(04/05/02 up)
1.幽 霊 考
2.幽霊考(霊魂篇)
3.幽霊考(番外篇)
1.幽 霊 考
幽霊考である。題名はイカ飯い、じゃない、厳めしいが、内容が薄いのを
カバーするには題名を重々しくするのが何より。
決して、ヨーデルの曲の歌詞を聞き間違えて、ユーレイホーと思い込み、
つい漢字変換してみたら、幽霊考になったというオチで拙稿を終えようとい
うつもりはない。
念のため、当該のヨーデルの曲は、下記である:
サロニー作曲「山の人気者」
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/yamano_ninkimono.htm
歌詞の中に、ユーレイという言葉が頻発する。聴く人が聞けば、幽霊の歌
と誤解するかもしれない。お母さんが台所で気分良く、この歌を歌うと、幼
い子どもが、幽霊の歌だとばかりに怖がるかもしれない。しかし、曲調はひ
たすら軽快で楽しいのだが。
また、ギリシャ哲学や科学を中途半端に齧った人は、歌詞の中のユーレイ
ティを耳にして、ふと、アルキメデスのユーレカのエピソードを連想するか
もしれない(ちょっと無理があるかもしれないが)。
そう、アルキメデスがお風呂に入った時、風呂の水が溢れることから、ア
ルキメデスの原理を発見したという有名な逸話である:
http://homepage1.nifty.com/tadahiko/ZOKI/ZOKI-072.HTML
あるいは幽霊好きな市役所の人なら、幽霊課があったら、真っ先に手を上
げて担当部署に移動するのに、と思うかもしれない。
さて、気を取り直して、幽霊に付いて、当り障りのない考察を試みよう。
小生、怖がりなので、幽霊の気の障るような考察はしないつもりである。
幽霊さんに気が付かれないよう、こっそりと、そして不意に幽霊さんが現れ
て絡まれないよう、辺りの気配を十分に探りつつ、あれこれ意味のない探求
を試みたい。
それにしても、まず幽霊について先ず思うことは、幽霊には足のないこと。
幽霊は、江戸時代の怪談ものだと、柳の枝の垂れる薄暗いお堀端で不意に現
れる。牡丹燈篭は別として、そうした状況で現れる幽霊さんというのは、決
まって足がない。というか、下のほうが曖昧模糊としている。
よく、幽霊には、足がないって言うけど、その足って、何処までがないん
だろう。
洒落た和服姿の若い女の幽霊さんが、しゃなりしゃなり…じゃなく、スス
ーと現れる。美人である。間違っても平安朝の丸顔美人ではない。やややつ
れたような恨めしげな表情を痩せぎすな顔と体に漂わせている。間違っても、
ハーイなんて、陽気には現れてくれないし、挨拶もしてくれない。
その幽霊。和服を脱いだら、あたい、もっと凄いんですって、思い切り良
く脱いでいただいて、スッポンポンになって頂いて、腿の辺りから先がない
のか、腰の辺りから先がないのか、確かめてみたいものだ。
考えてみれば、そもそも、幽霊って文字通り、霊なんだから、服を着てい
るのが、本来、おかしいのだ。人間が霊になりえるのだとしても、着衣は浄
土へも冥界へも行けないはずじゃないのか。
誰かが霊的存在になったら、着衣も装身具も遺品の類いはみんな一緒にあ
の世か何処の世か知らないけど、何処かしらの世界に移っていくというのだ
ろうか。言うまでもなく、おかしい!
