(04/04/12 up)
ほとぼりが冷める
ラジオを聴いていたら、久しぶりに「ほとぼりが冷める」という慣用句が聞こ
えてきた。珍しい語句ではないけれど、あまり聞かなくなった表現である。
小生、その「ほとぼり」というのは、一体、何なのかが気になり、メモ。今に
なって調べている。
手元の「広辞苑」によると、「ほとぼり」の項は、「ほとぼり[熱]」となっ
ている。そうか、熱のことだったのか! だから、「冷める」と続くのか!
念のため、「広辞苑」の説明を書き写しておく:
「(1)熱気。ほとおり。また、余熱。神代紀(下)「―を避りて居りますとき
に」(2)感情・興奮などのなごり。また、事件などの後の、世間の関心・うわ
さ。「―がさめる」
そうか、そういうことか。言われてみたら、呆気ない。小生が勝手に想像した、
何かの堀にちなむのか、というのは、まるで見当違いだったようである。
しかし、である。これでは、分かったようで、まるで分かっていないことにな
る。「ほとぼり(ほとおり)」が「熱」なのであり、そこから(2)の意味が派
生したのだとしても、それでは、そもそも何故、「ほとぼり」が「熱」を意味す
るのか自体が、問題のはずなのだ。
すると、ヒントは(1)の中の「ほとおり」にありそうである。そこで、「ほ
とおり」を同じく「広辞苑」で調べてみる。
すると、「ほとおり[熱]」は、「ほとぼり」の古形だという。何じゃ、こり
ゃ。盥回しじゃないか(この盥回しという慣用句も興味が湧く)。小生、弄ばれ
ている気分である。
不満に思いつつ、「ほとおり」の近くを見ると、「ほとおりけ[熱気]」とい
う項があると知れた。その説明として、「発熱する病気」とあって、「日葡辞書
「ホトオリケニゴザル」」と例示されている。
さらにその次の項には、「ほとおる」があり、その表記は、[熱る]だとされ
ている。
どうやら、何が何でも、「熱」は「ほと」と読むのだと言っているようである。
「ほと」というと、誰しも連想する。そう「ほと[陰]」である。「広辞苑」で
は、「女の陰部。女陰。(2)山間のくぼんだところ。」と説明されている。
この「ほと」と「ほとおる[熱る]」とは、語源的に何か関係があるのだろう
か。何かある…。別に穿った見方をしなくても、女性の陰部が火照っている(少
なくとも人肌ほど以上には熱い)ことと無縁ではないと思ってしまうだろう。
この見方からすると「ほとぼり」というのは、元は、清音だったわけだから、
「ほと」「ほり」で、「ほと[女性の陰部]」に、さらに形状を示す「堀」が蛇
足のように食い込んで…、もとい、くっ付いて、深く味わいのある表現になって
いるのだということになるのだが、そうは、問屋が卸さないようである。
これだったら、「ほとけ」というのは、「ほと」に「け」で、御仏というのは、
モデルが女性であり……云々ということになり、それはそれで深い瞑想に続きえ
るのだが、ちょっと無理がありそうなので、この辺りで止めたほうが好いようで
ある。
しかし、どうも、中途半端である。
そもそも、女性の陰部を「ほと」と称するのは何故なのか。また、繰り返しに
なるが、「ほとおる」が[熱る]なのは、どうしてなのかが分からないと、理解
の深めようがない。ほとほと困り果ててしまった。
あるいは、「ほてる」が「火照る」であるように、「ほと」も、「ほ」と「と」
とに分離されるべきなのか。つまり、「ほ」とは、「火」を意味する可能性を思
うべきなのか。もしかしたら、「ホテル(hotel)」は、「火照る」と関係してるのではな
いか。
分からない。疲れた。
探求すべき余地が、あまりに多いと痛感したところで、この項を終えたい。外
堀くらいは埋まったろうし…。
04/04/10記
ドジを踏む
ほとぼりが冷めるなんて、慣用句の「ほとぼり」が気になっていたら、その流
れというわけじゃないけれど、「ドジを踏む」という、これまた慣用句の語源な
り由縁などを知りたくなった。
例によって「広辞苑」で調べると、「へまをする。間の抜けた失敗をする。ド
ジをはたらく。」とある。これでは、「ドジ」という意味合いのまんまである。
が、丁寧に「ドジ」の項を読んでみると、気になる単語が見受けられる。まず、
「広辞苑」の当該の項を引用してみると、「まぬけ。へま。失敗。ぶま。」とあ
る。
そう、この説明の中の、「ぶま」が謎なのである。
念のため、「どじ」の直下に、「どじ[土耳]」という言葉があり、その意味
は、「人相術で、厚く肥えた耳。色が紅色の耳は富貴・長命の相という。」だと
いうから、小生の推測(直感)は当てにならないものの、小生が知りたいと思っ
ている「どじ」とは、語源的に無縁 のように思われる。
さて、「ぶま」を調べてみよう。すると、「ぶま[不間]」は、「まのぬけた
