黒 の 河

                                         (02/6/29 up)






 俺は無性に腹が立っていた。お袋のこと、仕事のこと、あいつのこと、親父の こと。そして自分のこと。
 お袋は何だってあんなに年老いてしまったんだろう。この数年でびっくりする ほどに痩せ衰えてしまった。
 でも、親父にすれば昨日の今日で、別段、お袋が急に老いたわけじゃないとい う。
 そうか、久しぶりに帰郷した俺だけが迂闊だったんだ。余計な心配も掛けたし、 俺のせいで老けたんだと思うのは、俺の思い過ごし、時の流れが俺たちをも確実 に何処へともしれない彼方へ押しやっていくだけのことなのだ。
 ただ、道楽息子の御帰還を喜ばせようと、不意を襲ったのがいけなかったのだ。 庭先で立ち木鋏を持ったまま、唖然と立ち尽くす親父の目。
 その目の奥に、また何かやらかしたのかという、怯えの色を俺は見過ごすこと はできなかった。
(何だよ、俺は、もう、あんたにゃ、邪魔者なのかよ!)
 俺は、そんな言葉を喉に押し込むのに懸命だった。馬鹿なことを口にしなくて よかったと心底、安堵した。何故なら、親父の背中が微かに曲がっていたのだ。 麦藁帽子や肩に降り注ぐ陽光さえ、重そうに見えた。
 そして、親父の目にある怯えは、実は、老いに伴って漂い始める、思わず知ら ずの弱気の色に他ならないことを感じた。
 思わず俺は、不覚にも涙を流しそうになった。
「お袋は?」
「ああ、これから買い物に行くからって、化粧してるよ。行って、顔を見せてや れ、歓ぶぞ。」
「うん。そうする。」と言って、家に入ろうとしたら、
「ああ、ちょっと待ったほうがいいかもしれない…」と言った。
「どうして? いいじゃないか、水臭い」と言って、「かあさん!」と叫ぶ声を 背に、そのまま入っていった。それがいけなかったのかもしれない。
 そこには一人の老婆がいた。化粧鏡の前で、白髪を染めようと夢中になってい るのだった。この前、最後にお袋を見た時も、年にしては髪が真っ黒だし、きっ と染めているだろうなとは、鈍感な俺だって察していた。女心という奴だ。いつ ぞやの親父の話で、病気のせいで、お袋が総入れ歯にしたことだって知っている のだ。この俺も腹の出たおっさんになっているんだし、当然じゃないか…。
 しかし、髪を染める前のお袋は、痩せさらばえた見知らぬ老女だった。瞬間、 安達が原の鬼女かと思った。俺は、目のやり場に困った。口に出すはずの言葉が、 宙に浮いてしまった。
 俺以上に驚き慌てたのは、お袋だった。可哀想なくらいだった。今度こそ、涙 が溢れそうになった。世界に俺一人だったとしても、嗚咽したかもしれなかった。
「ああ、祐介、お帰り。疲れたろう」
 口元だけは、しっかりしていた。フガフガの口の奥の救いようのない深淵を眺 めずに済んだだけでも、助かったと思った。
「突然で、驚いた? 急に休みが貰えたもんだからさ」
 そう言って、俺は、居場所を探した。電気の点いていない居間は、一層、侘し く感じられて、一人では足が向かなかった。
 気がつくと、奥の縁側にいた。日に焼けて変色したカーテンと埃の積もったガ ラス戸を開けた。庭を見ようと思ったのだ。
 ガキの頃、一人でボンヤリしたいときは、よく、縁側の廊下の縁に坐って庭先 の虫けらを眺めたり、姿の見えない鳥の鳴き声に耳を傾けたものだった。
 が、足元のコンクリートの土台に、黒っぽい帯が見えた。それは無数の蟻ども の列だった。座敷の下の何処かから、庭の松の木の根元辺りまで、蟻の黒い帯は 蜿蜒と続いているのだった。
 ふと、俺は家を飛び出した頃のことを思い出した。その前の日、やっぱり縁側 に佇んでいた俺は、こうして蟻の黒い河を眺めていたのだ。そのうちに、俺は無 性に腹が立って、庭に散水するためのホースを引っ張ってきて、黒い大蛇のどて っ腹に水をぶっ掛けてやったものだ。
 奴は、一瞬にして粉々に砕け散った。それでも俺は容赦しなかった。引き千切 られた無数の肉片をも、凶暴な水圧で押し潰そうとしたのだった。
 その翌日、俺はオートバイに跨り、東京へと向かった。田舎は五月晴れだった のに、碓氷峠に近づく頃から俄かに掻き曇り、やがて一気に土砂降りになってし まった。合羽を用意してきたのだけれど、いつの間にかリアシートは、だらしな く絡み合うゴム紐だけになっていた。
 若かった俺は、それでも我武者羅に走った。一気に東京へ向かった。何処かで 一休みするなんて考えはまるでなかった。やがて、体が寒気で震え始めてきた。 必死になって体を緊張させ、震えを堪えながら走った。そして走りきり、東京の あいつの部屋に倒れこんだ。それから三日三晩、寝込む羽目になった。
 蟻を苛めた報い? しかし、あの頃の俺は、熱に浮かされる苦しい時をやり過 ごすことが出来たんだ。
 俺は、急にまた、蟻どもに散水してやろうかと思い始めた。いや、それだけじ ゃ、気が済みそうにない。今度は、俺の足で踏み潰してやるのだ。あの日は、中 途半端だったんだ。だから俺は錦を飾ることができなかったのだ…。とことん、 やってしまえば、熱に魘されるだけじゃ済まない筈だ。
 そう思うと、衝動を抑えることは出来なかった。俺は靴下を剥ぎ取った。やる んなら徹底的だ! 
 コンクリートの上をくねる黒い大蛇の腹を裸足で思いっきり踏みつけた。けれ ど、キューという鳴き声の一つも上がらなかった。それが腹立たしかった。せめ て一声、泣いて見せろよ。詫びを入れてみろよ! ええ、何、我慢してるんだ!
 が、大蛇は、どこまでも押し黙ったまま、無数の肉の塊へと潰れていくだけだ った。足の裏は汗と脂と怒りと涙で、グジャグジャだった。俺が生きていると感 じられるのは、こんな瞬間でしかないのか…!
 やがて、悲しみ以上に残酷な沈黙が辺りを支配していた。残ったのは、蟻の葬 列、そして俺の夢の骸。

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