[ 昨年の10月、あるネット上のアイドルが亡くなった。才能も人気もある女性作家だった。「Contact Me」の頁にキリ番のコーナーがあるが、そこに小生も一時は交流の機会に恵まれたその方の名が書いてある。互いにキリ番をゲットし合っては、相手に小説のテーマを提示し、掌編を書き合ったものだった。年齢も、小生とほぼ同じだった。その方が、ますます才能が花咲き、あれこれやりたいという意欲満々の盛りに、惜しくも亡くなられたのである。その追懐の意味もあり、48-50では、葬送(埋葬)関連の文章を載せたが、第2弾としてここには、「ネット上のヒロイン追悼」など、カメママさん、いかりや長介さん、田尻宗昭さん(川本輝夫さん)らへの追悼文を載せる。メルマガにて公表済みであり、その再掲である。 (04/11/11 up時記す) ]
51.いかりや長介さん死去
52.ネット上のヒロイン追悼
53.田尻宗昭氏のことをラジオで
51.いかりや長介さん死去
今朝の新聞を昼前に読もうとしたら、第一面にショックな文字が。慌てて社
会面を開くと大きく採り上げられている。
彼がガン(原発不明頚部リンパ節ガン)だったことは自ら公表していたが、
その後もドラマに出演したりしていた。彼は近年、個性と渋い味のある脇役と
して活躍していた。「踊る大捜査線」でも、若く尖がった正義感溢れる主役を
支える落ち着いた演技でドラマに奥行きを与えてくれていた。このドラマの98
年映画化作品9「踊る大捜査線 THE MOVIE」で翌99年に第22回 日本
アカデミー賞 最優秀助演男優賞を受賞している。
そんな見ていて安心感の持てる脇役が出ているドラマは、つい見てしまう。
ドラマの主演はその都度の人気者で、よく言えば乗っているタレントというこ
とになるが、小生などがドラマを見るかどうかは脇をどんな役者で締めてくれ
ているかで決める。
しかし、小生は、そんな俳優であるいかりや長介さんより、やはりコミカル
さが売り物のバンド、そう、ザ・ドリフターズのリーダーとしての長介さんが
好きだった。なんといっても、小生のガキの(終わり)頃から、大学を卒業し、
フリーター生活の挙げ句、サラリーマンんいなって数年の85年までザ・ドリ
フターズの出演する「8時だよ! 全員集合」が印象的である。
テレビの中の舞台の上で演じられる、しょうもないギャグは、時代の制約も
あり、近所に原っぱもなく、ガキがガキたる悪さを思いっきり発散できないガ
キども、ガキの心を持った大人たちには、なくてはならない番組だったような
気がする。そう、気の小さな、親の目、世間の目を気にするいじけたガキたる
小生には、彼らはクレイジー・キャッツに続く、文句なしのヒーローだったの
だ。
このお化け番組とも呼ばれ、世の良識ある方々の顰蹙を買いつづけた番組に
終わりをもたらす番組、「オレたちひょうきん族」が81年から始まった。最初
は裏番組だったが、ビートたけし、明石家さんまらの上り坂のギャグが次第に
圧倒していった。「タケちゃんマン」や、「ひょうきんベストテン」、「ひょ
うきん懺悔室」などの人気コーナーを思い出される方も多いのでは。
それに対し、ザ・ドリフターズの「いい湯だな」「ドリフのズンドコ節」な
どのヒット曲、あるいは、「ちょっとだけよ」「カラスの勝手でしょ」などの
ギャグは次第に色褪せていって、かといって新しいギャグが次々に生まれるこ
ともなく、ついに85年に「8時だよ! 全員集合」が幕を下してしまうのであ
る。
この番組の終わりの年、85年にプラザ合意があったりして、日本の社会がバ
ブル経済に突入していく。もう、「食べ物を粗末にする」とか、ストリップ紛
いのギャグなど、まるでインパクトを持たないし、むしろ世間のほうが、ザ・
ドリフターズが舞台で懸命に真面目にギャグする演技より<進んで>しまった
のである。もう、モラルの基準点が見えなくなり、だからこそ、「オレたちひ
ょうきん族」の当時としてはハチャメチャなギャグに視聴者の嗜好が移らざる
を得なかったのだろう。
が、「8時だよ! 全員集合」と共に、青春を生きた小生は、「オレたちひ
ょうきん族」を見ることを断固として拒否し通した。というより、小生の古び
た感覚は、「オレたちひょうきん族」の感覚についていけなくなってしまって
いた…、年を取り過ぎてしまったということなのだろう。
この「オレたちひょうきん族」には、「8時だよ! 全員集合」にそこはか
となく感じられる後ろめたさの感覚が皆無である。あっけらかん、としている。
後ろめたさがないギャグは、ただの悪ふざけで、味気ないのだ。