こと。気のきかないこと。へま。まぬけ。」とある。まあ、「どじ」と似たり寄
ったりの意味を持つ言葉のようである。語源的に近いのかどうかは、分からない
のだが。
小生、この「ぶま」という言葉は初耳である。まして、「不間」と漢字表記す
るとは思いも寄らない。ただ、漢字で表記されると、なんとなく意味合いが察せ
られるから面白い。しかし、この「ぶま」も、「どじ」と同様、何処かに由来す
る言葉だろうという匂いがする。
なお、「どじ」や「ぶま」の説明に出てくる言葉、「へま」も意味合い的には
近い。「ぶま」が漢字表記では、「不間」らしいので、「へま」は(「広辞苑」
では、平仮名だけの表記しかないのだが)、敢えて漢字表記を小生がするなら、
「へた」を「下手」とする伝で、「下間」ということになる…のだろうか。
さて、困った時のネット検索である。「ドジを踏む 語源」というキーワード
でネット検索すると、6件ヒットした。そのトップは、下記のサイトである:
http://www.hoops.ne.jp/~webook/2002.06/2002.06.19.htm
見ると、どうやらメルマガであり、ヒットした号では、柴田武著の『常識とし
て知っておきたい日本語』(幻冬舎)を扱っている模様である。
その中に、小生が関心を抱く「どじ」についても扱われているというわけのよ
うだった。
説明を引用すると、「ドジを踏む」とは、「元は相撲の言葉。土俵の外に足を
出してまけることを“土地を踏む”といい、トチは、が変化してドジになったん
だとか」とある。
そうだったのか! 勉強になった。何の役にも立たない勉強だけど、ちょっと
だけスッキリした気分である。
尚、さらに典拠を探っていくと、佐伯誠一『言葉のルーツ雑学集』(日本文芸
社1985)にも、同様の説明が見出されるようである。勿論、出典を探せば他
にもあるのだろうが。
相撲に由来する言葉というのも、いろいろある。「胸を借りる」「人のふんど
しで相撲をとる」「独り相撲」「八百長」など。
最後の「八百長」は、俄かには相撲に由来するとは、分からないが、「広辞苑」
によると、「明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合
わせで、常に一勝一敗になるようにあしらっていたことに起るという」と、説明
されている。
ネット検索して調べてみると、「通称八百長」とは、「八百屋の長兵衛」とさ
れている。
それにしても、分からないのは、土俵の外に足を出して負けることを“土地を
踏む”というようだが、では、土俵の中というのは、土地ではないのだろうか。
土俵の中でも土地を踏んでいるんじゃなかろうか。
小生には、どちらに転んでも土地のような気がするのだが、素人の浅知恵とい
うことなのだろうか。
最近、モンゴル出身の関取の活躍が顕著である。そのモンゴル相撲には、土俵
などはなく、草原という大地の上での取り組みとなる。ここから推測すると、日
本の相撲は、土俵の内側というのは、土地ではないと考えられているのかもしれ
ない。
尚、相撲ファンならずとも、相撲の歴史の古いことは知られている。下記のサ
イトによると、「日本の史書に「相撲」という文字が最初に出てくるのは、「日
本書紀」雄略天皇13年( 469) 9月の記事である」という。
その記事に書かれている逸話が面白い。文献上、日本最古の相撲は、女相撲な
のである。無論! 「褌一丁」の恰好なのだ。垂涎!!:
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss03.html
以前、大阪府太田知事が大相撲の土俵上で直接表彰したいと言う話があったと
記憶するが、雄略天皇の御前での相撲が、神聖なる土俵の上での相撲だったどう
かは分からないのだが、文献上、日本最古の相撲が女相撲だということは、太田
知事には耳よりの情報なのではなかろうか。
それとも、当時の相撲は、土俵の中ではなかったから、今に繋がる相撲じゃな
いからということで、相撲協会は頬かむりするのだろうか。
(「土俵」というのは、かなり後世になってから出来たもののようだ。少なくと
も武士が登場して以降だという。やはり江戸時代か。)
いずれにしても、土俵の内・外ということの持つ意味合いというのは、なかな
かに重いものがあるようだ。やはり、土地を踏むというのは、厄介な神事のよう
である。
(相撲にちなむ疑問は数々ある。例えば、何故、相撲は、西と東とで対戦するの
か、とか。ま、いつか機会があったら、調べてみたい)。
04/04/11記

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