟いたのだと思う。少なくとも父は歌手の歌のレベルについてはうるさかったし。
とにもかくにも私は演歌少年、歌謡曲少年だったのだ。
友人がいなかったわけではないが、自分から友達を作る才覚はまるでなかった。小学校や中学校時代、遠足は大嫌いだった。一緒にグループを作る相手がまるでいなかったのだ。公園などを一人、ブラブラするばかりで、ひたすら時間の経つのを待つのだった。
中学時代 初めて本を買い始める。
私は今もその傾向があるが、図書館や本屋さんに入るのに躊躇いを覚える。何か後ろ暗いものを感じるのである。
つまり人間には何か表で何かをすべきである。図書館や家に閉じ篭って本を読むより、外で、世間の中で人に対して直接何かするか、人と関わる行動をすべきである…。
こうした倫理観が何処で植え付けられたのか自分でも分からない。父は本が好きだし、書も得意だし、母や本はほとんど読まないが、だからといって小生に本を読むことへの後ろめたさの感覚を刷り込む謂れがない。
それでいて小生は家の手伝いをする人間ではなかった。家が農家で田植えや稲刈り、あるいは広くはない庭の植木の手入れなど、なすべき仕事は沢山あったのに、自分は手伝いを申し付けられたら敢えて拒否はしないけれど、自分から何かを手伝うというわけでもなかった。むしろ単純に自分の世界に閉じ篭っていたように思う。ぼんやりだったのだ。人にどつかれないと薄明の境から戻って来れなかったのだ。理屈は分かっても、それは遠い世界のこと、他人の世界の、つまりテレビ画面の向こうの話であって、それが自分に関係あるとは、それどころか自分がその当事者そのものであることになかなか気づくことがなかったのだ…。
中学校の2年になったある日、小生は親より塾へ行けと申し渡された。あまりに出来が悪いことに呆れ果てられたのである。二人居る姉達はそこそこの成績だったのに、小生は例えば数学で零点を取ることもあった。別に試験をサボったのではなく、単純にできなくて零点になったのだ。平均点を超える科目はあったかどうか。しかも始末に悪いことにそんな自分を別に恥とも何とも当人は感じていないことだった。
中学1年のある日、英語の先生に「君の姉さんはもっとできたのにな…」と言われた時も、悔しいと思うどころか、発奮の材料にするどころか、「ああ、姉らは出来たんだ」と、ただ、感心するばかりだったのである。
塾に入ったのは成績の上では成功だったと思われる。中学2年になって数学で平均点を超えたことさえない小生がいきなり百点など取ったりしたのだから。あまつさえ、この小生が何を勘違いしたか一瞬でも数学者や物理学者を夢見る事態に至るのだから、一寸先は闇なのである。特に数学でも幾何学に非常に魅入られたものだ。
そういえば小学校の高学年になった時、ちょっとだけ人生に目覚めたことがある。3年の時から担任になったI先生が恩人その人である。I先生は出来の悪い人間もハンディのある人間も平等に扱ってくれる人だった。叱る時は分け隔てなく叱ってくれて、土の中深く潜ったままだった小生を土の上に顔を覗かせる程度には引き上げてくれた。
小学校の卒業の日、I先生はクラスのみんなそれぞれに一言ずつ言葉を与えてくれた(そう、I先生は3年から6年までずっと担任のままだったのだ)。小生にも。それは「磨く」という言葉だったことを覚えている。その「磨く」という言葉を書いた紙を示して、「読めるか」と聞かれた。小生は「みがく」という言葉を読むことが出来た。しかし自信がなくて口に出して読むことができなかった。するとI先生は「みがく」と言うんだよ、「君は云々」と続いたが、後の講釈は覚えていない。ただ、読めるのに失敗が怖くて口に出せなかった自分が今も情けないばかりである。
おっと、また脱線だ。趣味のページなのに如何に自分が無趣味な人間かを述べ立てる破目になっている。そうなのかもしれない。自分は人生に当事者として参画しているという自覚がないのに、趣味などありえるわけがないのかもしれない。趣味とは人生の中の、人生をより深く享受する方便のはずなのだし。この分ではいつになったら趣味に至るのやら…。これではホビーのページではなく、ゴルフではないがオービーのページになってしまいそう。
尤も広辞苑(第五版)で趣味を調べてみると、以下のようである。
(1)感興をさそう状態。おもむき。あじわい。
(2)ものごとのあじわいを感じとる力。美的な感覚のもち方。このみ。
(3)専門家としてではなく、楽しみとしてする事柄。
(4)[哲]カントの用語。美的判断力の一つ。趣味判断
とすると、このホビーのページもいつかは何かしら妥当してくるに違いない。
妥当はしないまでも趣味を持っていると、人並みに言える地平に至りたいという願いはある。まあ、どういうわけかついここまで読み来たった方は、せっかくだからもう少し付き合ってもらいたい。プロフィールという公(おおやけ)めいた文章ではないし、かといって自伝というほど大仰なものでもない、つまりは小生の中途半端な人生そのもののような曖昧な領域を歩んでいるのだ。
ところで広辞苑式に言うと、専門家でもない小生が今でも数学や物理、あるいは宇宙論、生物学、時には美術や音楽!の本を読むのは究極の趣味でなくしてなんだろう。
考えてみると、小生は言い訳めいているけれど、何事に付いても専門家には決してならないと決めた経緯がある。不安の只中で宙ぶらりんになっていること、その究極の中間者としての位置を意地でも守りたいのだ。
しかもその中間者もパスカルのように純然たる中間者ではない。ヨーロッパ中世の闇を脱出して、宇宙という無限の空間に漂う地球という未曾有の感覚に慄き始めた近世ヨーロッパ人たるデカルトやパスカルが強烈に自覚した明晰判明な中間者などでは全くなく、何か曖昧で不透明で中途半端な、バツの悪さばかりが目だつ半端な中間に逡巡しているのが小生なのだ。
もしかしたら小生の一番の趣味の醍醐味はここにこそあるのではなかろうか。

  以下は工事中です。今後の展開をお待ち下さい。