テレビっ子、漫画っ子だった小生はテレビなどで活躍するザ・ピーナッツか
ら始まって、山口百恵、松田聖子に象徴されるアイドルタレント(勿論、可愛
い女の子)に痺れ夢を託してきたものである。その過剰なまでに演出されたア
イドル像も、崩れてしまう、プライバシーも計算づくで売り物にされるように
なって、夢は潰えてしまったのである。
確か85年頃だったかに、「おにゃんこクラブ」が活躍し始める。もともとア
イドルにしたって、素人に毛が生えた程度の実力だったかもしれないが、それ
なりに訓練され素人とは最低限の一線を画していたのが、ついに最後の防衛線
も破れ、素人っぽさこそが売り物にされてしまったのである。
なんたって、女子高生なのだ。その前は、女子大生が夜中の番組で売り物に
なっていたっけ。
小生は、既に三十台に入っていたが、それでも、最後のアイドルにはなりき
れないアイドルだった「おにゃんこクラブ」路線に追随していこうと、年甲斐
も無い踏ん張りを試みたのだが、80年代の後半、会社が忙しくなり、やがて傾
いていく中、「おにゃんこクラブ」の活躍をリアルタイムの五時台ではなく、
ラジオや有線放送など、間接的な形でしか仄聞するしかなく、ついに我がアイ
ドル追随憧憬路線は潰え去ったのであった。
小生は思う、タレントなら最後まで虚像でいいから夢を売って欲しいと。現
実など、そこら辺に棄てるほど、有り余るほどに溢れているのだし。
ところで、コミックバンドグループのリーダーというと、いかりや長介さん
と双璧を為す存在が、「ハナ肇とクレージーキャッツ」のハナ肇である。彼も
バンドグループとは別に役者として活躍した。
中でも、ハナ肇が主演し、大好きな倍賞千恵子も出ていた「なつかしい風来
坊(1966) 」は山田洋次監督の名作の筆頭に挙げたい作品だと小生は思ってい
る:
http://www10.plala.or.jp/BAMBOOH/HEAVEN/NATUKASI.html
リーダーとして頑張った人は浮世の辛酸を舐めているということなのだろう
か、いかりや長介さんもハナ肇さんも実にいい味のある演技を見せてくれる。
大好きだったのだ。ハナ肇さんの死去もそうだったが、いかりや長介さんの死
去は、小生にとっては、一つの時代の終わりを告げる悲しい事件だった。
合掌!!
04/03/21 記
[コメディアンというべきか、役者というべきなのか分からないが、他にも小生が追悼文を書いた好きだった人が居る。映画「男はつらいよ」シリーズで葛飾柴又の寅さんを演じ通した、渥美清さんもその一人。このシリーズの最後は、渥美清さんの演技に覇気がなく、しかも出番も少なくて、映画はつまらない…と思っていた。が、亡くなられて初めて公表されたのだが、すでに病魔に蝕まれ、普通なら演技や仕事どころの体ではなかったのだ。けれど、そんな内輪のことを世間には見せまいと、体と心に鞭を打って役者魂を貫き通したのだった。
他にも、ドラマ「裸の大将」 で山下清さん役を演じ続けた芦屋雁之助さんも役者魂を貫いて生きた一人だった。糖尿病という病魔に冒されていることは本人も自覚していた。けれど、山下清のおおらかでのほほんとしたイメージを役の上で出すために、周囲の忠告に応じ、痩せたりすることで糖尿病を治すことを拒否し通した。そのことも、小生は、彼が亡くなったあとで、追悼番組かワイドショーの中で知ったのだった。
人は誰でも、というわけでもないのかもしれないが、いつの頃にか、自分はこれをやり通す、自分は誰が何と言おうと、あるいは周囲の誰にも理解されなくとも、自分が背負った課題や役割を生涯背負い通すのだと覚悟する日が来る。それは、誰彼の前で為される決意表明ではなく、だから、そんな決意を胸の奥深くで為されていることなど、親兄弟だろうと、配偶者だろうと、親友でさえも、知らない。そう、空の星だけが知る、静かな密やかな決意と覚悟なのである。
その決意の内容が、たとえ、オレは一生、路上のゴミを誰に見られることのない、未明に拾い続ける、掃き続ける、というものであるのかもしれない。自分にできることは、実に小さい、あまりに少ない、人に誇れるようなものでは到底ありえないと思う…。人の力は、なんて弱いものだろう、自分はなんてちっぽけな人間なのだろうとも思う…。でも、こうすると
決めたこと、選び取った決意を担い、背負い通し、いつか、静かに朽木の倒れるように息を引き取るまで遣り通す、それが大切なのだ。人とはなんて、悲しい、凄まじい、けれど、素晴らしいものだろうと、そんな人を遠くで見るとき、心に痛く思ってしまうのである。(04/11/11 up時記す) ]