遺品は遺品として、遺族等には思い入れの対象になりえるというのは分か
るけれど、あの世へ一緒に行くというのはありえないのではないか。
そう、人がこの世に恨みを残してあの世へ移れずに、幽冥の境を彷徨って
いるのだとしたら、それは霊魂についてはそうであって、着衣にまでこの世
に恨みや未練や復讐の念があるわけじゃなかろう。魂が宿っていた肉体でさ
え、この世に見捨てられ朽ち果てるか、腐るか、焼き消されるに任せている
というのに。
だから、小生、幽霊は、断固、素っ裸のスッピンで現れるべきだと信じる。
万が一、着衣の幽霊だったら、お前、おかしいんじゃないか、脱げよ、そ
うじゃないと幽霊と認めてやらないぞと脅してやればいいのだ。
もしかしたら、そのスッピンの顔が怖いのかもね。だって、化粧品や装身
具がこの世に残ったままなら、当然、化粧もこの世に取り残されるはずだ。
居場所を失ってウロウロするのは魂だけ。当然ながら、着衣はなく、化粧も
ないスッピンというのが理屈なのだし。もしかしたら、素顔を見たなー、裏
飯屋…じゃない、うらめしやーと出現する?
ということで、幽霊がうら若き美人であり、この世を立ち去り難く、魂と
して漂っているというのなら、それはそれで結構だから、素っ裸での登場を
期待したいものである。なんといっても、これからの季節、暑くなる。裸だ
って、寒くはないはずだし。
昔、幽霊が何故、夏場に現れるのか不思議だった。芝居の都合上、夏枯れ
を防ぐため、また、冷房のない昔のこと、暑い最中に来てくれたお客さんに
怖い話で少しでも涼んでもらいたい一心だったのだろうと思っていた。
しかし、そうじゃないのだ! 幽霊は真っ裸なのだ。だから、夏場にしか
現れようがなかったのだ!
04/04/22記
2.幽霊考(霊魂篇)
日本では足のない幽霊像がイメージとして定着している。その場合の幽霊とい
うのは、大概がうら若き女性であり、痩せているのが普通。丸々と肥え太った、
いかにも女将さんという福相の幽霊さんというのは、いるのかどうか分からな
いが、見たという話はあまり聞かない。
あるいは、実際にはそうした幽霊さんにも遭遇しているのだが、見ているほ
うが、相手が幽霊だとは気が付かないままに、通り過ぎてしまっているのかも
しれない。
だとしたら、無視された幽霊さんは、きっと、誰にも気付かれないあたしっ
て、何、幽冥の境でも存在感がないの…って、世を儚んでいるに違いない。
この際、男の幽霊は、勝手ながら割愛させていただく。理由は単に小生には
興味が湧かないからである。福相の、足のある幽霊さんにも、申し訳ないけど、
お引取り願うものである。
ということで、結局は、円山応挙がイメージを定着させた、足のない幽霊に
話が戻っていく。それにしても、幽霊なんだし、着衣にこの世に恨みがあるわ
けじゃなし、素っ裸でスッピンの若き美しい女性の幽霊だったらいいなと、改
めてつくづくと思う。そうした幽霊さんだったら、足があったほうがいいとは
思うが。
どうも、足というか下半身に拘るのは、どうしたものか。円山応挙が足のな
い幽霊を描いたのは、そうした幽霊像にリアリティがあると思ったからなのだ
ろうか。
江戸のある時期から、浄瑠璃や芝居などの影響もあって、何処かのお堀端の
柳の枝の垂れる薄暗い場所で若く美しい女性の幽霊がスーと現れる、その際、
足があるのかどうかは、実は問題ではないのかもしれない。燈篭の明かりと柳
の木の具合で、顔を中心とした上半身に多めに光が当ったのかもしれない。
それとも、幽霊さんが、そうしたら自分が相手から見たら怖いに違いないと、
冥界と此岸との境目というか踊り場の壁にある鏡に我が身を映しながら、わた
しって綺麗、うっふん、と言いながら、研究に余念がなく、その挙げ句に、そ
うか、すね毛のあるようなあんよが相手に見られたら、効果が激減する、すね
毛や無駄毛の処理をしなくっちゃ…、だったら、面倒だし、いっそのこと足に
目が向かないようにしたらいいという結論に至ったのかもしれない。
ガキの頃とか、あるいは合宿か旅行などで旅館に泊まったりして、仲間が集
まると、娯楽もない頃のこと、夜の深まりと共に、怪談話に花が咲いたものだ
った。
当然、灯りは落とすか部屋の中を薄暗くする。で、懐中電灯などで顔を下か
ら照らすと、大抵の方の顔は、なんだか不気味に見えるから不思議である。光
というのは、上から、あるいは前方向から当るのが普通で、下からの光という
のは、本来、異例なのだろう。
いずれにしても、光の当たり具合一つで、表情も雰囲気もまるで違ってしま
うことは、照明の研究に専念したことがなくても、それほどに想像を逞しくし
なくても、経験から分かることだろう。
やはり、(自称か他称かは分からないが)若く美しい幽霊さん、誰か恨みを
持つ相手の前で現れるに際し、劇的効果を研究し尽くしたに違いないのである。
おどろおどろしい音の演出という音響効果も含め映像効果の研究者として、幽
霊さんたち、つまりは幽霊さんを描いた画家たちは、映像文化の先駆者だと位
置付けられるべきではなかろうか。
しかし、それでも、足があってもいいじゃないかという疑問は拭えないまま
である。
もしかしたら、足があったら、幽霊の正体が知れてしまう、そう、足が付く
かもしれないと危惧したのだろうか。だったら、その幽霊さん、気が小さいと
いうか、用心深いというか。確かに、幽霊が現れたという痕跡が残っては、興
醒めである。足跡など残らないほうがいい。正体不明が一番である。
手形くらいは残ってもいい…? そう、幽霊さん、登場する際には、手をダ
ラリというかブラリとさせている。これまた定番とも言うべき所作である。
もしかしたら、あの世とこの世の境の何処かに所作を学ぶ練習場があり、そ
こには踊りのお師匠さんがいて、幽霊になる基本動作講座なるものが開かれて
いて、厳しい修行に耐え、お師匠さんのお眼鏡に適った人でないと、学校を卒
業できず、そうした修練に耐え抜いた誉れのある方のみが、晴れて(しかし、
実際には薄暗い場所なのだが)免状を得て、誇らしげに、どうよ、あたいって
綺麗、あたいって怖い、と、登場するのかもしれない。
ということは、案外と幽霊さんは、晴れの姿を見て欲しいとばかりに、堂々
と現れているのかもしれない。ただ、一応は、幽霊なので、密やかに、ひめや
かに現れねばならないという戒律もあり、よって、上体のみが目立つ、足が曖
昧模糊と暈された、そんな中途半端な姿になってしまっているのかもしれない。
言うまでもなく、上記したような厳しい試練と競争に勝ち抜き、生き延びる
には、お師匠への付け届けも必要だし、幽霊協会(その胴元は、大概は金持ち
の、ヒヒオヤジである)の名誉も掛かっているので、やっぱり若く美しい女性
ばかりが免許を取得するより仕方がないのだろう(江戸時代における女性の社
会的位置というう観点から考察する必要もあるのは、言うまでもないだろう)。
さて、ようやく、本題に入る。
幽霊と霊魂とは同じモノなのだろうか。それとも、全く別範疇の存在なのだ
ろうか。いや、そもそも幽霊が何か分からないし、また、霊魂だって分からな
い。(大体、本来、両者共に存在しているかどうかさえ覚束ないのは問わない
として)分からないモノ同士を突き合わせて、同じか違うか、重なる部分があ
るか、なんて議論をやっても、論議の脱毛な…、じゃない、不毛な袋小路に迷
い込むのは目に見えている。
ぶっちゃけた話、幽霊には魂があるのだろうか(その魂って何という愚かし
い質問はしないこと)。小生の個人的な見解からすると、幽霊には魂がないの
だと思っている。魂があったら、つまり、肉体から綺麗に分離され、空中か冥
界に漂っていられるなら、何もこの世とあの世の境で漂い惑う必要もなかった
わけである。
そう、肉体から抜け出て魂のみの存在になれなかった、そんな中途半端な存