52.ネット上のヒロイン追悼
この17日、ネット上のヒロインが亡くなられた。
才能に満ちた女性だった。何かのキーワードを得ると、すぐに小説のアイデア
が浮かぶという着想の豊かな人だった。
初めてお話を書いたのは、小学校の5年のときだったという。読書感想文など
で、小学生時代から受賞歴多数。夜、眠りにつく前に布団の中で考えることは、
小説の続き、という人だった。死ぬまで小説を書きつづけると言っていた。まさ
に創作の申し子のような方だった。特に童話や児童文学が得意な方だった。
好きな小説は、カフカの『城』。好きな映画は、『スタンド・バイ・ミー』。
好きな漫画は、楳図かずおの『ママが怖い』という人だった。
宗教については、何を信じようと自由と答え、世界平和は実現しないでしょう
と答え、超能力やUFOについては、何があっても不思議ではないと答える人だっ
た。
本については、他人の触った本は気持ち悪いからと、新刊で買うという人だっ
た。恋人はいますか、という問いには、キンセンガメのカメ子ちゃんと答える人
だった。
何をしているときが一番楽しいですかという問いには、本を読んでいるときと
答え、あなたの人生の支えはなんですか、という問いには、自分自身と答える人
だった。
どうして小説を書くのですかという問いには、書かずにいられないと答え、小
説を書いていて嬉しい・楽しいときはどんな時ですかという問いには、書くこと
自体と答える人だった。
多くの懸賞サイトに応募し、その幾つかには入選し、大賞を、佳作や奨励賞を
受賞された。あるいは選外となることもあったが、そんなことにめげるような人
ではなかった。常に前向きの人だった。明るさを装い、実際、明るい人だったけ
れど、でも、その一方ではとても繊細で孤独な方だったに違いない。
どこかせっかちなところがあって、その性格が小説作りにも現れていた。何か
着想が浮かぶと、とりあえず創作に着手してしまう。彼女の目には、はるか遠く
の山が、すぐそこにあるかのように思えてならないのだ。手を差し出せば、簡単
に届くかのように思えてならないのだ。そう、感じたら、居ても立ってもいられ
なくなってしまうのだ。
けれど、創作など、そんなに甘いものじゃない。いざ、書き出してみると、恐
らくは、ご自身は、あまり多くは語らなかったけれど、どう表現すればいいのか、
どんなふうに話を展開したらいいのか、さんざんに呻吟したに違いない。
その創作の過程において、彼女の繊細の精神が発揮される。妥協を許さない創
作魂が熱を帯びる。アイデアという目の前にぶら下がったニンジンを何処までも
追いかけるんだという前向きの姿勢が、彼女を駆り立てる。
創作を開始する上での資料を集めようとは考えなかった。とにかく、表現した
い、書きたい、ストーリーを考えたい、登場人物を生き生きと動かしたい、読む
人をあっと言わせるような意外性のある世界を創出したい、読む人を心底から楽
しませたいという、ひたすらにその願望というより渇望で創作の世界に飛び込ん
でいったのだ。
彼女の中には、何か、いい意味で成熟していないものがあった。だからこそ、
童話や児童文学に深く関心を持ち、自身、そうした分野での創作を楽しんだのだ
ろう。
未熟な心。大人になっても、大人になりきれない初心な心。
が、それは、しかし、思慮に欠けるとか、経験が足りないとか、世俗に塗れる
のが嫌いだとか、幅広い交流が嫌いだとか、まして、人間が嫌いということでは、
決してないのだ。
そうではなく、人間の可能性を、そして物語の可能性を信じたいということを
こそ、意味しているのだ。殺伐とした現実の世界に絶望したり、世間って、こん
なものだよと決め付けることは、案外と楽なものだ。一旦、決め付けたなら、あ
とはもう何も考えなくていい。迷わなくていい。白黒がハッキリする。なんて楽
なんだろう。
しかし、大人になり成熟し、人間の怖さを知り、多くの大人が安逸に堕して行
く中で、敢えて子どもの心を持って世の中を、そして人間を見つめ、そして感じ
るというのは、とんでもなく勇気のいる所業、覚悟の要る難行なのだ。
心と体の表面にバリヤーを張って、そして外界のどんな刺激も撥ね付けて生き
ていけたら、どんなに楽なことだろう。
が、凝り固まった成熟を選ばず、どこか未熟な心を心中に秘する人は、表面の
勝気や言動の辛辣さにも関わらず、というより、むしろ見かけとは逆に内面に弱
いもの、柔らかなものを抱きつづける。その心の可能性を信じたいからこそ、も
う、これ以上、心をカラカラに乾かせたくないからこそ、表面は辛辣だったり、