在が幽霊なのだ。この世に未練や恨みがあって、この世に見苦しくもしがみ付
いて離れられない、宙ぶらりんの存在形態が幽霊なのだと思う。
魂が肉体から離れたなら、もう、字義通りに自由な存在であり、この世に今
更未練も興味もなく、江戸の町どころか、地球を離れ、太陽系を離れ、宇宙だ
って離れ去り、あの世の何処かへと好き勝手に飛び出してしまい、宇宙の彼方
の何処かを愉しげに飛び舞い踊り狂っているに違いない。
魂という存在(超存在)になってしまえば、何も、江戸の町の、それも丑三
つ時という真夜中なのか未明なのか判断の付きかねる時間帯に、まして柳の枝
の垂れる掘割の傍、まして季節は暑い盛りなのだから、蚊だって、飛び回って
いて、下手に顔や腕がニューと出ていると、刺され放題になる、そんなしみっ
たれた状況に出没する必要はないのだ。
となると、この世に過剰にしがみつくというのは、あるいは、幽冥の境の道
場で、卒業できずに道場の裏の先生方の目の届かないところで、こっそり煙草
を吹かしているような、そんな落ち零れが幽霊になるのであって、優秀な存在
は、肉体やこの世とはきっぱり縁を切り、踊りの学校を卒業した後は、自由自
在に融通無碍に飛び立って行くのだと考えられる。
そうだ、幽霊はあの世へスムーズに移れなかった、落ち零れの連中なのだ。
つまり、卒業するには、足切りの点数に届かず、つまり、足を切られてしまっ
た…。だから、幽霊には足がないのだ!!?
さて、幽霊と霊魂との関係については、更なる考察の余地が無限にありそう
である。
その中の一点だけに触れておく。それには先ず、そもそも今日のイメージで
の幽霊が誕生したのは、江戸時代であり、浄瑠璃や芝居などの影響のもと、リ
アリティの可能性の極限を追及した果てに生み出されたものだということを、
まず理解しておく必要がある。
そう、幽霊の出自は、そもそもが高級か低劣かは別として、娯楽的観点から
生れ落ちた存在だということだ。これは、つまりは、ある意味で宗教的範疇か
らも、食み出してしまっていることを意味しているのかもしれない。
江戸時代、戦国時代末の織田信長から始まった弾圧の結果、宗教勢力が徹底
して弱体化し、宗教的権力や権威が、まさに文字通りのただの権威、求道的、
あるいは庶民を救済する宗教本来の道を忘れ果て(棄てさせられ)、宗教的煩
悶の類いが、個人の胸のうちへ内面化さてしまった、そういう時代と幽霊の誕
生とが相関しているのだと考えられる。
宗教者の堕落は(しかし、当事者たちは幕府の厳しい監督のもと、安定した
地位と権威を確保しているから、自己満足の境にいるのだろうが)、本願寺の
僧侶たちのさまを見れば一目瞭然である。もう、庶民の生の苦しみとは、綺麗
さっぱり縁を切ったのだ。
宗教的問いは、戦乱の世が終息したことで、宗教的情熱も含め、沈静化の一
途を辿り、宗教者は、お寺や神社などに鎮座してしまい、庶民の悩みの行き場
所がなくなってしまったのである。幽霊というのは、宗教的哲学的範疇として
の霊魂から分離された鬼っ子だったのだろう。庶民の日常的悩みの類いは、宗
教とは、宗教者とは縁のないものとなってしまったのだろう。そんな悩みは、
本堂の奥で木魚を叩くだけの仏教者などにぶつけるものではなく、個人的に解
決すべきものになってしまったのだ。
宗教的課題だったはずの、行き場のない悩める庶民の心は、まさに仏教界か
らは忌避され、この世を彷徨うしかなくなったのだろう。この六道の闇夜を迷
う霊魂が、永遠の苦悩や煩悩を成仏すべく仏教者に弔ってもらえることもなく、
幽霊という形で宙ぶらりんな境を彷徨うしかなくなったのだろう。
幽霊は芝居などの娯楽を背景に誕生した。同時に、宗教的懊悩の世界が仏門
とは縁が切れ、庶民の背負う世俗的煩悩が行き場を失い、幽霊という半端な、
しかし、だからこそ、庶民の誰もが共感・実感できる象徴的造形が誕生したの
ではなかろうか。
04/04/25am 記
3.幽霊考(番外篇)
この頃は、あまり流行らないというのか、耳にしなくなった事象に人魂があ
る。噂によると、夜、人魂を見ると、人妻に会うというのだが、これはどうや
ら、夜陰に紛れた人妻を人魂と勘違いしたものと推測される。言うまでもない
が、人魂と人妻は歴然と違う事象なのである。
さて、最近はあまり人魂を巡る話題は耳にしなくなったような気がする。と
いうより、そもそも怪談話自体が人気がない。あっても学校のトイレの怪談な
ど、何か乾いていて、江戸時代以来の幽霊モノと比べると味わいも人情も薄れ
ている。
教養もないのだし、牡丹灯篭という言葉を聞いても、ボタンとオノ? と聞
き返すのがせいぜいなのである。都会の風景も、何処か他人行儀な光景を映し
出しやすいのかもしれない。情緒という言葉が死語になりつつあるのも、むべ
なるかな、である。
この人魂だが、これが飛び交うのは、なんと言っても似合うのは墓地である。墓場
である。といっても、リストラされたサラリーマンの行き場所という人生の墓
場という含蓄ある意味合いで使っているのではなく、文字通りの墓場に人魂が
ユーラユラ飛び舞うのである。
人魂は、小生は残念ながら見たことがないのだが、どうやら必ずしも強烈な
光を発して燃えているわけではないようである。仄聞するところによると、弱
々しい、絶え入るような青白い光を放っているという。
蝋燭の焔が、なぜか蝋から浮き離れてしまって、ほんの少し崩しつつも、基
本的には形を保ちながら中空に漂ったなら、色合い的には、若干違うとしても、
人魂のイメージに近付くのだろうか。
幽霊も、掘割と柳の木の下がお似合いなのだが、墓地で現れたりしたら、怖
い。小生は、繊細の神経も幾何学の精神も持ち合わせていない、至って平穏無
事・人畜無害な人間であり、そもそも幽霊の存在を否定はしないまでも、信じ
てはいない(怖くて信じられない)。
しかし、夜中に街灯もないような墓地に一人で行く勇気はない。なんとなく
怖い。強盗が現れるやも知れず、自転車か原付に乗った兄さんが引っ手繰りせ
んとばかりに背後から静かに走り寄ってくるやも知れないのだし。
そんな墓地に、真夜中過ぎに出向くなど、とんでもないことである。それこ
そ自己責任の世界だ。小生の辞書に実験精神の文字はマジックで塗り潰されて
いるのだ。
が、世の中には勇気のある、それとも無謀な、率直に言って無神経な人がい
て、わざわざ真っ暗な墓地に肝試しとばかりに踏み込んでいく奴もいる。
そうはいっても、最近のお寺は夕方ともなると、門を固く閉めてしまうので、
墓地が青空というのか、お寺の外にあるのでないと、実験は難しい。肝試しと
か、人魂に纏わる話題が、近年少ないのは、お寺が閉鎖的になってしまったか
らなのだろうか。
しかし、お寺のせいばかりとは言えないようだ。そもそも、これまた俗説で
あって、確かめたことがあるわけではないのだが、人魂=隣説がある。そもそ
もこの頃は珍しくなってしまった、土葬という風習が前提でないと、この説に
絡む話自体が始まらないのだが。
そう、俗説では、人魂というのは、人の遺骸が土中で腐り、雨が降り、人体
の中にあった燐が溶け出し、やがて土の表面に近付いた燐が、何かの拍子に暖
められて燃え出すのだと、説明されている。
この説は正しいのだろうか。だれか実験したのだろうか。そうはいっても、
今更、人の遺骸を埋めて腐らせるわけにはいかないって。
そんなことは、ないはずである。やる気があれば、何事もできるはずである。
そもそも、何も人の屍骸に拘る必要などない。愛するペットちゃんが死んだら、
火葬(荼毘)に付すのだろうか。そういう奇特な方もいるのだろうが、土中に
埋める形で埋葬に代える人も多いはずだ。そうした動物の屍骸であっても、人
の遺骸と原理は同じ筈なのである。実験する機会、観察する機会はタップリあ
るはずなのである(繰り返すが、小生はしない。怖いし)。