世の中に対してニヒルだったりするのだ。
実際、時にニヒルを装う彼女は、そんなふうにして、自分のともすれば砕けや
すい心を守っていたのではなかろうか。
二十日には、告別式が営まれ、火葬もされたとか。
棺の中には、彼女が愛用していた香水を含ませたスカーフ、手紙と、掲示板な
どへ多くのファンの方々の膨大な書き込みをプリントアウトして収められていた
とか。
今ごろは、彼女のこと、あの世でせっせと返事を書いていることだろう。
ネットの世界の死は歯痒いものだ。真相が分からない。自分で確かめに行くこ
とも出来ない。情報を待つだけ。本人ではなく、娘さんによる報せを待つしかな
かった。最後の最後まで嘘か間違いか、悪戯であって欲しいと願っていた、のに。
そして、多くの彼女のファンの方たちは、実際に彼女に会ったことはない。その
人の顔、表情、仕草、髪、服装、歩く姿、後ろ姿、手の温み、踵の動き、肌の色、
爪の色、身長、体重、正確な年齢、日常の交遊関係、その全てを(間接的にしか)
知らない。
でも、長く、ネットを通じてであっても、付き合っていくと、自然と人柄が偲
ばれてくる。人格が透けて見えてくる。ちょっとした化粧や見栄など、剥がれ落
ちていく。いつしか、心と心が通い合ったり、励ましあったりする、そんな現実
の存在していることが、ひしひしと感じられる。
パソコンを通じた、虚の世界ではなくなり、はるか彼方(あるいはすぐ身近な
のかもしれない)の相手の存在が気になってならなくなる。自分のことを気にし
てくれているか、気になってならなくなる。
最後の最後に残るものは、気持ち。心。
彼女の現実の活動は、もう、この世では展開されることはない。けれど、ネッ
トの空間に残った彼女の文章、彼女の巻き起こした波紋は、幾重にも波が重なっ
て、無数の人々の心に伝わっていく。
そう、一旦、この世に生じたものは、消えないのだ。志しあるものがあとに続
く限りは。
合掌。
03/10/23 記
53.田尻宗昭氏のことをラジオで
お盆休みに入り、小生の仕事もいつも以上に暇である。御蔭でというべきなの
か、ラジオに耳を傾ける時間が長くなる。お客さんが乗っておられる時は、原則
としてラジオは消すか、ボリュームを下げる。天気情報や交通情報が必要なので、
最低限の情報入手の要のため、消さないことが多い。
で、月曜日は、「評伝 環境の思想人たち」というテーマの一環として、「水
俣の闘士 川本輝夫〜熊本県・水俣病」をタイトルとして、川本輝夫氏の話を若
干聞くことが出来た。内容は、NHKの案内によると「水俣病患者連合を創設し、
患者救済のために先駆的な役割を果たした故川本輝夫さん。彼の戦いと苦悩の日
々を、その日記や当時の資料などから検証する。」というもの。少なからぬ人が
聞きかじっている話だろうが、改めて聞くと(但し、途中でお客さんをお乗せし
たので、断片的にしか聞けていない)、その戦いの凄まじさが感じられる:
http://www2.ocn.ne.jp/~tutimoto/sub3.htm
火曜日は仕事ではないので、ラジオは聞いてない。内容は、「山里からの叫び
佐藤鶴江〜宮崎県・土呂久公害」 をタイトルに、「ヒ素中毒により視力を奪われ
た佐藤鶴江さんは企業を糾弾し、被害者すべての思いを訴え続けた。彼女の墓碑
に刻まれた言葉に込められた深い意味とは?」というもの:
http://www.kumanichi.co.jp/minamata/kankyo/kankyo03.html
水曜日は悲しいかな、かなりしっかり聞くことが出来た。「海のGメン 田尻宗昭〜三重県・
四日市公害」 がタイトルで、「'69年四日市沖、密漁を取り締まる田尻宗昭さん
に向かって、漁民が怒号を浴びせた。漁場を汚染された彼らは、密漁で生活を支
えるしかなかったのだった。」というエピソードから話が始まった。
昨日はさらに、ラジオ再放送の形で、薩摩焼陶工第14代沈壽官氏の話があっ
て、実に感銘深いものだった(下記は、違う番組のもの:
http://www.bs-asahi.co.jp/bsasp/bsasp_16.html )
松を燃やすことで窯の火が活きる。そうである以上、松に恥ずかしくない仕事
をするのだ、松に感謝の気持ちを忘れてはならないのだ…、ひたすら感謝の念を強
調されていた。実るほど頭の垂れる稲穂かな、なのだろうか。
さて、田尻宗昭氏の話に戻る。小生が彼の名を知ったのは、いつだったろうか。
高校時代には彼の名がテレビのニュースでも登場していたような気がする。えっ?