仮に燐が人体ないし動物の屍骸から腐敗により屍骸の表面に浮き出し、さら
に、土中に染み込んだ雨などで燐が次第に土の表面に浮いてくるのだとして、
その燐が燃えるとしたら、土の表面でなのではないか。
小生は、医学にも疎い人間なのだが、人体に含まれる燐というのは、赤燐だ
と聞いたことがある。この赤燐は、下記のサイトによると、「紫燐他の固溶体。
赤紫色、無毒、マッチに使われる」とある。さらに、「マッチの原理」として、
「摩擦熱により側薬中の赤燐(Pn)から少量の黄燐(P4)が気化し(以下、難
しいので省略)」と続く:
http://www.h7.dion.ne.jp/~wco-act1/deta.htm
ちなみに、「白燐(黄燐) P4」については、上記のサイトによると、「精
製されたものは透明の白色ろう状の固体で一部は赤燐に変わっている。α黄リ
ンとβ黄リンがあり、立方晶系の結晶である。黄燐は化学的に活発で、空気中
で酸化されて燐光を発し、有毒である。かつてはマッチの発火剤に使用されて
いたが、ポケットに入れていたりすると、自然発火して危ないため、使われな
くなった。」とある。
要するに、赤燐は燃えづらいし、まして燃えるためには赤燐が黄燐に変化す
る必要がある。
無論、赤燐が土中において、どのような化学変化を被って黄燐に変化しない
とも限らない。例えば、下記のサイトに見られるように、「自然発火するのは
有毒な黄燐だが、動物の体内にあるのは無毒な赤燐である。そして、赤燐は簡
単には黄燐に変化しない」のであり、どうしても、「死体の燐が燃えるという
俗説に説得力をもたせ」たいならば、「土中で赤燐が黄燐に変化するプロセス
を明快に説明してやらねばならない」
つまり、土中の「酵素やバクテリア類の働きでそのようなことが」生じるの
かどうかを示さないといけないわけである:
「納涼怪異現象レポート」
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_43.htm
赤燐が人魂の原因だというのなら、そのメカニズムも含め、自らの責任で主
張すべきだということになる。
さて、人魂の発生原因としては、他にも(有力な?)説がある。つまりメタ
ンガス説である。
このメタンガス、知られているように、とても燃えやすい。メタンガスは古
い沼などで発生しやすいという。ペースト状の泥の中で有機物が発酵して、メ
タンガスが発生することがあるのだろう。
このガスは、燃えやすいだけじゃなく、比重が、この人魂現象に向いている
というのか、軽くもなく重くもないので(素人臭の強い説明で申し訳ない)天
候次第、風向き次第では、人の目線の高さで漂ってしまうこともあるらしい。
そうした空中に漂うメタンガスが燃えると、夜の闇の中では人魂というか人
玉というか、火の玉に見えることもある、というわけである。
となると、誰しもが思い浮かぶのは、肥溜めである。それも、ポットン式の
トイレの下の肥溜めではなく、古(いにしえ)、青空にあった肥溜めである。
もしかしたら、そうした肥溜めの中の成分が肥の中で練られ発酵してメタン
ガスに変化することもあるのではないか。だとしたら、他にも気象条件その他
が合わさる必要があるだろうが、火の玉も、そうした場所の近辺で発生する事
もあったのではなかろうかと推察されるのだが、はて、どんなものだろう。
オナラとかゲップもメタンガスだという。だったら、発射された瞬間のオナ
ラも、上手く点火してやれば、一瞬くらいは燃え上がるのではなかろうか。尻
に火がつくとは、このことを指しているのではなかろうか。
どうも、推測が多すぎて困る。何しろ話題の対象がガスだし、人妻と混同さ
れがちの人魂だし、仕方ないとは思うのだけれど。
04/04/25pm 記

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