役人にもこんな正義感の強い人がいるの? 信じられない、というのが正直な感
想だった。
やがて小生が大学に入った頃、氏の戦いが書かれた有名な、『四日市・死の海
と闘う』(岩波新書)が出た:
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/1/4111160.html
田尻宗昭氏の生涯については、下記のサイトが参考になる:
「海のGメン 田尻 宗昭」
http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/sisetu/tiiki/mini/tajiri/tajiri.html
さて、「'69年四日市沖、密漁を取り締まる田尻宗昭さんに向かって、漁民が
怒号を浴びせた。漁場を汚染された彼らは、密漁で生活を支えるしかなかったの
だった。」というエピソードから昨日の話が始まったと、書いたが、漁民の怒り
の理由が、上掲のサイトでは、以下のように書かれている:
「李ライン警備のあと、数カ所を転任し四日市の警備救難課長となる。着任した
田尻を待っていたのは、伊勢湾の密漁船取り締まりだった。連日のように密漁船
を捕まえる生活だった。ところが捕まえた漁民の一人が「誰が好きこのんで密漁
などやるもんか」昔の伊勢湾は魚の宝庫やった。そこへコンビナートがきて、わ
しらの魚を根こそぎ殺してしまった。食うていけんからやるんじゃ。漁場を荒ら
した工場こそ犯人や。それを取り締らんで、わしらだけ捕まえるのは、あんたら
企業の手先か」と訴えてきた。これは田尻にとって、頭をぶん殴られるような大
ショックだった。水産資源保護法には、魚類に有害なものは水面に捨ててはいけ
ないと定めてあるが、魚屋が海へ捨てる魚のあらには適用されても、工場排水に
は適用されていなかったのだ。」
蒙を啓かれた田尻が、本当に相手にすべきは漁民ではなく、公害を垂れ流す企
業なのだと悟るのである。しかも、そうした企業を後押しする通産省など国の姿
勢が深く絡み合っている。実に困難な、勝利を確信できるとは言い難い戦いの日
々が続いたのである。
四日市で戦った田尻は、ついで、当時の美濃部東京都知事に迎えられ、日本化
学工業の六価クロム事件に遭遇することになる。
水俣病、そして四日市、凄まじい粉塵や排気ガス。そうした公害が小生に企業
活動への偏見に近い眼差しに繋がり、また公害を後押しする行政への不信が銀行
や役所そのものへの小生の不信に繋がってしまった。
若い、小生の早計な断罪だったのかもしれない。
しかし、水俣病一つ採ってみても、何よりも経済活動優先、国家の計画優先、
企業優先などの姿勢が変わったとは、あまり思えない。
公害の怖い点は、常に新たな公害が生じることだろうと思う。企業が生産活動
の一つの側面として硫酸などを海に垂れ流すのが、誰でもがやっている当たり前
のことで、しかもそれを通産省も容認していたことでも分かるように、それが当
時としての常識だったのかもしれない。
そこに正義感を持ち出すほうが異常だったのだとさえ、極論できる。
だとしたら、今、恐らくは新たな公害が生じているのかもしれないのだが、そ
の公害が、多くの人々には、そして小生自身にも公害ではなく、これが当たり前
の風景と見えている…。その現象の背後に実は厳然と今、新たな公害が生じつつ
あるのかもしれないし、それが常識というクモリガラスの故に見えていないとい
う可能性が非常に高いのではないかと思う。
その生じているかもしれない公害に気づくのに必要なのは、青い空や青い海、
白い雲、澄んだ空気と水、豊穣な土、濃い緑の世界こそが、実は最高に豊かで掛
け替えのないものだという案外に素朴な感覚なのかもしれない。
闘いへと立ち向かうのは、結局は勇気と正義感なのだとしても。
03/08/15 記

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